憲法無効論との哲学問答

 


憲法無効論について批判的なことを述べると、

かならず一部の熱烈な支持者から、それなりの強いアクションを受ける。

いつもうんざいるするところもあるのですが、

そこでのやりとりから、こちらの考えをうまく引き出すような経験もあったことから、

自分がうまく説明できているかなと、思うところを独断と偏見で再編成し、

哲学問答のようにまとめてみました。

       

 

Q日本国憲法は長らく運用してきたから無効なものが有効になったのか。

 

違法性・無効性というからには、どちらにも転ぶ期間、

法律用語では「除斥期間」のようなものがあると考えます。

長らく運用したから無効なものが有効になると言っているのではなく、

無効性は強いが、有効に転じるかすかな部分は残っていた。

そのかすかな部分とは、占領下であっても国体が存続し、

天皇陛下の御名・御璽及び上諭が存在するということです。

ですから、無効論者が批判しているような承詔必謹説、時効有効説、

つまり絶対的に無効なものでも詔や時間の効力さえあれば、有効になるという論理ではなく、

国体の継続により、かすかに有効性が残っていたという論理です。

 

 

Qベストは幻想で、ベターというが、

男系による皇統護持の主張では、ベストを追求しているのではないのか。

 

皇統の護持では徹底して女系論を排除しているので、

そういう議論形態から、ベストを断言しているように考えられますが、

究極的なことを言えば、私たちは男系こそが皇統であると述べているのではなく、

究極にはわからないが、続いていることには、何が含まれているかわからないから

まずは尊重しなくてはならない、と主張しているのです。

女系論を排除しているのではなく、女系論が歴史・伝統に基づいておらないことを批判しているのです。

皇統論はベストのようで実はどこまでいってもベターとなります。

 

何事においても言い切ったら危ない。

二千年続いていることは、限りなくベストに近いですが、

究極的には人間の理性ではわかりません。

論理的にはやはりベターからは脱していないのです。

認識する人間が不完全である以上、

ほぼすべてのことはベターとしか捉えられない構造があります。

 

保守というのは取捨選択の上に成立します。

時代時代のなかで新しいものを取り入れながら、不要なものを捨て去り、

その中で残っているものが、時間に耐え抜いた伝統として生きてきます。

帝国憲法も、いまの憲法も、次の憲法も、天皇の詔の下にあって連続し、

不要なものは捨て去っていき、新しいものを取り入れて、必要なものだけ残っていく、

と考えれば、必ずしも受け入れられないものではないと思います。

 

要するに「占領憲法だから何だ、どうだ」というのは、考え方ひとつの問題でもあります。

それはあくまで「主観」であって、どちらが絶対に正しいということは、

証明できないし、人間にはわかりません。

 

ただし、不動の客観性とは、二千年以上続く国体であって、

その国体をそれぞれの主観で認識しようとしていることであり、

不完全ではありますが、私はそれで良いと考えています。

 

限りなくベストに近いものであっても、

最終的にはどこまでいってもベターであるということになります。

ですから、それを認識していれば、絶対の真理など存在しないということがわかり、

一つの方法以外はすべて排除されるなどという発想にはなりません。

私は憲法無効論者は、その論理を完全なる真理のように語り、

他のものを徹底的に排除している構造は、左翼に近いと指摘しています。

赤軍派がなぜ内ゲバになったのかというのは、こういう構造なんです。

 

西洋哲学では完全なのは「神」だけとなりますが、

論理が神格化することは非常に危ういのではないかと思います。

憲法無効論は国体という客観性の下にある、

一つの「主観」に過ぎないものを、「真理」にしてしまっている傾向があるので、

それはちがう、「真理」があるなら、それは国体であって、

国体の下にある「主観」「論理」を真理にしてしまったら、

左翼と同じになってしまうぞ、って主張しているわけです。

 

ですから、無効論を主張するのはいいと思いますが、

それは保守のなかの学説上の論争であるに過ぎないのであって、

論争相手を社民党や共産党と同等、

それ以下に想定するのは、完全におかしいと考えるのです。

それは自分たちの主張が「真理」になってしまい、その主張の内容にかかわらず、

考え方が左翼の構造になってしまっている、ということを述べたいのです。

だから、相手が保守系であるにもかかわらず相手を全否定したり、

感情的になって相手を罵倒したり、するのです。

無効論の人は、そういう構造になってしまっている、

ということは認識しておかなければならないと思います。

 

Q改憲してさらにおかしな方向に向かうこともありえるのでは。

 

それは改憲論であっても阻止しなければならない問題でありますが、

その時に無効論者と共闘して阻止すれば、良いのではないでしょうか。

無効論とか改正論の問題ではないはず。

 

改憲論は、この憲法下でも、やれることはたくさんあります。

そして、改憲してまともな日本に向かうよう一歩一歩進んでいけますが、

無効論は、それらの一歩一歩が無効を阻止するものであるとして、

無効宣言が実現するまでは、事実上、現実政治に対しては何もできないことになってしまいます。

具体的には安倍内閣の教育基本法改正により、

一歩でも二歩でも、日本は良くなる方に向かいましたが、

無効論だったらそういったことも含めて無効宣言が実現するまで、

ほとんど何もできないことになるでしょう。

それで時間をかけても結局、無効はできないということになれば、

本当に大変なことになります。

ですから、その時点でできることを一歩でも進めていくことから、

私は改憲論の道をとっているということです。

 

