〈激論〉
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今日お話しいただいたお三方は、 いずれも風景を意識しながら仕事を実践されている方々です。 〈激論〉では会場のご意見やご質問も交えながら討論を進めていきたいと思います。
まずは私の方から質問させていただきます。
柳田さん、 冬に除雪をするせいで細い道を作れないというお話が出ましたが、 細い道でも通れる小さな除雪車を作れば解決するんじゃないでしょうか。
柳田:
それは確かにその通りです。 細い道が作れないのは、 結局管理する側の都合の問題なんです。 除雪がどうしても必要なのは車が通る車道であり、 こうした細い道は生活上の道で、 車道に比べるとサイドの道です。 もちろん、 生活の利便性を考えれば除雪は重要な事なんですが、 除雪車以外のこと、 つまり人が踏み分けて作る道だけでも対応できるのではないか、 私はそのように考えています。 風景を作る軸となる空間を考えると、 そんな柔軟性を持って対応して欲しいと思って発言いたしました。
3人のプレゼンテーションは、 必ずしも都市の風景だけではなく農の風景という意識も強かったと思います。 やはり、 われわれ日本人にとっては都市の風景より農の風景の方が重要なんでしょうか。
竹山:
先ほど杉浦さんが棚田の風景を出しておられましたが、 棚田はアジアの風景にとってとても重要だと思っています。
例えば、 なぜ日本人は住宅地のひな壇造成にこだわるのか。 イギリスでは斜面地に家を作るときはなだらかな地形に合わせて家を作り、 風景を作っています。 なのに日本では、 斜面地の山を全部切り崩してまず平たい土地を作ってしまうんです。 日本人は土地は平らでないと価値がないと思っているのです。 それは水田を作ってきた記憶が体に刻まれているからだと私は考えています。 これはもうインプリントされた遺伝子ですね。 子ガモは生まれて最初に見たものを親と思ってしまう習性がありますが、 私たちも長い間役に立つ土地を求めてきた記憶が体内にあって、 それが平らな土地だということを無条件に求めているのかもしれません。
しかし、 ひな壇造成の風景と棚田の風景はあまりに違います。 何百年か後になって、 ひな壇造成の風景を美しいと思えるかは、 はなはだ怪しいでしょう。 ただ、 農業などの第1次産業と密接に結びついた風景、 それから生まれた美の概念と、 第1次産業とは関わりなく作られていく住宅の風景がつながっているのは面白いことだと思います。 ヨーロッパでも平らな土地が使いやすいことは日本と変わりないでしょうが、 日本のように大規模な造成にこだわることはないようです。
杉浦:
今竹山先生がおっしゃったように、 日本人のひな壇造成へのこだわりはたぶんに棚田の影響があると私も思います。 例えば、 北海道では従来の農作が気候に適してないにも関わらず、 無理矢理水田を作ろうとした運動が過去にありました。 オギュスタンベルクは北海道を風土の実験場であると言って、 田んぼを作ろうとしたグループとデンマーク風の酪農をしたグループの比較をした研究をしています。 これはどちらが良い悪いというわけじゃなく、 風土とは単純に自然に規定されるものではなく、 自然とどう関わりたいのかという人の意志が強く反映されるということだと思います。
日本人は田んぼと共に生きてきた年月が長いので、 その記憶が深くDNAに組み込まれていると言えると思います。 そのことが、 その後の都市の風景や日本人が好むデザインやパターンに間接的に結びついている可能性は高いと思います。
柳田:
竹山さんがおっしゃった「インプリントされた遺伝子」というのは、 私が今日まさに言いたかったことです。
