実は昨日、 建築家の槇文彦先生から僕が最近出した『独身者の住まい』(廣済堂)という本に対する感想と暖かい励ましのお手紙を頂きました。
この本は別に独身推進といった内容ではなく、 個人が今日社会の中で生きるときにどのような空間を紡ぐことができるのか、 そしてどのように他者と関わっていけるのかといったことを映画や音楽など様々な事例を引きながら書いたものです。
手紙の中で槇先生は「私は“都市は個人の中にある”と考えています」と書いておられました。 私の本が“都市は個人の中にある”ということを鮮やかに表していて大変共感を覚えると書いて頂き、 的確に読んで頂いたと嬉しく思いました。
私の言う「かたちの中にすでに関係が埋め込まれている」というのは「都市は個人の中にある」という事と同義です。
いわゆる近代社会になって人間が個人として生きる事が可能になりましたが、 一方で個人として自由に生きる事と他者と共に生きる事とをうまく調整しなければならなくなりました。 常にそのような状況の中で我々はデザインの問題を考えなければならないのです。
そのように個人の側から他者との関わりに向けて考えていくときの大きなヒントが、 この「都市は個人の中にある」、 私の言葉で言うと「かたちの中にすでに関係が埋め込まれている」という言葉に込められているのではないかと思うのです。
遺伝子は二重螺旋で四つのアミノ酸の組み合せによって作られている事はご存じだと思いますが、 その一つ一つの遺伝子がさらにまた複雑に折りたたまれて細胞の中には入っているわけです。
医学部の先生に伺うと遺伝子というのは実に面白くて、 30億個くらいの情報端子があって、 そのうち読みとられるのは3万個くらいだそうです。 さらにその3万くらいの端子がどういうふうに読みとられるかと言うと、 その部分は「かたち」で決まっているのだそうです。 「かたち」が相性の合う「かたち」を見いだして、 そして繋がって人間あるいはその他の生物を創っているというわけです。
元々遺伝子の螺旋構造自体も「かたち」ですけれども、 それがさらに空間的に織り込まれてかたちを作っている。 それが生命のデザインだと言うのです。
物質自体は我々がデザインという言葉を使おうと使うまいと、 特に目的を持って行動しているわけではありませんが、 端(はた)から見るとあたかもそれが目的を持って行動しているように見えるのが面白い所です。
ですからこの遺伝子も、 あたかも目的を持って運動しているように「かたち」が「かたち」を呼んで情報が伝えられるのです。 一つの受精卵から肺、 眼球、 手足といったあらゆる細胞がつくられていくわけですが、 その一番の根本の情報が実は「かたち」に込められているという事です。
とにかく、 そのシナプス結合によって得たパターンに合致する「かたち」が脳の中にうまく認識されて人間の行動を決めていくのです。
例えば、 脳はいくつかの機能の組み合わせだそうです。 音楽脳とか言語脳、 空間脳、 会話脳、 数学脳といった論理脳があり、 それから身体脳があり、 学者によって違いますが、 とにかくいくつかの組み合わせでできていて、 そしてそれらのバランスを前頭連合野というところで取っているそうです。
そのうち空間脳と音楽脳は比較的近い関係にあるようで、 理由はよくわかっていないそうですが、 猿でもネズミでもとにかく音楽、 特にモーツァルトのピアノソナタ・ケッヘル400番以降を聴かせると空間知能が歴然と伸びるそうです。 バッハでもブラームスでもロックでも駄目で、 なぜかモーツァルトなんだそうですが、 モーツァルトのピアノソナタの後半のものを聴かせると、 ネズミや猿が自分が今どこにいて、 餌がどこにあってといった情報を得る能力が著しく高まるそうです。 これはおそらく人間も同じで、 脳の中に空間を転写していると考えていいのではないかということです。
つまり音楽は時間芸術ですが、 我々が音楽の中のメロディやハーモニーを聴くときには脳の中にある種の「かたち」を作って、 ある時間の流れの中のメロディーを、 ひとつの「もの」として空間に転写し、 認識していると考えることができます。
そのことと、 モーツァルトの透明で複雑な絡み合いと空間知能を促進する何者かは関わっているようなのです。
このように我々は時間をも空間的な「かたち」として認識します。
世界を認識する場合、 我々は空間の「かたち」として認識する、 そしてこの「かたち」自身に様々な関係が織り込まれているということが、 遺伝子や脳の研究において明らかになったとはまだ言えませんが、 そういった事を想像させるに十分な根拠が出てきているのは確かです。
