「決定版・憲法無効論は破綻した論理」の質疑応答
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保守系のSNSサイト「my日本」でも「
決定版・憲法無効論は破綻した論理」を掲載したところ、
数多くの質問を受け、有意義な質疑応答ができたと思いましたので、
ぜひ多くの人に見ていただきたいと思い、要点をまとめてここに掲載します。
本当のQ&Aなので読み応えがあると思います。
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Q:最初の、ロシア⇒ソ連⇒ロシアの場合と、
日本の場合は革命が起こってなくて、皇室が存続しているという点で、
ぜんぜん違っているので、例えとしてどうなんですか?
A:それが素朴な疑問でいいんです。
私は革命が起こったなどと考えていないし、
帝国憲法体制と現行憲法体制は連続していると考えています。
問題なのは、現行憲法が国家としての憲法であれば、
革命が起こった、すなわち国体が変更した、と考えるのが、
憲法無効論と左翼憲法学なんです。
憲法無効論は、「しかし、現行憲法は無効なので革命は起こっていない」と言い、
一方で左翼憲法学は、現行憲法は有効なので、
(法的に)革命が起こった、と主張しているのです。
現行憲法は無効だったら革命ではない、有効だったら革命が起こった、ということですね。
じゃあ、有効か、無効か、という効力論争になると、
ロシアやフランスの例を見てもわかるとおり、
現行憲法について「憲法違反=無効」と考えないのが、法学一般論です。
ということは、憲法無効論は学術的に敗北→革命完了→戦前と戦後は国家断絶。
こういう結論になるのです。
一方で、我々、帝国憲法改正からの現行憲法有効論は、
戦前と戦後の分断を認めていない。
憲法学会の通説は八月革命説ですが、
日本政府としての建前は、かろうじて連続説を採用している。
その建前である連続有効説を攻撃しているのが憲法無効論なんです。
はっきり申しまして、あさっての方向に向けて鉄砲を撃っている状態なんです。
本人らは愛国のつもりでやっているんだろうが、
弱い味方は敵よりたちが悪いというのはこのことだと思います。
良しと思ってやったことが敵の利益になってしまっているのですから。
つまり、すごく狭いところだけを見ていて、本質が何も見えていない典型でしょう。
はっきり申しまして、思想の善し悪しと、
レベルの高い低いは明確に区別しなくてはなりません。
憲法無効論は残念ながら憲法学の素人集団なんです。
Q:ロシアの場合も、以前の憲法には「違反」しているが、
それは単に「違反」であって「無効」ではない、ということで理解したらいいのですか?
日本では革命が起きていないし、国体も変更していないので、
帝国憲法は存続していて、それが存続しているがゆえに、
日本国憲法は、その改正規定に「違反」する、
でも、それはたんに「違反」であって「無効」とはならない、ということは理解しました。
A:そうですね。
以前の国が存在しないから新しい憲法をつくれるのではなく、
憲法が法体系の頂点にあるから、それをしばる存在がないので、
国家の中で憲法が機能した以上、
前の憲法と関係のない独立した憲法が成立するということです。
要するに、憲法と一般法の関係では「違反=無効」ですが、
憲法と憲法の関係は「違反=無効」にはならないということです。
だから、現行憲法は帝国憲法に反しているから無効ということはできず、
実効的に機能しているかどうか、ということで有効か無効かを判断することになるのです。
天皇陛下、国会、内閣、司法、行政のすべてが日本国憲法を憲法という前提で動き、
国民の99%以上が憲法だと認識している。
これを法学的に妥当性・実効性を満たしているといいます。
一方で、貴族院、枢密院はなくなった、華族制度はなくなった、という状況で、
帝国憲法が現存しているなんて言うのは、ほぼファンタジーの話であって、
こういうのを学問レベルでは、妥当性・実効性がないというのです。
Q:「現行憲法が無効ならば、・・新しい国になる」これは、詭弁ですね。
憲法として無効であるということは、他に憲法があるという意味です。
当然それは大日本帝国憲法になります。
A:それはあたなの個人的感情に過ぎず、法学としては、
憲法というのは国家の中で法体系の頂点に位置するので、
無効にする法的根拠は存在しません。
前の憲法があってそれに違反するというのであれば、今の憲法を国家が憲法として運用し、
法秩序として機能している以上、
前の憲法と関係のない独立した憲法が制定されたと考えるのです。
なぜなら法というのは公平性と客観性が求められるからです。
近代法というのは、法の中身は各国様々ですが、
国家と憲法の関係、国家の法運用というのは共通性が求められます。
良くないことですが、やむを得ない事情でクーデターを起こした国などで、
前の憲法に違反するからといって、
二度とそのあとの政権の憲法が有効にならないというのでは、
憲法学そのものが成り立たないからです。
要するに法学上、憲法を無効にすることはできないのです。
憲法の無効理論そのものが近代法学に基づいているのであるから仕方がない。
所詮は法学上のことなので、別に手続き論にこだわる必要はなく、
改正であっても、正しい憲法を持てたらいいじゃないか、って思っているのですが。
Q:「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ」の御告文にもありますように
明治天皇は、国体より典範、憲法は作られたと御奉告されておられます。
谷田川さんは 明治天皇が皇祖皇宗の神霊にお誓いになったことをどう思われますか?
