日本人としてのわきまえ
先日、夕食をとっているとき、何気にテレビをつけると、
鳥人間コンテストという番組をやっていた。
関西以外の人にはあまり馴染みがないかもしれないが、
一般の参加者が人力の飛行機を製作して、
滋賀県の琵琶湖で飛行距離やスピードを競うという、
関西では毎年恒例の夏の風物詩の一つとなっている。
湖上につくった高台から飛ばして、瞬く間に墜落する機体もあれば、
何qも跳び続ける優れた作品も登場する。
これを見たときに、いつも思うことは、何回も飛ばしている人は強みがある。
一流大学で物理や工学を研究している優秀な学生を駆使しても、
初参加ではたいした記録は出ない。
人間の知力などはそんな程度で、実際にやってみなければわからないことの方が多い。
実際に何回も飛ばしている人たちは、様々な問題点を修正し、
改良を重ねて性能を向上させている。
このことは、我々が生きるこの社会の縮図と言えるかもしれない。
頭脳明晰な人間が、いくら知能をつかって世の中のことを考えようとも、
現実社会では考えてもみなかったことがいくらでも起こる。
人間が一定数以上集まって暮らしていれば、次から次へと問題が噴出する。
人間社会の複雑さは、人力飛行機どころではない。
善悪でものごとを割り切ることが出来ればまだいいが、
どちらも正しかったり、どちらにも問題があったりする。
世の中は算数のように答えが割り切れないことの方が多い。
正しい答えなど存在しないことが当たり前となる。
こんな複雑な社会について、
人間の知能だけで完全な答えを導き出そうとしたのが共産主義である。
人間の頭の中からユートピア(理想郷)、誰もが幸福に暮らせる世の中をつくれると信じた。
しかし、人間の知性だけで社会秩序がつくれるなど幻想であり、
現実は強権的な政府による恐怖政治となり、結果として貧困と大混乱が待ち受けていた。
真っ白い用紙に図面を設計するがごとく、
人間が世の中のシステムを構築するなど空想に等しかったということだ。
いわゆる保守思想というのは、人間が頭で設計するのではなく、
実際に幾世代も社会を動かしてきた中に、
一世代の人間などには及びもしない叡智が詰まっていると考える。
答えのない問題でも、時間の中で調整して出来上がったかたちもある。
共産主義は世の中の矛盾を取り除き、完全な世界をイメージしたが、
実際に暮らす人間が不完全であるがゆえに、必ず支障をきたす。
自分が十分にお金を持っていても、簡単に他人にくれてやるのは誰もがいやだし、
いくら働いても所得が同じであるなら、頑張る気がなくなる。
たいして頑張らなくても生活が保障されているのであれば、ほとんどの人が怠ける。
人間は知的生命体といえども、そんなものである。
この不完全な人間に、完全な仕組みをはめ込もうとしても、
所詮は失敗するのは自明のこと。
不完全な人間の集団でも、取捨選択を繰り返しながら、何とかうまくやっていく智恵が、
時間の中で構築されるのであり、それが伝統となっていく。
これが一世代の人間には、決してつくることのできない不文の法となる。
頭の中だけで考えることではなく、現実に世の中を動かし続けることで、
秩序がつくられ、美徳が生まれる。
日本では国の成り立ちと同時に、連綿と続いた皇室があり、
天皇を頂点とする国体があることで、
たかだか一時代に生きている人間など、大宇宙の中のホコリのような存在に過ぎず、
思い上がってはいけないことを認識することができるのだ。
天皇こそが日本人の基軸であり、
一時代の人間が何か変更できるような軽いご存在ではないということを、
日本人なら気づかなければならない。
皇室は二千年以上、万世一系で継承されてきたのであり、
二千年の先人たちの思いを受け継いで、子孫にこれを引き継いでいくことが、
この現代に生きているに過ぎない我々の責務となる。
子々孫々の日本人も、万世一系の天皇を頂点とする国体という秩序を
享受する権利を有しているのだ。
そして未来に生きる彼らもまた、
そのまた子孫たちに、その権利を引き継ぐ義務が存在する。
この義務と権利の繰り返しが、皇室と日本国の永遠の弥栄を約束しているのである。
繰り返して言うが、天地が開けたときより神話がはじまり、
神武天皇ご即位以来、2671年の歴史・伝統を前にして、
たまたまこの現代に生きる我々は、大宇宙の中のホコリのような存在に過ぎない。
小林よしのり氏は、自分を何か大いなる存在と勘違いなされているのではなかろうか。
日本人なら己の身の程をわきまえるものである。
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