今、 小・中学校の土のグラウンドを草地にしようという動きが出てきています。 サッカーブームの影響もあるのかもしれませんが、 日本の風土の中で考えると地面を土のままにしておくのはとても人工的な管理の状態なんですよ。 水田と同じようにいつも草取りをして管理しなくてはいけないのですが、 そこでもインプリントされた遺伝子が関与しているのかと考えてしまいます。 もう少しおおらかに考えれば草が多少生えていても良いのでしょうが、 本当にグラウンドには草一本生えないようにしている。 これは不思議な光景だと思います。
では、 都市の中に農の風景が入ってくることについてはどうなんでしょう。 これは良いことなんでしょうか、 それとも問題なんでしょうか。 ヨーロッパでは都市と農は完全に分離していて、 都市の中に農の風景が出現することはないのですが。
竹山:
農の風景がどういうものかを僕が完全に理解しているわけではないのですが、 ヨーロッパと比べていうと、 日本でもっとも長く続いた都市の代表格である京都の場合、 理想的な都市居住の形態とは「市中の山居」と言うんですよ。 町の真ん中で山の中のような生活を味わえるということですね。 ですから、 坪庭なんかを家の中に取り込んでいきました。
もともと日本は何もしないでいると、 雑草がどんどん伸びてくる土地柄です。 明治時代の六甲山や東山はほとんど木が生えていない山でしたが、 今では緑豊かな山として知られています。 また愛知の万博会場になっているところも、 今でこそ「森を壊すな」という声が高まっていますが、 戦後すぐの頃は森でも何でもない瀬戸物用の土を採った後の荒れ果てた場所でした。 そんなところが50年も経つと森になってしまう、 自然の再生力が実に強い土地柄なんです。
ですから、 日本は雑草取りを常にやって生活する場所を確保するのが宿命みたいなところがありますから、 農の風景を都市に取り込むかどうかを考える前に、 もう植栽がどんどん入ってこようとしているんです。 その入り込んできた植栽を雑草と見るか、 都市のランドスケープとして見るかが、 デザインの目として問われているんじゃないでしょうか。
今日の小冊子の中にも雑草を高速道路の景観として取り入れた例を取り上げていました。 日本人が風景に美を見出すのは、 それが生産手段に何かしら役立つということが元々はあったと思います。 生産とは稲作であったり牧畜であったり様々でしょうが、 そういうものと合致した風景に目が慣らされてきて美を見出すようになってきたのでしょう。 そのうち生産に役立たないものにも、 美を発見するようになってきたと私は思います。 昔、 丹下健三が「美しきもののみが機能的である」というテーゼを出されましたが、 日本人は機能的でなくても美を見る感覚を育ててきたんじゃないでしょうか。
ある会議である人が言ったことですが、 「美という字は羊が大きいと書く。 大きい羊をつれていれば飢えることはないという大陸の遊牧民の意識が美の概念に反映されているのだろう。 つまり、 役に立つものが美しいということだ。 ところが日本人は秋に虫の音を聞いて美しいと思う。 日本人以外には雑音にしか聞こえない。 これは役に立たないものにも美を見出す境地に達しているからだ」という話があります。 侘び寂びの美なんかもそうですよね。
そうだとするなら、 都市の中の農の風景についてですが、 どう関わるかについては役に立つという観点を超えた中に美を見出すという感覚が育っていくような気がします。 都市の中の新しい自然のあり方とは、 一生懸命植栽に関わる作為的なやり方だけでなく、 無作為の植栽にも美を見出す感覚が自ずから出来てきて、 日本の旺盛な生命力と相まって我々の美意識に変化をもたらすのではないでしょうか。
この百年は人の力の方が強くて、 コンクリートが自然を覆い尽くす時代でしたが、 これからはコンクリートがめくれていくような気がします。 やがて自然の力が勝った時に、 我々の美意識はどのくらい変化しているかが楽しみです。 そのくらいの余裕を持ち、 何百年かのスケールで美を考えておいた方が未来の都市像を考えるにも良いと思ってもいます。
柳田:
都市空間とそれ以外の空間を比べての一番の違いはやはり密度です。 ですから、 今の高密度な都市空間に農の空間がストレートにフィットするとは考えていません。