A:その言葉を心の中で昭和天皇に問いかけてみてください。
昭和天皇が明治天皇をどのようにお考えであったか。
先帝陛下は大正時代から摂政をお務めになり、大日本帝国憲法下で即位されたのです。
そして大変に祭祀を大切にされたのも明治大帝から継承されているものと拝察しております。
私など比較することもおこがましく、遙かに明治天皇への思いが強い先帝陛下が、
なぜそのようにお考えになったのか。
私はそこがもっとも大事なのではないかと思うのです。
先帝陛下は大東亜戦争の開戦前に明治天皇の御製を詠まれたのですよ。
そもそもあんな敗戦は異常なことです。
そんな中で先帝陛下はどのような思いで国の再建を願い、それに向き合っていかれたのか。
私はそのお心の中心には常に明治天皇があったと拝察しています。
ですから、私は昭和天皇の詔は、明治天皇はもちろん
皇祖皇宗にしたがったものであると考えています。
Q:中身はコーヒーなのにラベルに日本茶と書いてあったら、
それは日本茶として飲まれるのでしょうか。
A:例えが適切ではありません。
南出氏がよく言う憲法という名前が付いていても憲法ではないというのを
まねておられるのでしょうが、憲法として運用できるものは憲法です。
内容が納得がいかないから憲法ではないというのは、法学論では通用しない話です。
よくそれなら法学が間違っているという人もいるのですが、
法学というのは国家と法律の関係性を客観的に示すものですから、
間違っているとか、間違っていないとか、そういうものではありません。
歴史・伝統に基づく憲法を、法学に則り運用するのが法治国家です。
“保守”の立場の人間は、歴史・伝統を軽視してはいけないし、
法治国家である以上、一方の法学を軽視することもできません。
法学を尊重しつつ、帝国憲法からの法的連続性を尊重するなら
改憲論しかないということを私は述べているのです。
Q:近代憲法にはその上がないことを前提にしているが、日本には國體という概念があるから、
それを最上位に考えれば憲法を改める、または廃止する、さらには無効とすることも、
理論として成り立つのではないか。
A:政治概念としては理解しますし、私も賛同しますが、
法学上は成文憲法が法体系の頂点になりますから、
それを無効にする法的根拠は存在しないのです。
そもそも無効だと言っている理論が、近代法理論を前提にしていますから、
どうしようもないですよ。
Q:ロシア革命→ソ連→ロシアの理論は、
革命を経て憲法を作り直し、それを有効とする訳でしょ。
これって、革命国家の憲法理論ではないですか。
フランス憲法もこの繰り返しでした。
これは革命国家の憲法ならあり得るわけですが日本は革命国家ではないから、ありないです。
土俵が違うから、それを安易に比較すること自体がお粗末な議論です。
A:これは典型的な素人の思いつきの反論です。
フランスの第三共和政から第五共和政までは革命じゃないですよ。
そもそも近代法に基づく国家と法の関係性は、公平性や客観性を求められるわけです。
国家の法体系というものを考えたときに、
憲法が頂点だから、憲法を無効にする法理論は存在しない。
ごく当たり前のことを述べているだけ。
これはどの国にも当てはまる客観性です。
革命国家の憲法理論ではありません。
前の憲法と連続性が切れたら二度と憲法が効力を持つことはないというのは
ありえないという普通の法学一般論です。
Q:旧権力を倒してできた新しい権力の国家(革命ですね)なら
これは適用されるかもしれませんが、
それとも日本は戦争に負けてから革命でも起こって国体が代わったのでしょうか?
