これからの時代こそ宗教の真価が問われる

 


臓器移植ということを考えると、

いつも、良いことなのか、良くないことなのか判断に悩む。

医学・生物学の進歩と倫理の問題の「境界」は、

明確ではないが必ず存在する。

クローン人間はダメ、臓器移植はいい、

というのが一般的な判断だが、

その境界線は本来誰にも決められるものではない。

 

臓器移植などの医療は人間をモノと捉える物質主義ではないか、

と話されたのが『神から人へ』の著者、ひふみともこ先生。

人間はいずれ死ぬ。

その神の定めに従い老いて死ぬこともまた魂の成長。

人間を物質的に捉えれば、

人間にとって一番の悪は物質がなくなる「死」となる。

人間の死を一番の悪と考えるなら、

様々な事情により幼くして死を迎えた子供は浮かばれない。

 

愛するわが子を失い、嘆き悲しむ親は、

わが子が不憫で悲しむのか、わが子を失った自分が悲しいのか。

そのどちらもであり、それ以上の計り知れない悲しみがあるだろうが、

少なくとも子が不憫かどうかは簡単に決められるものではない。

死が最も悪なら、人間誰しもが悪に向かって生きていることになる。

死は絶望ではないことを示すために宗教は存在する。

人の命には定めがあって、

3歳で命を落とした子には、その3歳という人生に意味がある。

3歳の命を全うした人生も、90歳の命を全うした人生も、

同じ意味のある人生であり、死後もまた同じである。

 

すべての人間の人生はプラスマイナスゼロではないか。

幸福と不幸の量は同じ。

今は不幸だけど、お金持ちになったら幸せになると思っている人は、

お金持ちになれば、今までになかった次の悩みが発生する。

念願の美人を恋人にすることができれば、

つき合ったことによる次の悩みが発生する。

アフリカで飢餓に苦しむ人たちからすれば、

食べることに困らない日本は天国である。

その天国である日本で、三食に困っていないのに、

ネットで募りあって練炭自殺する人がいる。

そんな日本人と飢餓に苦しむ国の人と、どちらが不幸なのか。

 

人生はプラスマイナスゼロ。

現状をマイナスとしか考えない人は、

その現状が改善されても、次もまたマイナスばかりが覆い尽くす。

現状をプラスと捉えている人は、

どんなレベルにいてもプラスを引き寄せることができるのかもしれない。

結局、人生はみんな同じ。

3歳で死ぬ人も、100歳まで生きる人も、

金持ちの人も、飢えて苦しむ人も、みんな同じ。

 

ところが、そんな偉そうなことを口にしても、

アフリカ人からすれば「お前は腹いっぱい食べているだろ」、

幼子を失った親からは「お前は子供を失っていないだろ」、

と言われれば、私は何も答えることはできない。

 

だからこそ、宗教者は結婚してはならないし、

身の回りのすべてを投げ出して、

煩悩を消し去らなければならないのかもしれない。

そこまでして神の教え、仏の教えを貫けば、

同じことを口にしても、まったく意味が違ってくるのではないだろうか。

 

臓器移植から話題がずいぶんかけ離れたように見えるが、

要するに科学が進歩している現代、飽食の時代こそ、

実は本当の意味での宗教者が必要になってくるのではないか、ということだ。

一般の人間がいくら倫理を語っても、最後は煩悩に負けてしまう。

これからの時代こそ、まさに宗教の意義や責任が大きくなるはずなのに、

そのことを宗教家自身がほとんど気づいていないのが、

わが国の一番の悲劇なのかもしれない。





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