今日私が話した牧場的空間の話で言いたかったことは、 これからは日本の自然環境の中で農を通した関わり方、 我々の遺伝子のようなものが変わらざるを得ないということです。 長い時間の話かもしれませんが、 稲作的勤勉さではなく、 自然の旺盛な生命力を公認することで生まれる風景を許容する関わり方に変わっていって欲しいと思います。
今はいろんな制度でがんじがらめになって、 高密度な生活環境の中、 美しい風景や豊かさがなかなか見えないのですが、 我々の自然観が変わることでもう少し別の突破口が開ける可能性があるんじゃないかと考えています。 今日はそんなことを言いたかったのですが、 農を通した考え方が都市の中に入ってくるという発想も、 人とものの関係、 ものとものの関係を変える糸口になるような気はしますね。
杉浦:
都市の農の関係について言えば、 私の仮説ですが、 農のあり方と都市の構造は密接に関係があると思っています。 都市を成立させている生産の中心(食料生産)が農であれば、 そのあり方次第で都市の構成も左右されていると思います。
例えば、 京都・大阪の都市構造は碁盤の目になっていますが、 これは古代の条里制、 田園のパターンと結びついていました。 中国の影響もありますが、 より生活に密着していた水田作りと結びついていたのではないかと考えています。 それに比べて東京は放射状の都市構成になっています。 これは明治以降にヨーロッパの都市を規範として開発されたというよりも、 関東が大地で水田より畑地に向いていたことから、 放射状に開発する畑地のありようがその後の都市開発にも影響したのではないかと思います。
そういった中で、 日本人が禅ガーデンのような抽象的な形態や虫の音などに美を感じるセンスがどこで養われたかと考えると、 やはり日本の風土が持つ旺盛な繁殖力が起因としてあると思います。 人間の方が一生懸命に永遠なるものを作ろうとしても、 この旺盛な繁殖力の前にはどんなものも朽ちてしまう。 そんな行為を繰り返していくうちに、 移ろっていくものへの諦観、 美意識が養われたのではないかと思います。
京都の庭園は最初中国の影響を受けて、 庭の中に世界の海や山などの八景を取り入れることを基本としていたのですが、 都市化が進むにつれて物理的なスペースがなくなっていきました。 すると、 具体的なものを庭に入れて見立てることが出来なくなってくるわけです。 そこで、 白砂を水に見立てたり、 一本の木を山に見立てるという抽象化が行われるようになりました。 その過程で日本人の抽象性のセンスが磨かれていったのではないかと私は考えています。
ではここで会場からのご意見やご質問をいただきたいと思います。 どなたかございますか。
難波(兵庫県):
私は行政の立場からまちづくりに関わっています。 ここでお二方に質問をさせていただきます。
まず竹山さんに、 苦楽園のプロジェクトについて、 例えば地区計画をかけてまちづくりの意図とかかたちを守っていくというのはどうでしょう。 ある意味「お仕着せのまちづくり」になってしまいますが、 公的手法をうまく使ってまちづくりに生かせると、 行政の立場からは思うのですが。 多分、 建築家の方は建築基準法が嫌いで「集団規定」なんかは毛嫌いされているでしょうが、 公的手法を使うことについてはどうお考えなのかをお聞かせ下さい。
竹山:
地区計画は地域の住民や土地のオーナーが合意をしてから、 規制を行政と共にかけていくものですか?。
難波:
いえ、 地区計画は都市計画に含まれるものですから、 行政の方で緑を何%とるなどをあらかじめ決めてからかけていきます。
竹山:
