帝国憲法の精神

 


(「憲法無効論は単なる仮説」の補足)

憲法無効論に疑問を感じることと、

大日本帝国憲法(以下帝国憲法)を否定的にみることは、

まったく異なります。

帝国憲法は正しく国体を発見した憲法であるし、

私は井上毅を希代の哲人であると尊敬しています。

 

ただし、帝国憲法の条文を金科玉条にすることだけでは、

必ずしも国体を発見していることではないことを、

戦前の歴史が一つの事実を物語りました。

 

帝国憲法体制下で、北一輝をはじめ無数の革新国粋主義者が生まれたし、

天皇機関説事件はその象徴であろう。

昭和維新を唱えた人の多くは、明治維新の意味を理解していなかった。

明治維新は「王政復古」であったが、

昭和維新の思想は、天皇を神と戴く理性主義者による革命ととらえるべきではないか。

 

結局、どんな立派な憲法であっても、その時代を生きる人間に、

まともな哲学がなければ、だめだということです。

そういう意味では、占領憲法を無効確認し、帝国憲法さえ復活すれば、

すべて解決すると考えている人間は、認識が甘いと思います。

 

人間が不完全であることを受け入れ、だめな人間、不完全な人間でも、

うまくやっていける智恵が時間の中から生まれる。

完璧ではないものの、伝統の中には智恵がたくさん詰まっている。

矛盾や不合理を受け入れて、その中でまた未来に向かって智恵を積み重ねていく。

 

貧富の格差など、世の中に絶望した東大生は、共産主義思想に出会い、

論理の一貫性から様々な矛盾を一挙解決できることに爽快感を覚えた。

また、政府や軍の高官や、実業家が豊かな暮らしを続ける一方、

貧しい家の娘が売られていく現状に憤りを感じた青年将校たちは、

政府を転覆し、自分たちが考える理想の国家を実現しようとした。

 

日本では共産主義革命、社会主義革命は実現しなかったが、

世界的に見れば、理性主義、設計主義により建設した国家はすべて、

大量殺戮など強権政治を経て、混乱・崩壊の方向に向かっていきました。

社会というのは数学のように割り切れるようなものではない。

エゴとエゴや、正と正がぶつかることで、正しい答えなど導けないことの方が多いし、

ほとんどの場合が論理や理屈で片付かない。

 

人間が不完全であるがゆえに、人間の頭によって理想国家を建設することはできません。

不合理、矛盾を抱えていようとも、国体の連続性の中から、

歴史・伝統に基づく国柄をベースに、秩序を維持していくしかないのです。

その思想哲学がしっかりとしていれば、どんな状態からでも国体を発見することができるし、

逆にそこが欠けていれば、帝国憲法を復刻しようとも意味がない、ということです。

 

憲法無効宣言をする以外に方法はあり得ない、絶対にだめだという考え方は、

かつてエリート青年が革命理論に爽快感を覚えたのと同じような感覚で、

戦後の矛盾を一挙解決できるという完全を求める心境に

なっているのではないかと危惧するところです。

自分の中で論理が完結する爽快感。

そうであるならば、入り口のところから、どんどん狭いところに入り込み、

仲間であった人間を排撃、粛正していく方向に向かうのではないかと考えるのです。

 

本当に基軸のある人間は、寛容になれるはずです。

戦後の不合理を引き受け、問題点を一つ一つ改善していくことのなかで、

戦後体制から脱却し、国体を発見していくことにもなるのではないでしょうか。

歴史・伝統から法を発見した帝国憲法の精神こそが、

いま求められているのだと考えます。




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