A:これは南出氏を筆頭に新無効論の人々が八月革命説を理解していなかっただけです。
一般的にもよく革命の文字に目をとられて勘違いするようです。
ただ、法学の世界では八月革命説を誤解している人はいません。
新無効論の人たちは、帝国憲法に違反イコール無効、だと思っていたようですが、
憲法というのは法体系の頂点なので、憲法を無効にする法規範は存在せず、
前の憲法との関係性で違反状態にあるのであれば、
前の憲法と関係のないまったく別の憲法になるだけです。
宮沢俊義は、今の憲法に存在する効力の源泉は、帝国憲法と関係なく、
独立した憲法として生まれたものであり、法的に国家が断絶しているのだと言った。
これを八月革命説と定義したわけです。
一度、国家と法律の関係性で、妥当性・実効性を備えた憲法は、
無効にする法理論、法的根拠が存在しない。
その中で帝国憲法に照らして、憲法を無効だと言えば言うほど、
八月革命説を裏付けることになるだけです。
Q:日本国憲法は憲法ではなく、講和条約の一部としては有効だと言うのが
真正護憲論なんですが、日本国憲法が憲法としての効力がない一番大きい例として
自衛隊が憲法9条に違反しているあたり、効力がないと思われますが?
A:自衛隊の攻撃機に地上攻撃能力が外されていることや、
中長距離弾道ミサイルを保有できない、集団的自衛権が認められない、
という行動をとっているのは、憲法9条があるからです。
講和条約説でも帝国憲法に反しない部分で有効だと言っているのですよね。
憲法9条は帝国憲法に反しているじゃないですか。
政府が憲法9条に沿って自衛隊を運用しているということは、
帝国憲法に反した憲法第9条が、わが国で実効性を持っているということです。
Q:憲法を無効にする法理論はないのでしたら、国体に反する憲法でも有効というわけですか。
天皇制を廃止した憲法でも?
これを「そうだ」と仰るのでしたら、革命国家の憲法理論です。
A:政治論として絶対にやってはいけないことと、
法理論というして効力があることは別の話です。
法理論というのはそういうものです。
特定の立場のために存在するのではなく、
どのような立場に対しても一定の客観性が求められるのです。
法哲学、法概念論一般に、革命国家のための憲法論理など存在しません。
Q:そもそも近代法学自体に我が国の国体と憲法の関係を説明できない
限界があるのではないですか。
A:それは違いますよ。
わが国の国体は法学ごときでは説明できるものではありませんが、
明治に帝国憲法を導入したことは、近代法治国家として近代法原理に基づいているのですから、
近代法として無効を主張するなら当然に近代法の範疇で憲法を論じなければならないのです。
帝国憲法の根幹は法学で説明できるものではありませんが、
大日本帝国と憲法の関係性は近代法理論に基づいているのですよ。
日本国内だけのことなら憲法はいらなかった側面がありますが、
対外的な近代国家としての形態を保つため、帝国憲法を制定したのです。
近代国民国家としての帝国憲法ですから、
それに基づく法理論は、当然に近代法学になるのです。
Q:やはり帝国憲法は法学だけでは説明できないという部分が重要なのではないでしょうか。
確かに、帝国憲法は近代化の流れの中で対外的に作られたことは事実だと思います。
ですが、結構、無理してプロイセン憲法を範にとって、作ったものですよね。
そもそも、ヨーロッパの制度を導入したからといって、
近代法学の中でしか憲法を論じられないというのは、おかしいですよ。
A:やはり憲法そのものの内容と、近代国家として憲法を運用することと
混同されていると思います。
いま憲法無効論者が言っている無効理論というのは、
近代国家が憲法を運用することに関してのことです。
ハーグ条約違反なんていうのはまさにそれ。
帝国憲法75条違反も同じ。
唯一、近代法に基づかない無効理論というのは改正限界説ぐらいかな。
ただし、改正限界説も憲法学の議論ではもっと奥深く、
何をもって改正限界を超えたかというのは客観的に立証が困難で、
改正限界説の中でも通説は存在しないと言っていいのではないでしょうか。
現行憲法においても9条を変えることは改正の限界を超えるという人もいれば、
東大憲法学がつくった三大原則を変えることが改正限界だという人もいます。
ちなみに東大憲法学を作った宮沢俊義も改正限界説に基づき、
限界を超えたという主張なのです。
だから法学にしたがい、現行憲法は帝国憲法と関係のない独立した憲法なんだと主張した。
法学そのものは間違っていないのだけれど、法学を駆使して革命説を導いたのです。
宮沢が改正限界を超えたという理由は、
天皇主権から国民主権に変更したことは根本的な統治権が変更しているということです。
しかし、これはおかしくて、帝国憲法も立憲政治に基づき
天皇を制限する条項が規定されています。
戦前の日本は天皇主権ではない。
そもそも天皇主権でないものが、天皇主権から国民主権などになるわけがない。
その点から我々は八月革命説に対して批判しているのです。
八月革命説は法学としては間違っていないのだけれど、
根拠としている“事実”が間違っている。
ところが憲法無効論は、改正の限界を超えたという“事実”のところで八月革命説と一致して、
法学で戦おうとしているから、そんなもの勝ち目がないし、
バカにされて終わると警鐘を鳴らしているのです。
憲法論議で左翼に対して、事実と法学を一致させて勝つためには、
まず現行憲法が帝国憲法の改正限界を超えたということを認めないことです。
