プレゼンテーション・船場
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ワークショップ1

住まう

 

     
    2001年9月24日(月)金鳳ビルディング会議室にて
    澤口吉治氏(本町4丁目在住 竹宗本店店主)
    西尾幸祐氏(南船場1丁目 金鳳ビルディング代表)
    野上俊二氏(博労町4丁目在住 (株)ノガミ代表)
    丸山悦治氏(淡路町4丁目在住 丸山善(株)代表)
 
 
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西尾さん 丸山さん 澤口さん 野上さん
 
 船場で生まれ、 船場で育ち(旧愛日小学校出身者)約半世紀「住まう」という立場で、 船場と関わってこられた人達を迎え、 都心における“住み手の意識”を知るためのワークショップを行った。

     
    旧愛日小学校は、 明治5年に創立された、 船場でも、 教育熱心な有名校であり、 船場地区にあった6校(愛日、 船場、 久宝、 浪華、 汎愛、 集英)が、 3校(愛日、 久宝、 集英)に合併され、 さらに、 昭和22年、 2校(愛日、 集英)になり、 平成2年、 2校が開平小学校へと合併するに至る。
 

船場の町の変化

〈戦後〉
 戦災によって船場では、 焼けた南部の変化が著しい。 戦後の船場における小学校合併についても、 北に位置する2校が、 戦災から免れたことから、 6校あった学校の合併先となった。 居住スタイルとしては、 1階は、 店舗を2階は、 住まいという家が多い印象が残っている。 “御堂さんの屋根の見えるところで商売がしたい”という当時の船場商人の意識は、 ブランドであり、 船場で商売することは、 誇りであった。

〈昭和40年頃〉
 中央大通りが工事を開始した頃、 地価の高騰と共に、 職住一体であったスタイルが、 職住分離へと変化した。 帝塚山への移動を皮切りに、 その頃開発されていた学園前、 千里ニュータウン、 芦屋、 西宮へと住む場所を移していった。 この地価の高騰は、 土地の有効利用という意味でのビル化と相続税対策として、 法人化し、 ビルにするという種類のものとが多く発生した。

〈現在〉
 以前船場には、 職住を一体化して、 業種の特徴を明確にしながら集まっていた船場らしい風景、 店があったが、 場所の特徴、 らしさがなくなってきている。 今では、 どこも同じになり、 船場のアイデンテティーや文化を無くしたと言えるが、 他からは、 入りやすい町に変化してきているともいえる。 さらに、 現在、 ビルは、 テナント、 オフィスが埋まらなくなり、 地価も下がってきているためマンションで採算が合い始め、 町の人口模様が変化している。

 コンビニスタートは、 1階のメイン店舗に店が入らなくなったところから始まった。 定価では買わない商売人の町大阪では、 定価販売が、 成功するとは考えられないうえに、 夜間人口の少ない場所では成り立たないと予測していたが、 現在では、 昼夜を問わず人の利用は多いので、 驚いている。


都心居住

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本町4丁目にある澤口さんの100年続く店と住まい
淡路町4丁目にある丸山さんの会社と住まい
南船場1丁目にある西尾さんのマンション
博労町4丁目にある野上さんの会社と住まい
 

〈子供の遊び〉
 自分達の子供の頃は、 改装される前の北御堂、 南御堂、 横堀川などで普段は遊んだ。 サッカーをするのであれば、 うつぼ公園に出向いた。 自分達の子供は、 デパートの屋上やまちの建物が遊び場となっている。 大阪城公園をはじめとする公園はあっても、 そこではあまり遊んではいない。 路地も、 交通量が多く、 子供達は、 遊んではいない。 子供は、 どんな環境にも適応してゆき、 今の子供達は、 昔の子供と違ってきている。 子供達にとって、 都会の利便性は、 誇りでもあると話す。

〈都心居住の利点と問題点〉
 都心居住の利点は、 その便利さがあげられている。 最も不足しているのは、 公園と食料品などの生活必需品を売っている店としている。 実態は、 毎日デパートへ買い物に出かけている。 郊外にあるショッピングセンターのようなものが無い。

 公園については、 都会には、 自然がない分、 郊外の自然のあるところに出向いている。 環境面では、 そういう工夫をし、 それなりにうまくバランスをとって暮らしている。

 夜間の安全については、 街灯が、 町中整備されているため暗さによる怖さや、 人の怖さについてはあまり感じない。 ただ、 土曜などの地下鉄のトイレなどデッドスペースでの犯罪の恐怖はある。 としている。


コミュニケーション

〈町会〉
 町会は、 通り毎、 丁目毎に約30組ある。 しかし、 人口の減少と、 住所改変などの影響で、 町会の組織が乱れてきている。 町会は、 数少ない居住者と、 企業とで構成されており、 実体があるとは言えない。 行政指導で、 名前は、 連なっているものの、 普段の付き合いがなく、 また、 付き合う機会がない。 回覧板も見たことがないし、 葬式等についても、 町会からの手伝いを頼ることもなくなっている。 しかし、 一部では、 有志で構成される集まりを持っているところもあり、 いろいろな立場の人に誘いをかけてはいるものの、 完全な形にはなかなかなっていない現実がある。

 今の状態で、 大震災など起こったときには、 夜間と昼間ではまったく違う人口構成なので心配している。

〈神社と祭り〉
 船場には、 多くの神社が見られ、 商売人が多いことから神社は、 成り立っているが、 数多くあるため、 あまり求心力がない。 祭りについても、 日曜に祭事が重なると、 変更などを行い、 地元の祭りというよりも、 企業にも参加してもらってはじめて成り立っている。

〈学校〉
 船場は、 昔から教育と文化を大事にしてきた。 船場商人たちは、 子供達の教育のために、 多くの寄付をし、 校舎を建て、 愛日文庫をはじめとする多くのすばらしいものを集めた。 人口の減少と共に、 学校も合併され、 船場には、 現在、 開平小学校1校となっている。 その学校も、 現在では、 児童数が70人にまで落ち込むことがある。 学校は、 まちのコミュニティー形成の重要な核であり、 高齢になっても、 地域に溶け込むきっかけになる。 この重要な核である学校が、 地域からなくなることは、 もっと、 この船場を寂れさせることとなると考える。


船場

〈船場の衰退〉
 船場が、 物資の集積地であり、 産地から、 船場に集まり、 船場から全国へと流れていったその集積地としての機能が、 薄れてくると共に、 船場そのものの存在価値が薄れてきている。 このことと、 相続税が、 船場から余裕を奪い、 文化や、 教育に金をかけられる基盤そのものを無くすことが、 船場の衰退に拍車をかけたと感じている。

〈船場のこれから〉
 船場には、 就学児童のいる居住者が必要である。 学校は、 小中学校に限らず、 大学など学べる文化的環境が必要である。

 夜間と土日に、 パリのシャンゼリゼのような歩行空間を作れば、 もっとまちは良くなると考えている。 行政が入ってきて計画的に町を地域と一緒に計画していくことを望んでいる。

文責:横山あおい

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