日本経済復活への道は政治の覚悟次第

 

●経済の基本原理

 

当たり前すぎる経済の話。

バブルの時であっても経済危機であっても、

貯蓄を続ける国民をもつ国家に既存の経済学はなかなか通用しない。

欧米で発展した経済学は、

儲かったら使いまくるという倫理観のもとつくられたものであるから。

「使いまくる」には楽をして増やそうとする野心も含まれる

これまで国民の貯蓄は銀行が企業に融資して活用したから

経済発展してくることができた。

現在はゼロ金利でも資金需要が伸びないという

マクロ経済学の範疇を超えた状態が続いている。

難しい舵取りが求められる時に政府は増税をやっている。

もはや悲劇だ。

外国から見たら喜劇だ。

日本国民にとって惨劇だ。

私が1万円使ったら、お店は1万円の所得。

誰かの消費は誰かの所得。

消費と所得が延々と繰りかえされていくのが経済活動。

貯蓄はその経済活動を止めるので、

財政政策は止まっているところを動かすだけ。

これは経済学以前の話。

止まっていないのに財政をやったら変なインフレになるのでやってはいけない。

それだけのこと。

 

●小泉政権の二大経済失政

 

7月には長期金利(国債の金利)が0.785%にまで下がり、

約9年ぶりの低水準となった。

みんながお金を借りたいと思うと受給バランスで金利は上がるのだが、

長期金利が異常に低いということは、市場のお金が止まっていて、

国債にお金が集まっていることを表している。

財政政策はお金が止まっているところを動かすだけだから、

経済活動が止まらないことが一番いいこと。

だから、民間企業がもっとお金を借りたいと思うような経済状況をつくらないといけない。

なぜ民間企業はお金を借りないのか。

デフレ状況では、現金資産以外の資産価値が下がっているので、

そんなときにお金を借りると実質的な金利はすごく高くなり、

企業はお金を借りにくいということを、

経済評論家の上念先生から直接教えていただいた。

それと共に、私は過去の政権の失敗がこの状況を招いているのではないかと考えている。

小泉内閣の経済政策には賛否両論あって、

新自由主義的だと言われたりもするが、何が一番問題だったのだろうか。

私は2点だと考える。

公共投資を絞ったことと、不必要な不良債権処理を進めたこと。

末野興産や桃源社のようなバブル時代に不動産を転がしていたタイプの不良債権企業は、

小渕内閣の頃にはすでに処理が終わっていた。

残っていたのはダイエーのような本業では黒字だが、

債務残高が大きすぎて、債務がまったく減少しない、もしくは膨らんでいるような会社。

これを潰しにかかったのが当時の竹中平蔵金融担当大臣。

銀行を徹底的に査察して、多額債務を抱える企業を締め上げていったのだ。

 

●押し付けられた国際金融規制

 

BIS規制という国際金融基準がある。

自己資本比率について、国際業務を行う銀行は8%、

国内業務のみの銀行は4%を保有することが義務づけられている。

銀行は国民の貯蓄を預かって、企業に貸し出すことを主業務にしているが、

預かっている貯蓄は銀行のものではない。

国民の預金は、銀行にとって負債となる。

もし企業に貸したお金が返ってこなかったら、

預金者にお金が支払えなくなるので銀行の経営状態が悪化する。

だから銀行は一定の自己資本を持ちなさいということ。

BIS規制は国際金融市場の安定化を名目につくられ、

90年代前半に適用されたのだが、日本にとっては問題のある規制だった。

戦後長らく日本の銀行の自己資本比率は1%から2%。

日本は土地に値打ちがあるので、不動産を担保にお金を融資するのが一般的だ。

仮に貸したお金が返ってこずとも、

不動産が担保になっているので企業への債券証書が紙くずになることはない。

だから、日本の金融形態では、

必ずしも自己資本比率など必要というわけではなかった。

むしろ、日本は間接金融が中心だったので、

自己資本規制によって貸出量が制限されることは好ましくなかった。

自己資本比率4%の場合は貸し出せる限度は自己資本の25倍、

8%の場合は12・5倍しか貸し出せない。

自己資本比率が2%で良ければ、自己資本の50倍も貸し出せる。

BIS規制は、国際資本が日本とドイツの国民預金を狙ったものだと

あちらこちらでささやかれた。

国民の預金は銀行にとって債務なので、

預金が銀行に集まりすぎると自己資本比率が減少する構図となったのだ。

これがグローバリゼーションの罠だ。

日本には本来必要がなかったこの自己資本比率を金科玉条に掲げて、

金融機関を徹底的に締め上げたのが竹中金融担当大臣だったのだ。

 