法学を無視して政治論だけで多数派を形成できるほど、
政治の世界や学問の世界は甘くないので、すべての面で条件を満たし、
政治上・学問上、通説とできるのは、改正限界を認めない現行憲法有効論なのです。
ちなみにもっと単純な改正無限界説というのがあって、
憲法といえども法律である以上、改正内容に限界はない。
例え、現行憲法が革命憲法であっても、ひっくり返されたのであれば、もう一度ひっくり返して、
日本国憲法を消し去る。
革命憲法が憲法であった不幸な事実があったことは残るが、それも日本人の責任なので、
日本国憲法を完全に消し去って、忘れ去る。
まあ、結局は私の主張と近い部分はあって、
私は天皇陛下がおられたからこそ、「改正手続き」だったのであるから、
再び「改正手続き」を行ってもGHQ憲法を持ち続けることにはならないという考えです。
要するにこれから日本国が憲法として使うものが、
良くなればそれでいいじゃないですか、ということです。
法学的に破綻していることを唱えて
「無効じゃなきゃダメだ」「有効論者のお前は国賊だ」とか言う必要性があるのでしょうか。
私の出発点はそこなんです。
無効論も気持ちはわかるので、最初は理解していましたが、
改憲論者に対して国賊だ、何だ、って言い出したら、
あんたたちの論理の方が破綻してるじゃないか、ということです。
一見、自分たちの論理が完璧化したように錯覚していまい、
それに適合しないものはすべて排撃するという構図を生み出した。
それは理論が完全化したという典型的な左翼の行動原理です。
最初に純粋な目的意識があったのだけど、ご本人たちは気づかないうちに、
いつしかそれが左翼原理と構造が合致してしまったということではないでしょうか。
Q:帝国憲法の改正としての日本国憲法が、
天皇の一身専属権である帝国憲法第73条「改正条項」に違反していると言えますが、
近代法学には無効という法理が存在しないから、有効ということになるのですか?
つまり、この違反を容認できるのですか、
あるいは、これにどういう対処ができるのでしょうか。
A:まず、誤解のないように説明しておきますと、近代法学に無効という法理がないのではなく、
法体系の頂点で機能している憲法を無効にする法理論が存在しないということです。
機能していなければ無効にできます。
ですから、占領期間中は憲法が施行されていても主権がないので
機能しているとはいえないので、
主権回復後、現行憲法に実効性を持たせる以前であれば、
無効にすることができたと考えます。
それに基づきご質問にお答えしますと、違反を容認できるかどうかということは、
効力論には関係がありません。
帝国憲法からの連続性を認めている私の立場として、その件をどう考えるのかといいますと、
昭和天皇のお言葉や御製、行動などから上諭の文言が裏付けられると解釈し、
上諭には73条に基づき改正すると示されていることから、
法的瑕疵は治癒されていると考えます。
Q:日本国憲法の成立過程を個別事例だとすると、
その成立段階に重大な瑕疵があることはご存じだと思います。
にもかかわらず、近代法には無効とする法理は存在しないからといって、
この瑕疵を認めることができますか。つまり、有効だと言えますか?
A:それは今の状態を100%他人のせいにしている側面があるからではないでしょうか。
独立回復後、主権国家の行いは、すべてその国の責任です。
本来なら主権回復と同時に無効なり、改正をやっておくべきでした。
(このとき改正だけでもしておけば、占領期間中の憲法改正は無効だったことが確認できます)
主権回復して60年もたった現在、まだ占領中の瑕疵がどうこう言っているのは、
当のアメリカ人ですらびっくりするのではないでしょうか。
私はいさぎよく日本国憲法を憲法として運用した事実を認め、
一刻も早く日本国として正しい憲法をつくるべきだと考えます。
Q:素人ながら近代法以前から存在する日本の国体は、
近代法的な表現で表し切ることも、また、守ることも出来ないなと、改めて思います。
A:無効論支持の人は、基本的に相手の主張の理解に欠けると思います。
私が「近代法学で国体を守る、表現する」なんて一言でも述べましたか。
現行憲法の成立・運用の過程は、法学で見ればこうなると説明しているだけです。
無効論の人は例外なく国体と政体を混同していると思います。
国体のことは国体論や政治論で、政体のことは法学論で考えるのです。
そして国体論・政治論と法学論が正しく機能しているのが近代国家なのです。
法学というのは近代法治国家のために客観性が求められるのです。
国体論・政治論と照らして憲法がおかしいと思うのであれば、
客観性が求められる法学をねじ曲げるのではなく、
憲法を正しくするのが近代国家のあり方であると述べているだけです。
Q:日本には明確にそれより上位に国体が存在する以上、
これを守るためには国体自体からその下位にある憲法の価値を判断し、
その扱いを決めるというのが正しいものであろうと思います。
A:ですから、国体論と法学論の関係性から、
憲法を改正する必要があると述べているのです。
無効じゃなきゃダメだということもまた近代法学の中にいるということを
認識する必要があります。
私は国体論を否定しているわけもないのに、
あたかもそういうことを言っているように思いこんでいる人が多いです。
Q:帝国憲法に「違反=無効」だと思っているのではなく、
日本の国体に反するから日本国憲法は憲法としては、無効なのではないですか?