そうですか。 もともと苦楽園のプロジェクトはディベロッパーが入って、 何度か土地を転がしてきたいきさつがあります。 バブルが崩壊したおかげでまちづくりを考えようということになったのですが、 ディベロッパーが行政の規制を受けたくないという体質があるように思います。 当初、 緑地の確保やそれぞれの家で塀は作らないなどの自主的な規制はかけていたんです。 様々な約束事を下から積み上げて自主的に作っていったのですが、 おそらくそんな規制を行政からかけて義務にしてしまうと売りにくくなると、 ディベロッパーは考えたのでしょう。
そんなわけで、 地区計画などの公的手法はとりませんでした。 おまけに我々が楽観的だったのは、 節度のある建築家が話し合っていくだろうと読んでいたんです。 西宮市から規制を受けるよりも、 自分たちの主体性と自由性を確保すればよりより町ができるだろうと考えていたのでしょう。
しかし、 その後の諸般の経済事情の変化によって、 大きくその読みがはずれてしまいました。 今となっては、 行政のアミをかけておいた方が町はまだ守られていたのかもしれないと思うこともあります。 ただ、 当初は理想主義、 楽観的に進めていたという記憶があります。
もうひとつは杉浦さんへの質問です。 東京のマンションのプロジェクトの場合、 とても工夫して凝って作り込んだという印象なんですが、 耐用年数はどのように設定されたのでしょうか。 何年ぐらいで仕掛けの更新とか建物のリニューアルを設定されているのか聞かせていただければと思います。
杉浦:
通常の分譲マンションとして販売されたものですから、 基準法にのっとった耐用年数になっています。 10年、 20年保証に耐えうるものになっており、 アートワークもそれに対応できる品質のものになっています。
アーティストからいろいろ提案いただいた中でも、 耐用年数や安全性の問題で出来ないものははずし、 それに対応できるものを選びました。
と言いましても全く初めての試みですので、 施主側も施工側も品質管理にどう責任をとるかで厳しいやりとりがありました。 品質管理責任をどこがどう取るのか、 メンテナンスのプログラムをどう立てるかも全部細かく決めてからゴーサインが出たといういきさつがあります。
僕も杉浦さんに質問があります。
このマンションにおいて、 杉浦さんがデザインしたところやアーチストが関わった部分は大変素晴らしいと思います。 それなのに建物は随分ヒドイですよね。 なぜそういうことになってしまったのですか。
杉浦:
建築家はすでに施主の方で選ばれていたので、 あれこれやりとりはあったものの、 基本的なイニシアチブは建築家にあったということです。
施主は建築家の方に建築デザイン、 私どもの方にランドスケープデザインという風に分けて発注されていたのです。
三人のプレゼンテーションを聞いていて大変気になったのは、 プロデュースする事が重要ではないかということです。 例えば、 竹山さんが紹介された例でも、 遠藤剛生さんが4人のアーキテクトを決めた時点でかなりの部分が出来上がっているのではないかと思いました。 また杉浦さんが進めたマンションの事例でも、 杉浦さんのメインの仕事はプロデュースだと思われる所も多いですよね。
形と関係を取り結ぶためには法律や個人の才能に頼ることではなく、 それらを超えた所で誰かが全体をオーガナイズする必要があると私は了解しました。 そのことについてはどうでしょうか。
司会:
この件については竹山さんが「独身者の住まい」の中で「牛若丸と弁慶」の喩えで書かれていたと思いますが、 いかがですか。
竹山:
プロデューサーにもいろいろいるんです。 右から左に流すだけのエージェントみたいなプロデューサーもいれば、 クリエイティブなことを分かっているプロデューサーもいます。
基本的には今おっしゃった趣旨には賛成です。 しかし、 それを業としてお金を得てしまうとなると、 さもしくなっていくタネがそこにあると思えてならないのです。 バブル時に僕は東京で仕事をしていましたが、 その頃はプロデューサーと称する人がいっぱいいまして、 もちろん素晴らしい人もいましたが、 行政ゴロのような人もいてプロデューサーとは一口で言えない難しいものだと思いました。