●不良債権かどうかは銀行の判断に委ねるべきだった

 

自己資本比率を金科玉条のごとく掲げ、

竹中金融担当大臣は、銀行を締め上げ、不良債権処理を迫った。

不良債権処理については、銀行からすればどのようにとらえればいいだろうか

少し銀行の立場になって考えてみよう。

多額債務を抱えた企業は、倒産させて残っている資産を回収した方がいいだろうか。

しかし、本業は黒字なのであるから、生かしておいて、

借金返済を続けさせる方が得だという判断もありえる。

例えば、銀行から金利3%で1億円の融資を受けているA社があるとする。

A社は何とか黒字を出して従業員に給料を支払い、

借金返済は金利分の300万円だけを何とか確保することができる状況だ。

それでは銀行にとっては1億円の債務は1円も減らないことになる。

このままではいつまでたっても借金返済は不可能だ。

A社を倒産させ、土地と工場を売却させると、5千万円が回収できるとする。

5千万円は損するが、この際、残りの5千万円だけでも回収できることを"良し"とするか。

しかし、債務は1円も減らなくても、

300万円の利息を20年間支払い続ければいずれ銀行には6千万円入ってくる。

やがて景気が良くなれば返済率も上がるかもしれないし、

土地と工場の価格も上昇するだろう。

A社を倒産させて5千万円を回収するか、

あるいは、存続させて債務返済を継続させるかは、銀行の判断ではないか。

本業で黒字を出しているということは、

経済的にも需要を発生させているので日本経済に貢献している。

不良債権企業として処理するかどうかは、

個々の案件として銀行が判断するべきところが大きいのに、

竹中金融担当大臣は「それはだめだ」と言って、不良債権処理を迫ったのだ。

これでは債務を抱える企業は震え上がった。

債務は1円でも少ない方がいいということで、

各企業は債務返済に全力を注ぎ、その流れが加速した。

国民は相変わらず銀行に預金し続け、企業は債務返済に勤しむ。

これではお金が銀行にばかり集まり、銀行は仕方がないので国債を買い続ける。

竹中大臣の不良債権処理の加速により、国債の長期金利は1%を大きく下回り、

人類史上はじまって以来の低金利となった。

不良債権処理によってさらに市場に出回るお金の流れが止まってしまったのだ。

金融機関が国債を買い続けるというのは、

政府が止まっているお金の流れを動かしていることになる。

これを止めたら、経済はさらに萎縮していくことになる。

そういった状況で、公共投資を絞るということは、どういうことを意味するか、

ここまで知れば容易に想像できるだろう。

 

●不良債権を処理してもお金の流れは変わらなかった

 