また、現在の憲法より、一歩でも二歩でも前進するなら、

改憲論はそれを実行することができますが、

無効論は無効宣言ができないかぎり、現状の憲法を存続させることになりますから、

このまま停滞させてしまうという問題はあると思います。

一日でも長く、この憲法を続かせようとしている反日勢力にとっては、利になりますから、

結果的に利敵行為になることを危惧しています。

 

 

Q占領体制から脱却するには、まずは原状回復という考えについては。

 

過去、他国における憲法の失効・廃棄宣言は、外国による占領解除後すぐですから、

国家における原状回復の解釈は主権回復後とするのが、

無理のない法的判断ではないかと思います。

つまり無効論者は原状回復という用語を、気軽に都合よく使っておりますが、

国家体制の原状回復が主権回復と定義されてしまえば、

新憲法を憲法として運用している実体、そして客観性が証明されてしまうわけですから、

帝国憲法との連続性を認めない以上、

まさしく革命憲法体制が確定するという法解釈が、それなりに有力となるでしょう。

 

すると国体が一度断絶、変更したかたちで、新国家体制がはじまっていることになりますから、

現憲法は廃棄できても、帝国憲法への回帰はできないという論理になります。

廃棄すれば、帝国憲法に戻るのではなく、単なる無憲法状態になる、という理屈です。

さらには国家体制は断絶したまま。

 

原状回復は帝国憲法に戻ったときだ、と言っても、

それを確認するのは主権回復した日本が主体となるわけです。

無効論者の理論でも、現在の日本は自由にいつでも憲法無効宣言ができるのであるから、

他国の干渉状態から脱した時点を原状回復とみなし、

その後の憲法の運用によって、

そこから新日本がスタートしたという法理論など、いくらでも成立します。

つまり、憲法無効論というのは、一歩間違えれば、

その理論及び主張そのものが戦前・戦後の日本の分断、

国体の変更に加担してしまうという可能性もあるのは事実です。

ですから、私は以前に「右も左も八月革命説」という指摘を行ったのです。

 

無効性のある憲法を主権回復後60年も使ったというのは、

世界史レベルで極めて特異な例となるでしょうから、明確な法理論の定義は難しいでしょうが、

天皇陛下もお認めになったということは、発議の件も含めて、

法理論的には瑕疵が治癒されたと考える余地は十分にあると思います。

新無効論の有力根拠は主に天皇に関する部分です。

その点では75条違反だって治癒されるし、

ましてや類推適用と言っているわけだから、根拠はかなり弱くなるでしょう。

 

法理論とは、そもそもそれぞれの考え方一つみたいな側面はありますから、

そこにこだわって、本当に取り戻さなければならないものを見失い、

二千年続く「日本」がなくなっていくことを、

もっとも危惧しなければならないだろうと考えています。

 

 

Q「無」はどこまでいっても「無」であって、「無」がどこかで「有」になることはあるのか。

 

「無」と「有」については法学的にはさんざん議論されてきた歴史がありまして、

理論的には「無」から「有」が発生することはありえないのですが、

現実の法律の運用として「無」から「有」が発生してしまうことを、

どのように説明するかで、様々な学説が展開されてきました。

理論なんてそんなものなんですね。

所詮は理論。

理論は理論。

理論で説明がつかない現実があって、だからこそ保守というのは、

理論だけではなく、世の中を現実に動かしていくなかで、

調整されたり、積み上げられたりしながら、つくられていくものだと考えるのです。

 

私が考える法理論とは、理論だけを追求するのではなく、

現実的なところを考慮しながら判断されているというものです。

理論がつながらないだけで、その考えは根本から全部否定される

というような考え方はされていないということです。

それほど法理論というのは不完全であるという前提で考えられているのです。

 

 

Q皇統論では理論の追求ができるか。

 

かつて南北朝という決定的な事件がありました。

やはり正統論ということでは、南朝が正統と判断されましたが、

だからといってさかのぼって北朝を無効にし、南朝の系統を復興するなんてことはできません。

理論的なことを追求するなら南朝復興論に行き着くでしょうが(実際にそういうことを言う人もいる)、

現実的には後小松天皇の正統性を根拠に、持明院系の皇統の正統性を担保するしかありません。

皇統もまた現実的な問題を乗り越えつつ、正統を維持しているのです。

 

何でも理論だけで正統を追求することだけが日本ではないということです。

南北朝以外でも様々な不合理を受けとめつつ、

その時代時代の問題を乗り越えてきたのが日本の国体です。

確かに占領されて憲法を改正させられたというのは大問題ですが、

憲法改正の手続的な法理論だけを追求して、

無効でなければ、今後どのようなかたちであっても国体が正統にはならないなんていう論理は、

二千年の歴史を見れば、日本的ではないと考えるのです。





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