大日本帝国憲法という近代の話だけではないと思います。
A:南出氏が自分でつくって効力論争で持ち出された表を見れば、
無効理由のほとんどが帝国憲法違反でしたよ。
南出氏自身も自著で帝国憲法75条違反を中心に持ってこられています。
渡部昇一先生との対談でも、75条を論拠にしなければ駄目だろうって書いてあります。
あと、私はつい最近の南出氏の動画を見ましたが、
そこでも国体とは何ぞや、という話ではなく、まず帝国憲法を憲法として認めるなら、
そこから現行憲法に効力があるかどうかを論ずるべき、と仰っています。
また、チャンネル桜の討論会に出演された際も、政治学的、歴史学的なことよりも、
法学として専門的に効力論争をやるべきと発言されてました。
私の指摘に対して、南出氏が方向修正をされたのであれば、それはそれで構いませんが、
それだったら法学的な効力論争をやるべきなどと二度と発言しないことです。
Q:八月革命説については私はよくわかりませんが、
ご説明の中の、帝国憲法と関係なく独立した憲法として生まれた、というのは、
日本国憲法が帝国憲法の改正で成立したというのと矛盾しませんか?
A:八月革命説では厳密な意味での改正をやったのではなく、
改正手続きを儀礼的に利用して新しい憲法を生み出したという表現を使っています。
Q:関心をもってここでの議論を拝見しておりますが、1つだけ感想を述べさせていただくと…
新無効論を支持する方々が谷田川先生に反論をされる場合、
日本国憲法を有効と見なしている一事をもって谷田川先生が日本国憲法や
戦後レジュームを護持しようとしている、という批判や猜疑をぶつけるのが常態化しており、
現にここでもそのような書き込みが多く見られます。
しかし谷田川先生がこの日記で法学的見地から指摘なさっている内容は、
新無効論およびその支持派にとってきわめて深刻なことであり、
(日本国憲法を葬るメソッドとしての)新無効論そのものの存在意義を
根底から揺さぶるものであって、率直に述べさせていただくなら、
新無効論派の方々は谷田川先生個人の思想信条を詮索するような
悠長なことをしている場合なのだろうか、というのが正直な感想です。
私には、谷田川先生のこれまでのご活動やご発言のどこをどう見れば
現憲法・戦後体制の護持派であるなどという批判が出てくるのか
さっぱり理解できないのですが、
千歩ゆずって、仮に(誠に失礼ながら)谷田川先生が戦後レジュームの走狗、
敗戦利得者であったとしても(笑)、
谷田川先生が指摘された問題は問題として
新無効論に突きつけられ続けるのではないでしょうか。
すなわち谷田川先生がご指摘なさっているのは、
新無効論派の政治論的・政治哲学論的主張がいかに正しかろうと、
日本が近代国家・法治国家であるという厳然とした現実下では
その「正しさ」を実現させるための法学的根拠がない、
つまり近代国家・法治国家たることを維持したままで
日本国憲法を(破棄することはできても)「無効」にするすべはない、
ということではないでしょうか。
少なくとも私はこの日記を拝見して、
かつて倉山満先生が国会での過半数決議でなぜ日本国憲法が無効になるのか
さっぱり理解できない、とブログで述べられ、
結局日本国憲法を葬りさるには
『現憲法の全面改正』か『王政復古の大号令』の二者択一しかない、
と結論を下しておられる意味がはじめてはっきりと腑に落ちた感があります。
谷田川先生に対し近代法学への疑義や憲法に対する国体の上位・優越を訴えたところで
俗に言う「釈迦に説法」の観が私には拭えませんし、
谷田川先生ご自身そのようなことは百も承知の上で、
法学的解釈に立脚した南出氏の新無効論に対し
あえて法学的見地からその欠陥を指摘しておられる、ということでありましょう。
もしその指摘に対し、新無効論側から何らかの法学的論破がなされないならば、
それはすなわち「(占領憲法を葬るメソッドとしての)新無効論」の
完全敗北を意味するのでは?…と、私には思えてならないのですが…
A:ありがとうございます。
まったく私の主張を理解してくださっていると思います。
私は無効論者の人には別に賛同してただなくていいので、
まずこちらが述べている内容を理解してほしいと思っているのです。
その上で反論するなら、某か発展性のある議論ができるかもしれませんが、
