先祖返り
以前に「理性と情緒のパラドックス」という記事を書いたことがある。
左翼という存在は何より理性を尊重し、保守は伝統といった情緒を大切にする。
ところが日本における近現代史論争では、この構図が一変した。
本来なら最大限に理性的であるべき左翼が日本悪玉論という感情論に終始する一方、
保守側は情緒ではなく歴史の真実に迫ろうとした。
戦後の左翼というのは、ものすごく感情論に支配されていて、議論すら許さないというスタンスを貫いていた。
「日韓併合」について、日本が悪いことばかりしたわけではなかったと発言しただけで閣僚の首が飛んだ。
ほとんど悪いことなどしていないのだけれど、悪いことばかりしたわけではないという一言でも許されなかった。
論じることすら許されなかったのである。
そういったタブーに挑み続けてきたのが保守側の言論人であった。
最初は袋叩きに遭おうとも、一次資料をもとにひたすら真実に迫り続けた。
だから、一定年齢以上の保守陣営にいる人たちは、戦後民主主義の洗脳から転向してきた人が多い。
かく言う私も広い意味では戦後民主主義思想から転換してきた一人である。
よく考えれば「そんなことはないだろう」ということに気づいて、いまの道を歩んできた。
自分はサヨクだったと公言していた小林よしのり氏もそうではなかったのか?
保守論壇にいる人たちは、感情論に流されることなく、正しいことに頭を切り換えることのできる人が多い。
結論ありきではないということだ。
ところが小林氏はブログ(3/4)でかつての仲間たちに対して
「保守論壇村の、思い上がった卑小・卑劣な小者たち」と罵倒している。
これは以前の小林よしのり氏を知っている人が、いまの小林さんに対して抱く印象とまったく同じである。
かつての小林氏は左翼のど真ん中であろうと、どこにでも出ていって正々堂々と議論をしていた。
いまの小林氏は気の知れた仲間しかいない道場から出ることをせず、
自分を批判しない空間に引きこもりながら、
論敵を罵倒するという非常に「卑小で卑劣な小者」に成り下がってしまった。
小林よしのり氏が「女系容認」という結論ありきで、
そこからすべてを組み立てているのは、誰の目にも明らかである。
真実に迫ろうとせず、結論を絶対に動かさずに、都合の良いネタだけに飛びついて、自己論理破綻を導いている。
これは戦後の自虐史観とまったく同じ構造である。
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わしの思想遍歴は、初期の頃からの読者はみんな知っている。
わしについてきた読者は一緒に成長してきたのだ。
言うことが変わっている点もあろう。わしは「思想」しているのだから!
『WiLL』(平成22年8月号)
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これが革新思想の論理構造であるということはすでに指摘していることであるが、
「新天皇論」は結論ありきの感情論であり、もはや革新思想にすら至っていないという、
戦後自虐史観とまったく同じパラドックスに陥っているということだ。
皇統問題だけに、小林氏の女系天皇論は最悪の「理性と情緒のパラドックス」である。
歳をとれば童心に返ると言うが、
小林氏はやはり学生運動をしていたころの本来の自分に返りつつあるということなのだろうか。
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