プレゼンテーション・船場
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「街の遺伝子」を活性させる都市環境とは何か? そのデザインのあり方は? それらを探るために、 大阪の都心・船場を取り上げ、 船場との関わりの深い方々と「住まう」「伝える」「創る」の3つのテーマでのワークショップをおこなった。
船場の現況
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図1 まちの特性
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土佐堀川、 長堀通り(旧長堀川)、 阪神高速道路環状線(旧西横堀川)、 東横堀川に囲まれた大阪のビジネス拠点である「船場」は、 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉により開発されて以来四百年の歴史を持つまちである。 そこには多くの生かしていきたい資源がある。
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写真1 船場北部に多く残る近代建築
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まず船場の骨格である通り(東西の道路)と筋(南北の道路)そのものが、 歴史の刻まれた資源と考えられる。 船場の町割りは通りを挟んだいわゆる「両側町」の典型であり、 東西に細長く、 薬の道修町、 金融の今橋などの特徴的なまちが配されているのである。 また船場北部の堺筋、 三休橋筋、 土佐堀通を中心に残されている近代建築(写真1)や、 適塾、 懐徳堂跡、 銅座跡、 金相場会所跡、 松尾芭蕉終焉の地など江戸時代の資産も生かしたい資源である。 さらに幹線道路沿いは高層ビルが並んでいるが、 ひと筋中へ入ると、 特に南北の筋沿いに木造家屋を中心とした中低層のまちなみが残されている。
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写真2 南船場のレストラン
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一方、 南船場を中心とした高級ブランドショップ、 カフェ、 レストランの進出の動きや、 総合設計制度によるビル建設で生み出された公開空地など、 新しい時代の資源もある(写真2)。
これらのまちの現況を図1に整理した。 しかし現在の船場は多くの課題も抱えている。 まず船場には歩行者が快適に移動できる空間が乏しい。 歩道が少なく、 船場後退線によるセットバック空間も歩行者空間として利用されているところは少ない。 次に現在の船場はビジネスに特化した単機能のまちになっており、 そのことが風景の均質化をまねき、 個性のないまちになっている。 また船場の原風景といえる近代建築や中低層のまちなみ、 歴史ある商店街が失われつつある。 さらに夜間人口の少なさは夜間、 休日の無人化をまねき、 防犯上の問題も生じている。
以上のような課題に対して、 前述の船場固有の都市資源を解決の手がかりにできないものであろうか。
船場の歴史
その都市資源を生み出してきた船場の歴史を表1に整理した。
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表1 船場の歴史
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表1 続き
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船場の人口
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図2 夜間人口の推移(昭和15年〜平成12年)
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前述のとおり船場の町割りは通りを挟んだいわゆる「両側町」である。 その通り沿いの夜間人口の変遷を昭和15年から現在まで示したのが図2である。 その特徴を以下に整理する。
- 現在の船場の夜間人口は約4千人。 人口密度は、 大阪市全体の約600人/ha、 中央区全体の約180人/haに対して、 船場は約30人/haとなる。
- 戦前約6万の人口を有していたが、 戦後は昭和35年の2万8千人をピークに減少し続け、 平成12年時点で約4千人となっている。
- 船場北部の減少が顕著。 船場南部は、 減少しているものの、 現在でも居住者が多い。
- 平成7年から平成12年にかけて、 船場全体では若干の人口増加が見られる。 しかし増加しているのは船場南部のみであり、 北部、 中部は依然として減少傾向にある。
一方、 昼間人口は、 約2300人/haという大きな集積を有している。 (大阪市全体:約900人/ha、 中央区全体:約1900人/ha(平成7年時点))
文責:篠原 祥
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