街の遺伝子記録
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主題解説

街の遺伝子とは何か

大阪大学 小浦久子

 

都市が元気であるために

 さて、 フォーラムのテーマである「街の遺伝子とは何か」ですが、 随分、 議論を重ねたにもかかわらず、 一言で説明するには難しいものがあります。

 最初に話題になったことは、 都心とは何か、 都心が元気であるとはどういうことか、 といったことでした。 新しい時代の都心への再生や再構築のデザインを話し合う中から出てきたのが「街の遺伝子」という言葉でした。

 今回のフォーラムで、 このテーマをみなさんと一緒に考えていくにあたって、 三つのアプローチがあると思います。

 一つ目は、 都心とは何かということです。

 二つ目は、 街が継承してきている都心をかたちづくるため素となる遺伝情報とは何か
 三つ目は、 それを育てる環境は何かということです。

 どれも重要な視点ですが、 難しい問いです。 まず、 都心とは何かですが、 都心とは都市の真ん中のことなのか、 業務集積地なのか、 あるいは盛り場が育ってくるところなのかと、 これまでも多くの議論があります。 ヨーロッパでは、 みなさんもよくご存知のように、 広場、 教会、 市役所がある都市の中心があり、 誰もが共通して都心とイメージできる場所があります。 その都市に住む人にとって「都市の心」となりうる場所です。 では日本人にとって、 都心が何か。 共通して「ここが都心」と思う場所があるかということです。

 午後からのワークショップで報告しますが、 都市に住まう、 都市で何かを伝えていく、 何かを創っていくという視点から見ますと、 都心のかたちは、 長い時間の中で、 都市の営みの空間的表現が積み重なってできた「かたち」です。 都心は、 都の心と書きますが、 それは市街地の歴史の中心であり、 言い換えるならば、 様々な人の商売、 権力、 文化、 価値、 そして人間どうしなど、 様々なせめぎ合いを呼び込んできた場所の求心力のあるところなのでしょう。


京阪神3都市の都心のかたち

 古代都市・京都、 近世都市・大阪も、 常に変化しながら今の街のかたちになってきたのです。 たまたま2年ぐらい前から、 京阪神3都市で調査に関わってきたこともあって3都市の比較をする機会がありました。

 京都、 大阪、 神戸を調べていて、 一番まちのかたちがわかりにくくて困ったのは、 神戸です。 京都と大阪は、 かつての権力が計画的意志をもってつくった都市であり、 そのときの町割が基本的に維持されているため、 それが現在も都市空間を理解するときの基礎になっています。

 京都は平安京の都市構造をベースに、 町の人の仕事と住まいの場である町家が道に面して建ち並ぶようになり、 街区の使い方が変化し、 両側町ができます。 その後、 豊臣秀吉の天正の地割りで街区中央に道を入れますが、 両側町の構造は持続します。 確かに権力者の意志によって街の基礎が出来たわけですが、 今私達が目にしている京都の町並みは、 京都で暮らす人々の日々の営みの結果です。 多くの人が街で暮らすことから建物のルールや道の使い方の作法が生まれ、 それが集積して街の形になっているように思われます。 それが今も街の形に現れているので、 分かりやすいと思えるのです。

 大阪もそうです。 大阪のどこに歴史を感じるの?と思われるかもしれませんが、 大阪には近世の城下町の町割りがそのまま残っています。 特にこの船場地域は、 方形街区をつくっている東西道路が表通りとなり、 その道をはさんで両側町が形成されました。 町と町の間(背割り線)には今も下水敷があります。 ですから、 新しく空間を作ろうとするときにも、 都市の基本構造を知る手がかりが、 けっこう在るのです。

 しかし、 神戸はそういうものが見えない街です。 神戸は、 明治に開港するときに居留地をつくり、 そこから今の神戸の都心が形成されてきたのです。 今の市街地の大部分は、 戦前の区画整理と戦災復興事業とで基盤整備が行われました。 こういう経過を経た街が、 京都、 大阪と比べて何が違うかというと、 区画整理事業によって作られた街では土地の所有関係がもろに見えてしまうことです。 京都や大阪の歴史的都市構造は、 高度経済成長期を支えた経済合理性に基づく土地の所有とは別の考え方で作られているのですが、 神戸の場合は土地所有が見えてしまいますので、 そこから集住の環境を作り直すことはけっこう難しいのです。 つまり、 経済性に左右されない共通の空間のルールを見つけだすことが、 とても難しいと感じました。