竹中大臣が不良債権処理を徹底させたことで、

債務を抱える企業は文字通り震え上がった。

そんな状況からはなかなか想像できないことであるが、

昭和の時代は「借金のない企業は無能な会社」と言われることがあった。

企業が借金をするというのは、設備に投資して、事業拡大を図ることだ。

資本主義経済では、経済成長は大前提となる。

いま1千万円の借金をして設備投資を行っても、

十年後にGDPが2倍になっていれば、この借金は事実上500万円と同じ。

経済成長を前提にすれば、借金をしてもその額は勝手に小さくなる上、

事業も拡大できるとなれば、みんなが積極的に投資して、

経済活動はどんどん活発になるので、

借金をしない会社は、こういったチャンスを活かせない

無能な経営者だと評されたのでした。

公共投資も同じで、日本のGDPが100兆円の頃に、作った道路や橋の債務は、

GDPが500兆円になった今の時代にとっては、何てことのない債務となる。

話を小泉内閣に戻すと、不良債権処理が経済に悪影響を及ぼしたという証拠は、

政権発足時の1%前後という空前の低金利だった長期金利が、

不良債権処理遂行後もまったく変動していなかったことではないか。

銀行のお金が無駄な債務超過企業にとられていて、

優良な企業に資金が回らないのであったなら、

不良債権処理をしてお金の流れを円滑にする必要性はあるが、

そもそも長期金利が低いということは、

資金を必要する優良な企業への金融は問題がなかった。

不良債権処理を行ったことにより、残った企業の信用回復が成し遂げられ、

どんどん融資を受けて設備投資を行ったのであれば、

経済にとってプラスとなるかもしれないが、

長期金利はほとんど変動しないどころか、

不良債権処理開始からむしろ下がる傾向にあった。

つまり、経済にとってほとんど意味のないことのために、

黒字を出している企業を債務が多いというだけで、

どんどん潰していったのが、小泉政権の不良債権処理だった。

 

●名目成長と実質成長の区別

 

小泉政権の構造改革により一時景気が回復し、

経済が成長したというのは厳密に言うと正しくない。

小泉内閣で経済成長したというのは<実質>GDPの話だ。

<名目>GDPはほとんど変動していない。

名目GDPと実質GDPはどこが違うのか。

極端な例えだが、1個100円の饅頭を5個だけ生産している国がある。

この国のGDPは500円だ。

そこでその饅頭の値段が1個200円になったとしよう

GDPは1000円になったので、2倍になった。

ところが国民の所得も2倍になっていたら、実質GDPの成長率はゼロとなる。

単に出回ったお金の量が2倍になったので、饅頭の値段と給料が2倍になっただけ。

現状は何も変わっていない。

入学テストですべての受験生に10点プラスしてあげたら、

結果に何も影響しないのと同じ。

これがインフレだ。

インフレ期の経済成長は、名目(饅頭の値段と給料の額)だけを見ていても、

よくわからないことがあるので、名目成長率とは別に実質成長率という見方があるのだ。

1個100円の饅頭を外国から5つ買いたいと申し出があった。

饅頭の数は合計10個になり、GDPは1000円になった。

饅頭の生産数が5個から10個に増えた。

これは名目成長率でも、実質成長率でも2倍となっている。

実質経済成長率を見ることによって、

単にお金だけが出回って見かけだけが成長したのか、

実体経済が成長しているのか、ということを見分けることができるのだ。

では小泉政権で実質GDPが成長したのであれば

望ましいではないかと考えられるかもしれない。

ところが、「名目」と「実質」を区別する意味があるのはインフレ期だけなのだ。

デフレ期の実質成長は意味がない。

饅頭の例えで言うと、所得が変わらないのに、

饅頭の値段が半分になり1個50円になったとする。

GDPは250円に減少したが、国民所得に変化がなければ、

饅頭の生産数は同じなのに、実質成長率は2倍となる。

同じ所得で饅頭が今までの2倍買えるのだから、

実質的に成長していることになるが、これを成長と呼んでしまっていいのだろうか。

名目GDPの規模が減少しているのに、経済成長と呼ぶのは普通の感覚でもおかしいだろう。

つまり「名目」と「実質」を分ける意味はインフレが前提にあるということ。

名目GDPが下がっていれば、いずれ必ず実質成長率も下がるだろう。

小泉政権時の実質経済成長とは、名目GDPは増えていないのに、

構造改革によって実質成長させ、景気が回復したかのように錯覚させただけだった。

だから、国民の多くには景気回復の実感があまりなかったのだ。

 

●経済が萎縮したら簡単には回復しない

 