このギブソンが言った事で画期的だったのは「人間はスタティックな状態で形を認識しているのではない。 人間は動的なシークエンスの変化・風景の変化の中で、 その中の動かないものとして形を認識しているのだ。 しかもその形は何かを語りかけるという形で我々に伝わってくる」という事でした。
要するに世界は「意味」に満ちていて、 その「意味」が「関係」を作り、 それが「価値の体系」となって、 その中で我々は生きているというのです。
科学的な認識では価値観抜きに世界を捉える事ができると考えられますが、 ギブソンが論じた知覚世界というのは、 物理的知覚世界ではなく、 生命が生態学的に認識する知覚世界ですから、 世界は「価値の体系」となるのです。
さて、 その際に彼が言った知覚の捉え方が三つあります。
一つは「頭を動かす」事です。 人間が頭を動かしてぐるっと見回すと視野がすーっと通過していきます。 空間の中で考えると頭を回しているだけじゃないかと思ってしまいますが、 実は主体側から考えると、 見回すことによって「風景が動いていく」のです。 そのように風景が通過する中で、 止まるものを見いだしていく、 これが「頭を動かす」ということです。
次に動物、 特に人間は「手を動かす」ことをします。 手を動かして何を掴もうとするのかというと、 それは「何か突出するもの」に対して手を動かすのです。 手を動かすということは物が突出してくるということだと言い換えることもできるでしょう。
例えばここにあるマイクは、 頭を動かす事によってマイクとわかり、 さらに手を動かす事によってマイクが突出してくるという具合です。
そして最後は「体を動かす」事です。 彼はパイロットの分析をしていますが、 パイロットは飛行機とともに動いていきます。 つまり体を動かすことによって世界が流動するわけです。
このように人間は、 世界が「通過して」「突出して」「流れていく」というふうに認識していて、 さらにその中で知覚として「かたち」を捕えているだと彼は言っているのです。 そしてその「かたち」とはあらかじめ「意味のあるかたち」であって、 関係が中に埋め込まれている。 言い換えれば、 関係の中にしか「かたち」は見いだせない。 これがギブソンの語った面白いことなのです。
生物の場合は、 二つの生命体が近づいていってぶつかりそうになったら、 どちらかが避けます。 このように一人一人がその都度判断を下す事ができるのが生命です。
ところがビリヤードなどは物体ですから、 上手く的確な方向に押し出すとそのまま接近してぶつかります。 これが自動車だと「下手するとぶつかる」になりますが(笑)。
とにかく人工物の場合は個々の実体に判断能力がありませんから、 生命体のようにうまく危険を避けていくことが出来ません。 ここのところが我々が今論じている「風景の中の人工物」の問題でもあるのだと思います。
この「風景の中の人工物」を、 あらかじめ「関係を埋め込んだかたち」を意識したデザインに出来るかどうか、 それが今後の課題だと思います。
かたちと関係
かたちの中に関係が埋め込まれている
今日のタイトルは「かたち」と「関係」というふうに分けて書かれていますが、 実は僕自身は「かたちの中に既に関係は埋め込まれている」と考えています。
遺伝子とかたち
最近、 遺伝子の構造が人間を含めてほぼ全て読みとられたと言われています。 この遺伝子という分子レベルの構造に思いを馳せて見ましょう。
脳とかたち
さて我々が世界を認識するときには、 脳の中にある種のニューロンネットワークがパターンとして浮かんでいると言われます。 シナプス結合が行われてニューロンのネットワークが築かれるわけですが、 このシナプス結合は幼い頃から5歳くらいまでにかなりパターンが決まってくるそうです。 ですから頭の良し悪しは後天的な要素としてはかなりの範囲が決まるということです。
ギブソンの知覚世界とかたち
かつてJ. J. ギブソンがアフォーダンスという概念を見いだしました。 これは懐かしい概念ですが、 最近また比較的よく取り上げられています。
人工物のかたちと関係
このように我々があれこれ考えなくても、 生命体自体は「かたち」と「関係」がうまく合致しているのです。 ただ、 今日議論になってくるのは人工物の事ですね。
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