ほぼすべてが私の主張を理解したくない、聞きたくない、認めたくない、
ということからの“抵抗”であって、それは世間的に断末魔の叫びと評されるでしょう。
“抵抗”、“断末魔の叫び”、になっているというのは、
それは学問ではなく宗教または信仰なのです。
学問であれば、批判されると学問的反論・立証を試みるものですが、
ご指摘のとおり、学問的に根底が揺らいでいるのに、ただ抵抗だけする。
もはや国体教といった宗教・信仰に近い。
国体を重んじることと、国体教団は別。
ただ、一つだけ確かなことを述べると、
学問的なことを無視した特定の信仰レベルのようなものが、
国家の中心政策になることはまずありえないということです。
政治の世界はそんな甘いものではありません。
新無効論者の人はこつこつ全員に広まったら実現できると思っているのでしょうが、
宗教で布教活動をしている人はみんなそう思っているのです。
そうならないのが現実社会です。
我々は現実社会を生きているのです。
その中で一歩でも二歩でも正しい選択ができるようにしていくことが
保守の真価であると考えています。
Q:やはり、近代法学を疑ってみて初めて新無効論は理解できると思いますが。
A:それは近代法学を曲げなければ、新無効論が成り立たなくなっただけです。
近代法学とは、国家と法の関係で客観性を求められるものですから、
新無効論のために近代法学を曲げるのではなく、
何度も述べているように伝統・慣習と近代法の整合性を考えるべきだと思います。
近代国家の道を捨てるというのであれば別ですが。
Q:独仏の成文法主義を念頭に置いておられるのでしたら、
日本の国体はなかなか説明できないのではないでしょうか。
元来、不文律であった国体をあえて文章化したものが、帝国憲法ですよね。
A:基本的な事実関係なんですが、明治の憲法制定論議のとき、
福沢、大隈らが英国の不文律をベースの憲法を主張したのに対して、
井上毅らによってドイツ、プロシア憲法を手本に作ったのが帝国憲法です。
さらには戦前に国体論からの憲法学を探究した清水澄、美濃部達吉、
佐々木惣一、尾高朝雄ら、みんな西洋の法学をベースに論考しています。
だから法学者は誰も憲法無効論を述べないのです。
Q:日本国憲法は成立過程において瑕疵だらけです。
ここはお認めになると思います。
だとすると、これは「伝統・慣習と近代法との整合性」は取れていないのではないですか。
つまり、憲法に見えて、憲法じゃないのではないですか。
A:私は現行憲法が伝統・慣習と近代法の関係において適切だとは述べていません。
現行憲法が最高法規となっている事実が存在しますので、
それならば現行憲法を伝統・慣習に基づき正しく解釈し、
一刻も早く伝統・慣習に沿った憲法を制定するべきと考えています。
近代法治国家の道を続ける以上は、無効にはできません。
ちなみに、南出氏をのぞく無効論支持のほとんどの人が言っているのは、
政治学的な話なんです。
政治学的に無効であるというのであれば、今の現状を取り除けばいいだけなんです。
正しい憲法を持つことができればいいはずです。
近代国家の憲法ということでは、帝国憲法は欠陥だらけです。
それは先帝陛下も側近に漏らしておられたこと。
帝国憲法のいいところは模範として、
現代人の手によって日本国の本当の憲法をつくればいいじゃないですか。
法学的な意味での無効でなければならないというのであれば、
法学に基づくべきだと思います。
それならやはり無効にする法理論は存在しないということになるのです。
Q:谷田川氏にとっての最高法規は日本国憲法かもしれませんが、
これは成立していないと思います。
せいぜい、講和条約、占領管理基本法が限度でしょう。
A:成立しているかいないかは、
残念ながら現実社会で憲法として機能しているかどうかということで判断されます。
公平性で考えたら、帝国憲法が現実社会で機能しているとはとても考えられません。
これは認めなくてはならない事実です。
事実から目を背けて理論に逃げ込んではいけません。
どうすれば「現実社会」に伝統・慣習をもとにつくられた憲法を機能させるか、
まずそこに全精力を集中させるべきではないかと考えます。
Q:憲法を無効にする法理論が存在しないのなら、
帝国憲法は現存しているのではないですか?