「借金もないような企業は無能な会社」と言われるほど、

日本経済は企業が銀行から融資を受けて、どんどん事業拡大することで進んできた。

そんな中、バブル崩壊があって、多くの企業は多額の債務を抱えた。

バブル期に本業として不動産を転がし大損したような不良債権企業の処理は

住専問題から小渕内閣の頃までにほぼ終わっている。

問題は本来、日本経済を支えてきた優良な企業の債務問題だ。

そこで小泉政権下の竹中大臣によって激烈な不良債権処理が行われたので、

民間企業の需要はさらに縮み上がっている。

一度、そういう傾向が出てしまうと、トラウマのように定着し、

なかなか反転しないのは歴史が証明している。

1929年から始まった世界恐慌時のアメリカも同じで、

フーヴァー政権下のメロン財務長官が、債務超過企業を倒産させ、民間市場が萎縮した。

その後ルーズベルト政権のニューディール政策で一時回復したが、

それをやめるとすぐに低迷することになった。

企業に染みついた萎縮ムードは解消されなかったのだ。

結局、本格的にアメリカ経済が回復するのは第二次世界大戦の頃であった。

日本の不況やデフレはマインドの部分がかなり大きい。

景気は「気」だというほど、気分は大事なのだ。

そんな時には、「あらゆる手段を使って経済を何とかする」という

政府の覚悟が必要なのではないか。

国民が「そこまでするのか」と思えば、流れは反転するだろう。

逆にそこまでやらなければこの流れはなかなか変わらないだろう。

まさか世界大戦をやるわけにもいかないのだから。

「あらゆる手段」とは、当然に経済の流れをデフレからインフレに転換させることだ。

 

●正しいことが集まれば誤ることがある

 

合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)という言葉ある。

一つ一つのことが正しくても、全体となれば間違った結果を引き起こすということ。

例えば、劇場で火災が発生したとする。

劇場の中にいる人にとって正しい行動とは、一刻も早く劇場の外に非難することだ。

ところが全員が同じ行動をとれば、劇場内がパニックになって、

結果的に大勢の人の命が失われるかもしれない。

順番に非難した方が、たくさんの人命が救われるだろう。

このように個人の行動として正しいことが、

全体として間違ったことになるということは起こりえるのだ。

それが現在の日本経済ではないか。

一円でも多く債務を返済しようとする企業の姿勢は正しいことだ。

しかし、全体としてはそれが民間資金需要を減退させ、デフレを加速させている。

まさに合成の誤謬だ。

そういった場合、政府は個人の行動と反対のことをやらなければならない。

それがマクロ経済政策だ。

ところが、小泉政権の不良債権処理とは、個人の行動の視点であって、

マクロ経済という観点がなかった。

個々の行いが正しければ、全体も正しくなる、

という短絡的な考えなのではなかった。

これが市場原理主義、自由放任経済のマイナス点である。

ケインズの経済学を支持するかどうかはともかくとして、

ケインズが述べる重要なことは、市場は時として失敗するということだ。

日本経済や世界経済はいま、明らかに市場メカニズムの失敗を引き起こしている。

一般的な経済学の範疇を逸脱しているのだ。

こんなときに常識的な対応をとっていてもダメだ。

市場がびっくりするような政策を行わなければ、

この流れを変えることは難しいだろう。

びっくりするような政策とは、大胆なインフレ誘導政策である。

 

●金融緩和と公共投資を合わせ技で

 

金融政策によるインフレ策のことを「量的緩和」(りょうてきかんわ)といい、

通貨を発行している日本銀行によって、世の中にお金を出回らせること。

そうかといって、ヘリコプターでお金をばらまくわけにもいかないので、

現実的な方法としては、銀行が所有している国債を、

日銀が引き受ける手法が一般的なやり方だ。

景気が良くなると、民間市場にお金が足りなくなるので、

日銀が各銀行が保有する国債を買い上げることによりて、

お金がどんどん市場に流れ、インフレになるというのが、本来のあり方だ。

ところが、現在は民間に資金需要がないので、銀行は競うように国債を購入している。

だから、国債金利は超低金利を推移しているのだ。

そんな中で銀行の持つ国債を日銀が引き受けても、

銀行はお金のやり場に困るだけとなる。

そこでいま注目されているのが、政府が新規発行した国債を、

日銀が引き受けて公共投資を行うという手法だ。

国が公共投資を発注すれば、民間にお金が流れる。

経済活動とは<誰かの消費は誰かの所得>ということをすでに述べたが、

公共投資はゼネコンだけが儲かるわけではない。

まず雇用が生まれる。

工事現場で働いて給料を得た人が、食事をしたり、服を買ったり、

電化製品を買ったりすれば、それが次の人の所得となる。

その次の人が消費すれば、また次の人の所得になる。

これが経済の波及効果(乗数効果)だ。

現金を手当などで配るバラマキは、

すぐに使わなかったり、貯蓄に回ったりするのに対して、

公共投資は一時的には国が確実に使うので、波及効果は大きい。

問題は日銀が政府の国債を直接買い取るという手法だ。

一瞬、打ち出の小槌のように見えて、禁じ手のように感じる人も多いのではないか。

しかし、国が「あらゆる手段を使って経済を何とかする」ということ、

そして国民が「そこまでするのか」と思うということは、そういうことである。

1929年発の世界恐慌が第二次世界大戦で終焉を見たことを考えれば、

そんな生やさしいことでは、この収縮ムードは改善されないだろう。

とことんまで落ちるか、命を賭けて何とかするか、

日本にはそのどちらかしか道は残されていないのだ。

 

