日本における真のサイレントマジョリティーとは
前回のコラム『WiLL』(10月号)についての論評で、
大事なことを書き忘れたので、追記したい。
----------小林よしのり----------
今回は天皇の話をしよう。
『新天皇論』以降、「シナ男系主義者」の連中は総がかりでわしに対抗している。
「保守論壇=反小林よしのり」と言えるほどの空気ができ上がり、
彼らの感覚はサイレントマジョリティーたる国民の大多数の感覚からどんどん遠ざかっている。
(『WiLL』10月号182頁)
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「サイレントマジョリティーたる国民の大多数の感覚」とは何だろうか。
国民の大多数が、たいした知識もなく、皇室の伝統について、
Aでもない、Bでもない、などということを論じ、決めるような世の中になれば、
男系であろうと、女系であろうといずれ皇室はなくなってしまう可能性は高い。
私の身近な親戚にも、特に勉強するわけでもなく
「別に女系になってもいいんじゃない」という人がいた。
二千年以上続いていることについて、よくわからないのであれば、
どちらにせよ簡単に言ってしまってはいけないと思うのが、
本来の日本人の感覚ではないだろうか。
よくわからないこと、ましてやそれが皇室のことであるならば、
軽々に口にしない、それが古来日本人の姿であると考える。
その親族は左翼的な人間ではなかったので、「それはその通りだ」と納得してくれた。
例えば、樹齢何百年の御神木を切るとなると、日本人ならば、
「何がまずいことをやっているかもしれない」という畏れのようなものを感じるだろう。
欧米人なら「単なる木ではないか」と思うかもしれない。
自然信仰をはじめ、日本人独特の畏れという感覚は、普通の庶民の感覚であり、
それが二千年以上続く日本の国体を形づくってきたのではなかったか。
二千年以上に渡り、父子一系という一本の血筋で繋がっている皇統を、
断ち切ろうとしているときに、
「何かやばいことをやっているかもしれない」という畏れの感覚が
まったくないというのは、日本人としてまずいのではないかと思う。
小泉政権時の皇室典範改正論議が、秋篠宮紀子妃殿下のご懐妊により、
凍り付いたようにストップしたのは、政治家にもそういった感覚があったからだろう。
現状からやむを得ないという思いだけが、彼らの心の支えとなっていたのかもしれないが、
ご懐妊報道で一挙に震え上がった。
皇學館大学の新田均教授は、悠仁親王殿下のご誕生に神意を感じたということを述べると、
小林よしのり氏は「それはバモイド男系神でカルトだ」と茶化した。
皇室は日本のすべての根源であり、神話からの正統性を受け継ぎ、
二千年以上続く皇統を、一時代に生きる人間に過ぎない現代人が
勝手に変えてしまおうとする無謀な行為に、畏れを抱かせるということも含めて、
悠仁親王殿下のご誕生に、日本人は神意を感じたと私は思っている。
皇室の伝統に畏れを感じることなしに、
日本人は一体何に畏れを抱くのか。
そのことを教えてくださるのが皇室であるのに、
その皇室における二千年の伝統を、合理的な理由により変更しようとは、
私には日本国としての自殺行為にしか思えない。
私は皇位継承のあり方は、こうあるべきだとか述べるつもりは毛頭ない。
そんなことは本来、我々が論じる次元の話ではないということだ。
論じているのは、無茶苦茶な論理で女系論を展開している小林よしのり氏に対して、
「それはおかしい」と言っているに過ぎない。
少なくとも、小林氏は自説が相当矛盾をきたしているのであるなら、
それにしっかりと答えてから論じるのが、
日本人としての歴史・伝統に対する謙虚な姿勢ではないか。
女系論のさしたる根拠がないのであれば、
二千年に渡る先人たちの意に従い、
これまで続けてこられたことを大切にしようと、我々は述べているだけなのだ。
日本人としての素朴な感覚であると思っている。
日本に一本しかない御神木を切ろうとするとき、
神の畏れを感じる人間をカルトと評するか、真の日本人と考えるか、
ここが小林よしのり氏と我々の決定的な境目であると痛感した。
これを言葉で説明することはできない。
守るべき国柄、守るべき日本人の基軸とは、八百万の神々に対する畏れ、
それにより形づくられた先人たちの叡智である国体ではないだろうか。
小林よしのり氏が述べる「サイレントマジョリティーたる国民」とは、
たかだかこの現代に生きているに過ぎない人間のことを指しているが、
真の意味での庶民のサイレントマジョリティーとは、
この国体を形成してきた、そして未来永劫形成していく、
過去、現在、未来の日本人のことである。
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