街の遺伝子はどこにあるのか

 こんなふうに3都市を比べてみると、 街が変化しながらも生き続けているベースの1つに、 歴史的に継承されてきた空間構造や、 街に固有の空間利用のルールがあることがうかがえます。 しかし、 それらが「街の遺伝子」と言えるものなのでしょうか。 これらは、 表現形は変化しても、 都市であるための遺伝情報とも言えますが、 むしろ「木がすくすく育つ土壌」とか「水の条件がいい」というような、 時間とともに地域性を持つようになった都市の環境条件ではないかとも思ったのです。

 このように「街の遺伝子」とテーマは決めたものの、 それは一体何なのか、 フォーラムまでの準備期間中、 ずっと模索を続けたところです。 そのなかで、 先ほど大森監督もおっしゃっていましたが「形だけでなく生活空間そのものを考える」ということがあります。 都市には様々な暮らしの場所、 仕事や遊びの場所があり、 そんな場所が集まって都市の個性となっています。 反対に人が集まらなくなると衰退していく。 盛衰を繰り返しながら、 都市は生き続けるものだと思います。

 それならば、 いろんな営みを受けとめる空間があり、 街を多様な人々が使いこなすことで街の形が生まれるということですから、 新しい使いこなしが求めるかたちを生み出したり、 今あるかたちを変容させていくところに、 「街の遺伝子」が働いているのではないでしょうか。 それは使い手である人や活動が運ぶのか、 場所にある遺伝子が作動するのか、 環境の特性なのか、 なかなかうまくわかりませんでした。


街の中のジャンク遺伝子

 先頃「最先端の科学が現代社会に与える影響を考える」研究会に出ていて、 DNAについての基礎学習する機会を得ました。 ヒトゲノムは、 誰もが全く同じというわけではなく、 それぞれ配列が少しだけ(約0.1%)違うのだそうです。 ヒトゲノムとは、 その人がヒトであるための基礎情報をもっている遺伝子のセットなのです。 DNAとは、 2重螺旋になったタンパク質であり、 遺伝情報を伝えるタンパク質の配列のなかには、 何のために存在するのか分からない「ジャンク遺伝子」という部分がたくさんあるそうです。 それはどうも、 突然変異に関係するもののようで、 大腸菌のDNAにはほとんど見られないのが、 ヒトにはたくさんあって、 変化の可能性がたくさんあるわけです。

 これを街に当てはめてみると、 街の遺伝子にもジャンク遺伝子がいっぱいあるように思われます。 街のジャンク遺伝子は、 時代の変化、 環境要因だったり、 街の営みの変化だったりするのですが、 そういうものにひっかかって、 次の新しい形質が現れてくるのではないでしょうか。

 ですから、 今日議論するためにあたっては二つの問題点があると思います。 一つは、 街に新しい目を生み出していく、 街が生き続けるための元気を生み出していくものは何かということ。 二つ目は、 それを育む環境デザインとは何か。 つまり、 生み出していく力を誘発させるような空間を組み立てていけるか、 デザインできるかということです。


京都の町並みの変化

 例えば京都の町並みについてですが、 みなさんがイメージする京都らしい風景は、 おそらく東山あたりの観光地だろうと思いますが、 京都に住んでいる人にとっての京都らしさは町中の風景のことです。 京町家がつくってきた街並みですが、 今では、 室町通りは業務ビルが並び、 どこでも町家の街並みにマンションや、 郊外にあるような一戸建てや駐車場が目に付きます。 ところが調査してみると意外にも45%ぐらいが、 まだ町家だったのです。 外観が改造されたり、 看板建物になったり、 格子がなくなっていたりと、 見た目は町家に見えないのですが、 建物や敷地の使い方の基本は維持されています。 このことを住んでいる人自身も知らなかったりするので、 私もびっくりしましたが。