A:法理論上は無効にはなりませんが、失効することはあります。
法学では現在効力をもっている最高法規が憲法ですから、
現行憲法が帝国憲法と連続していないのであれば失効していることになります。
Q:やはり、ここは日本国憲法が憲法として有効であることを立証してからでないと、
論旨の前提が不十分に思えます。
A:南出氏がよく有効論なら有効性を立証せよと発言していましたが、
それは彼が独自に用いた「違反=無効」という前提の話です。
そこが崩れたのであれば、現在、機能している憲法が有効であるという推定が働きますから、
無効論者が無効であることを立証する責任が生じます。
つまり現行憲法が実効性をもっておらず、
帝国憲法が現在もなお実効性をもっているということを証明しなければならないのです。
Q:日本国憲法は憲法として機能していないと思います。
誰でもわかることと思いますが、自衛隊は違憲と言った方が正しいでしょう。
A:マッカーサーノートでは個別自衛権も認めない内容となっていましたが、
個別自衛権は国家の自然権であるとして、ケーディスが修正を加え、
さらに帝国議会での芦田修正なども加わり、
個別自衛権は認められるというのが立法者意志です。
その前提により自衛隊は存在しています。
条文の文理解釈により違憲であるという主張は成り立たないことはありませんが
(かつての社会党や共産党がその立場でした)、その立場は少数派です。
“かつて”の社会党、共産党と言ったのは、現在は合憲解釈に傾いているからです。
その理由は、かつては「違憲だから廃止しろ」という主張ができたのですが、
現在は「違憲だったら憲法改正して合憲にしろ」という論調が高まってきたので、
改憲を阻止するために「合憲かな〜」って言い出しています。
現在の日本で、日本国憲法は、政府行政、国会、最高裁判所で
その内容を実行させる力が働いており、国民一般もそれを受け入れています。
最高裁判例は明確に世の中で生きています。
これが法的な妥当性・実効性と呼ばれるもので、自衛隊の憲法解釈一つをとって、
現実社会で憲法が機能していないなどということにはなりません。
Q:もし、新無効論の運動が高まり、「改憲ではなく、帝国憲法を復元しなくては」という
国民世論が大勢を占めても、谷田川氏は改憲を主張されますか?
A:私は何度も述べていますが、無効論の論調が高まり、国会なりで無効確認したとしても、
法学上はそれは無効になってのではなく、国会で既存憲法を失効させて、
帝国憲法と一言一句同じ内容の新憲法を制定したことになります。
改正限界説を前提にそれをやると、「明治政府」と「昭和政府」、「平成政府」と
国家体制の法的断絶を意味しますから、私はなるべくならやらない方がいいと思っています。
しかし、政治学的に現行憲法を消し去ることを目的とするかぎりにおいては、
法学的には進められませんが、絶対に反対というわけではありません。
要するにクーデターと同じだということです。
なるべくならクーデターはやらない方がいいだろうという程度のことです。
国会決議でやるのであれば、三分の二の賛成を得て、
改正手続きにより帝国憲法と一言一句同じ内容の新憲法を制定した方がいいと思います。
Q:無効性の確認なくして、つまり本来の憲法の在り方からして
正統性がないという事実の確認もなされずに、
制限改正論をどう超えていくのか私のほうがわからない。
A:部分改正論はGHQ憲法のままです。
いわゆる「改正してもGHQ憲法」というものです。
日本国憲法を消し去るのであれば、全面改正論、すなわち新憲法制定しかありません。
やっかいなのは、自民党の新憲法草案を見ても現行憲法と同じ文言が入っていることです。
これを全面改正とは言わないでしょう。
自主憲法制定というのであれば、一言一句、変えなければなりません。
意味は同じことでも、一言一句変えなければなりません。
政治論、国体論として無効を実現するのであれば、
改正作業によって、日本国憲法を消し去ることによって実現可能です。
要するに帝国憲法の改正手続きを儀礼的につかって現行憲法を生み出したのであれば、
現行憲法の改正手続きをつかって、日本国憲法を消し去ることは可能なのです。
その上位の国体が一貫して続いているからです。
憲法典ごときで国体は揺らがないのです。
日本国憲法の生誕のいかがわしさを明るみにさらす意味では
憲法無効論の意義はあると思いますが、そこで止めておかなければなりません。
現行憲法は無効なのではなく、「本来なら無効」なのです。
当時の事情によりこの憲法をつかってしまったわけですが(その事情は私も納得できる)、
本来なら無効なのであるから、本来のかたちを法学も考慮してどのように実現するか、
それが全面改正による新憲法制定論だと考えています。
Q:法学的には脅迫で無理やり契約させられた契約は、無効にはならないのでしょうか?
