洗脳工作に勝利せよ

 


小林よしのり氏の『新天皇論』の制作を支えた高森明勅氏は、

なぜ自分は女系天皇論を主張する著書を執筆しないのか、

そんな質問が寄せられました。

素朴な疑問であると思います。

 

それは高森氏に聞いてみないとわからないことだと思いますが、

小林氏にいろいろ指南したのは紛れもない事実なのであるから、

自分も一冊ぐらい書いても良さそうなものである、

というのは、真っ当な疑問だと思います。

 

小林さんを矢面に立てて、自分はその背後に隠れようということなのか。

本当は小林氏自身が疑問に思わなければならないことじゃないですか。

熱心に手ほどきをしてくれたが、それだけ詳しい高森氏はなぜ著書を書いたり、

もっと強く女系天皇論を主張しないのかと。

「なんでワシばっかりにやらせるんだ」ってね。

 

小林よしのり氏は、田中卓氏や高森明勅氏は歴史の専門家だと言いますが、

彼らには女系天皇論を主張した書物が一冊もありません。

なぜ彼らは学者でありながら、本を出版しないのでしょうか。

答えは簡単です。

彼らは歴史の専門家(それすら怪しい)であっても、

皇位継承論の専門家ではないからです。

私が著書やサイトで指摘しているとおり、

皇位継承に関する彼らの知識は、非常にずさんなものです。

到底専門家の議論とは思えないものばかりです。

 

高森氏にとって、小林さんは、現時点での女系論が、

どこまで通用するかという実験だったのかもしれません。

 

実は『天皇論』が「SAPIO」で連載されていた頃、

あまり真剣に読んでいなかったので、当時は記憶になかったのですが、

「例え将来、女系天皇が誕生するようなことになっても、わしは失望しない」

と描いた最終章は、単行本になってはじめて登場したということを後から知りました。

連載で多くの人を引き込んでおいて、

実験的に単行本化で女系容認論を付け加えたのか。

 

どう見ても、連載途中まで、小林さんが女系容認論でなかったことは読みとれます。

連載を重ねる中で、高森氏による洗脳が終盤部分で完成していったということなのでしょうか。

 

『新天皇論』では、『天皇論』の最終章について、

高森氏が小林さんに「ここまで描いていいんですか?」(127頁)

と心配している様子が描かれています。

それについて小林さんは「わしが女系容認に確信を持ってしまった以上、

バッシングを恐れて自分の考えを言わないわけにはいかない」(128頁)と続けました。

ただし、『天皇論』最終章の記述は、“確信を持ってしまった”と言えるほどのものではありません。

 

「女系天皇になっても失望しない」の前に、

「わしは神武天皇から連綿と続く男系を維持してほしいと願っている。

だが男系はそもそも側室があってこそ維持されたのであり、

側室の復活がむずかしいなら、将来、男系天皇は維持できなくなるだろう」(375頁)

と書かれています。

「側室があってこそ」というのは、高森氏による洗脳がはじまっているもので、

そのとき私が隣にいれば、「そんなことはないですよ」

と言ってあげたら終わった話なのが残念です。

『天皇論』最終章の時点で、

「連綿と続く男系を維持してほしいと願っている」ということですが、

「天皇論追撃編」以降は、

「男系は日本の誇るべき伝統ではない。シナの宗族制度の名残である」(158頁)となっています。

したがって、確信を持ったというのは追撃編からです。

そもそも「失望しない」という記述は、「確信を持った」とはならないでしょう。

つまり高森氏による「ここまで描いていいんですか?」というやりとりは、

完全に洗脳が完成したあとに描かれたもので、修飾されています。

 

高森氏は、保守勢力からの小林さんへの反発は予想していたはずです。

そして、小林さんがそれらに激昂するところまで、見越していたのであれば、

高森という男は、なかなか恐ろしい人間です。

まあ、小林さんが、あまりにわかりやすく、単純すぎる人間だったということもできるとは思いますが。

 

ただし、ここで重要なのは、無知の人に、まずは天皇・皇室を好きにさせて、

そして最後に女系天皇論を刷り込むというのは、

洗脳工作として一つの有効な手段であるということは、“この実験”でわかりました。

皇統を護持していかなくてはならない我々は、歴史学的な論理と同時に、

刷り込み・宣伝工作にも対応してかなければならないことを、

改めて認識する必要性を示しておきたいと思います。





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