 また京都は120×120mか120×60mの街区が基本で、 各家の間口の平均は大体7〜8mです。 敷地の奥行きが深く、 街区内部に空地があります。 これは、 中世に街のかたちができてくるときに、 通りには店が並びますが、 店の奧に住まいがあり、 その奧は共用の空地になりました。 街区内の空地は、 街が進化する過程でできた空間利用の作法ともいえます。 しかし、 道路際に駐車スペースやエントランスをとり、 セットバックして高層化するマンションが建ち、 従来とは空間の質が異なっています。

 この変化は良い悪いとか、 美しい醜いという言葉でのみ語られる問題なのでしょうか。 経済活動の結果であり、 都市の活力だとも言えるのです。 平安京から現在の両側町へとの変容は、 これより大きいことだったかもしれません。 街のデザインと街が生きるということはどういうことなのかを、 随分考えてしまいます。 ここでは街の遺伝子はどのように働いたのでしょうか。 京都の先進性遺伝子が働いているとは思えません。


大阪の街の使いこなし

 また、 大阪でマンションの調査をしました。 船場では、 マンション住戸の50%は、 居住ではなく仕事場として使われていることが分かりました。 居住空間として提供されたはずなのに、 人は勝手に仕事場として使っているわけです。 建物は変わらないまま、 内部の空間の使われ方が変化しています。

 このようなマンション住戸を使っているような仕事をしている人に話を聞いてみました。 「賃貸条件で、 古いビルの方が自由に使える」ということでした。 南船場あたりでは、 小さな古いビルが多くあり、 その空室が、 彼らの求める生き方や仕事にあわせて自己表現できる空間を提供しているのです。

 仕事場利用の場合は、 建物外観には何の変化もないのですが、 中はかなり自由に作り替えています。 店に変わるときは、 ファサードやエントランスが演出され、 通りへの表情に変化が現れます。

 これは、 ヨーロッパの歴史的な町並みの持続とそこでの都市活動の更新と同じで、 建物は変化しないけれど、 中身はどんどん更新していくことで、 街が生き続けるのです。 日本の場合は、 そのような歴史都市のかたちをつくる建物ストックはないのです。 京都も大阪も町割は、 土地に刻まれた歴史的ストックですから。 街が生き続ける要求に応じて建物も変化してきたのが日本であり、 それが日本がやってきた都市空間の使いこなしであれば、 その表現の変化における街の遺伝子はどのような情報を保持してきたのでしょうか。

 まちの元気の情報をもつ街の遺伝子が、 都市空間を使いこなしながら、 新しい仕事や新しい遊びや暮らしを生みだし、 それらの営みの場所として、 空間のかたちを作りだしていくとき、 その空間形成を誘導する調節因子の役割が、 都市環境デザインにはあるのではないでしょうか。


再びフォーラムテーマについて

 今回のテーマを決めるとき、 ニーム(文化的な遺伝子)なのか遺伝子なのかと、 少し考えたのですが、 形質の出現と直接的に関わる「遺伝子」のほうが、 文化継承に対応するニームより、 都市環境デザインが担う都市空間のかたちを議論するには、 良いのではないかと思いました。 やはり目に見えるもの、 都市の形について発言していくためのテーマ設定としたかったのです。

 このフォーラムで考えてみたいことは、 都心を常に再生させながら生き続けていくために、 かたちを変えながらも受け継がれてきている情報は何かということであり、 その遺伝情報が表出する環境はどうあるべきかということです。 住んでいる人だけではなく、 働いている人、 遊んでいる人も含めて都市に暮らす人、 都市で何かを作り出す人がいて、 それらの人たちが都市の元気を決め、 その営みが空間をつくり、 それが集まって街が出来ていくものだと思います。

 それを生みだすパワーは空間が持っているのか、 人が運んでくるのか、 環境が持っているのか。 都市環境デザインとは、 それらを豊かに育てる土壌を生み出すものなのか。 そんなことをさんざん悩んだというプロセスを報告いたしました。

 最初の講演に触発され、 これからのフォーラムのなかで、 お集まりのみなさんが、 何か手がかりを見いだしていただければと思います。

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