A:法学的には詐欺行為や強迫行為は取り消しうるべき法律行為です。
取り消さなければ有効です。
無効は心裡留保、通謀虚偽表示、錯誤という、いわゆる意志の不在、
すなわち「意思の欠缺」とよばれるものと、公序良俗に反する行為だけです。
占領中の憲法改正は公序良俗違反に該当する行為だと言う人もいますが、
手続き違反を公序良俗に反するとは普通はみなされないでしょう。
いずれにしても憲法の場合は、法体系で最高法規に位置づけられますから、
法学上は無効理論が当てはまりません。
Q:国体というものについてどのように考えますか?
A:こう言うと元も子もないかもしれませんが、
私はそもそも「国体とは何ぞや」という話にはあまり関心がありません。
「国体とは何ぞや」と言った後に、
「国体はこうだから、こうすべきだ」と言っている人は、私の中では完全にアウト。
国体という「客体」を認識するのは「主観」(理性)ですから、
「国体とは何ぞや」ということにはそもそも客観性が備わらないのです。
「国体が存在していることは事実だが、それは明確にはわからない」
というのが正しいところだと考えます。
国体というのは歴史上の誰かが作ったのではなく、
ほっといたら自然と時間の中でつくられてきたものです。
だからこれからもほっとくしかない。
誰かが「これが国体だ!」って断言していたら、
国体を認識しているその人の主観(理性)が国体を超えて絶対になってしまっているのです。
それはもう左翼です。
民族左翼。
一見右翼に見える左翼による国家社会主義もここから発生するのです。
右も左も実は同じ。
一時期武士道というものが少し流行りましたが、それをあまり持ち上げることに賛同しない。
昔の人は立派だったというのは幻想だと思うからです。
昔の人たちも現代人と同じで、いい加減で適当だった。
昔の人が武士道精神でみんな立派なのだったら、それは人間の完全性に結びついて、
進歩主義につながっていく。
「いずれ全員が武士道精神を備えた立派な社会になる」というのもまた進歩主義。
人間はいい加減で適当。
人間が不完全であるが故に、その不完全な人間を補うために伝統がある。
一世代の人間は不完全だけど、世代をまたぐことによってその不完全性が補われる。
不完全な人間を補いながら、取捨選択に耐え抜き、
長い時間によってつくられてきたのが伝統であり、
その伝統による国柄が国体となります。
そのまさに中心が天皇です。
その不完全な人間が「国体とは何ぞや」なんて言ってもほとんど意味がありません。
じゃあ、どうすればいいか、ということですが、基本は自由にまかせてほっとくだけでいい。
ただし、安心してほっとくだけの環境は整えておかなくてはなりません。
それが秩序です。
その環境を整えることのまず第一は、
その環境、すなわち時間の縦軸を壊そうとする思想・勢力を徹底的に除去することです。
わかりやすいのが私がいつも述べる男女共同参画です。
男女のあり方などは、男女平等だけを担保して、
あとはほっとけば、当事者らがうまくやっていくものだと思います。
ところが「男女のあり方はこうするべきだ、国会議員の数は男女同数であるべきだ、
公務員や企業の中で男女が活躍する割合は同数であるべきだ」とか
無理矢理価値判断を押しつけてくるようなことが、
安心してほっとける環境を破壊する行為です。
それは誰かの頭の中で決められたもの。
誰かが何かを勝手に決めるのではなく、基本はほっとけばいい。
古代の日本人が考える国体観からすれば、平安時代は思っていたものと違うだろうし、
平安時代の国体観からすれば、室町時代は違うだろう。
室町時代の国体観からすれば、明治時代は違うだろうし、
明治・大正時代の国体観からすれば現代が多少異なることはありえることです。
近代までは伝統を破壊する外来思想がなかったので、
ほっとけば自然に国柄がつくられてきたのだけれど、
近代以降は日本にも伝統を破壊する思想が入ってきたので、
そのようなものだけを排除して、あとはほっとけば、なるようになるし、
次の日本人がまたうまくやっていくでしょう。
戦前の『国体の本義』には、
そういう「寛容で自由な世界を良しとする価値多元主義的な国体観」があったのだと思います。
日本の国体をつくってきたのは日本人の寛容性です。
そんなに肩に力を入れて「国体とは何ぞや」なんてことを言う必要はないと思います。
−おわり−
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