●どちらに転んでも大丈夫な日本

 

金融政策と財政政策によるインフレ策は"打ち出の小槌"ではない。

現在の超円高は、必要以上の負担を日本が引き受けさせられているだけなのだ。

円ドル固定相場の時は1ドルが360円だった。

1971年、ニクソン大統領のときに変動相場制に移行し、

その後、円の価値はどんどん上がっていく。

それは何故かと問われれば答えは簡単。

日本は世界一の貿易黒字国だったからだ。

ドルは基軸通貨で、世界の多くはドル決済を行っている。

日本企業が貿易で稼いだドルを続々と円に交換すれば、

円高になるのは当たり前のこと。

日本は長い間、世界最大の貿易黒字国だったので、

円相場は瞬く間に100円台に突入した。

ところが、不思議なことに、

日本は相変わらず世界一の貿易黒字国であり続けたにもかかわらず、

円の価格上昇は100円台半ばから後半でストップし、

同じような価格をしばらく推移した。

その理由は簡単で、円高が続くと自分の首を絞めることになってしまうので、

貿易で多額の利益を得た企業は、

そのお金を円に交換することなくドルで保有しはじめたのだ。

それを長年続けることによって、その額は計り知れないほどになった。

当時の世界の金利は、日本のようなゼロ金利ではない。

その金利の額だけで、やがて実体経済の貿易黒字額に匹敵するまでとなった。

日銀が引き受けることを前提に、

日本政府が新規国債を発行して公共投資を行うということをやれば、

国債の信用を失い、国債価格が暴落すると言われたりする。

国債価格が暴落するということは、

国の信用が失墜するということであるから、円の価格も暴落する。

円の価格が暴落すれば、日本の輸出産業は息を吹き返してまた稼ぐことができるし、

その稼いだお金を円に交換すれば、円の値段は再び上がる。

日銀の国債引き受けにより、国債や円の値段が下落すれば、

日本企業は再び儲かるし、下落しなかったら何の問題もなく、

景気回復に向けて国内需要が活性化する。

つまり、金融緩和によって日本はどちらに転んでもうまくいくという

世界でも珍しい良い状態にあるということだ。

要するに安定しているということ。

世界的な金融不安なときに、

最も安定している円相場に世界のお金が集まるのは当たり前のことなのだ。

要するに「円」は世界のお金の避難場所になっており、

日本はそれにより株価は下落するし、輸出産業は悲鳴を上げるという、

本来必要のない負担を強いられているのだ。

日本はその状況を利用して、金融緩和と公共投資を同時に行えば、

世界で突出した良好な経済状態へと発展するだろう。

中国など目じゃない。

はっきり言えば「一人勝ち」である。

世界から「自分たちさえ良かったらいいのか」という非難がやってくるかもしれない。

「何であんたらのために、こっちが我慢しなければならないのか」

と言い返せば角が立つので、

「日本が世界経済の牽引役になる」と言えばいいのではないか。

確かに現在、電機メーカーなどは、

かつては世界のリーディングカンパニーだった企業が、

外国企業の後塵を拝している側面はある。

しかしそれは、売れないのに研究開発費にばかり力を注げないという現実もあるだろう。

またかつてのように好循環に入れば、

また日本企業は技術面でも世界一の座に君臨するはずだ。

今の日本にはやれることがいっぱいある。

反対にこのまま経済が萎縮を続ければ手遅れになる可能性もある。

行政官にとってインフレ政策は勇気のいることかもしれないが、

世界大戦と同じ覚悟を持ってやれば、できるはずだ。

世界大戦よりもマシだと思ってやればいいのだ。

不死鳥のように蘇るのか、もしくは座して死を待つのか、

日本はいま、大きな分かれ道に差しかかっているといえるのではないか。




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