苦楽園の仕事に関して言うと、 遠藤さんはまとめ役として素晴らしい手腕を発揮していました。 もちろん人間的にも人格者でいらっしゃるし、 適所適所で手綱を締めていただいて、 僕らとしては大変仕事がやりやすかった覚えがあります。
今、 司会の松久さんがおっしゃった牛若丸と弁慶の話は、 飯粒から糊を作る話なんです。 牛若丸はへらで一粒一粒飯をつぶして糊を作ったんですが、 弁慶はこん棒でひと叩きして糊を作った。 弁慶の方が早く作れたのですが、 細やかな糊は作れずに、 牛若丸の方が上手に糊を作ったという話です。
これを希望的に言うと、 個々のエレメントに全体に対する願いや思いを込めてデザインがされていけば、 全体にうまくつながっていくんじゃないかということです。 もちろん、 現実には必ずしもうまくいくことではないでしょうが。
全体を展望できる人がいた方がいいとは思いますが、 そういう人が弁慶的に一気に成し遂げようとすると、 震災後に乱立した再開発の建物のように無味乾燥なものになってしまうかもしれません。
ただ、 今おっしゃったプロデュースの重要性については僕も感じていますし、 プロデューサーのシステムが新しいデザインの次元を開くことは必ずあるだろうと思っています。 しかし、 最終的にはプロデューサーという個人、 そしてプロジェクトにそれぞれ関わっている個人がパーソナル・コミットメント、 つまり自分も主体的に責任をシェアしながら風景に関わっていく姿勢が大事なんだろうと思っています。
柳田さんはすでにプロデューサーとしての仕事をされていますが、 その時に苦労されたことやお考えになることはどんなことがおありですか。
柳田:
函館の色彩の研究の仕事は、 研究であると同時にまちづくりの運動だったと思います。 あの研究を始めた頃はちょうどバブルの時期で、 函館にも歴史地区にリゾート系の高層マンションが建つ話がありました。
まちづくり運動をやっていて感じるのは、 自分の本業も放り出してやってくれる若い人がいてこそ進めていけるということです。 地域が変わろうとしているときに、 いろんな人の意識が密度高く広がっていくのがまちづくりだと思うのですが、 そうした人々は行政が考えて生まれるものじゃありません。
函館を例にとると、 函館は都市自体が衰退していてどうすれば再生できるかが町の課題でした。 そんな時期に若い人が古い建物を改造してお店にしていくというのがポツポツでてきたんです。 それによって地域も注目され始め、 いい雰囲気の場所が生まれてきたんです。
その機運をさらに持続させるために、 私はそのポジショニングがうまくいくためのシステムが必要だと思いました。 いい雰囲気の場所が出来ればガイドブックに紹介していく、 そんなシステムをしっかり函館で作らないと、 再生する機運が出てきてもまちづくりにはうまくつながらないだろうと思っていました。 その手伝いがしたいという気持ちは仕事をしていく上で、 どこかにありましたね。 プロデュースという言葉を聞いて、 そうしたシステム作りのお手伝いは出来たかなと思います。
先週、 札幌で行われたJUDIの会合では「コラボレーション」という言葉が出てきましたが、 そこでもやはりプロデュースの話になっていきました。
結局、 プロデューサーの仕事はものづくりではなく、 人を信用して人のコラボレーションで何かを作っていくことだと私は思います。 つまり、 人と人の関係性を作っていくことがプロデューサーですよね。 そういう風に考えていかないと、 まちづくりは面白くならないと思っています。
人と自然をプロデュースをすることも我々の仕事だと思うのですが、 その点はいかがでしょうか。
杉浦:
ひとつの建築の中でもいろんなディテールや素材で全体が構成されていますが、 都市や風景の場合にはもっといろんな力学が働いたり、 いろんな要素が入ってきますから、 どこまでが操作の対象なのかが曖昧な状況で仕事をしていくことになります。 ですから、 ご指摘のように全体を見ながら部分を作っていくことはとても重要だと考えております。
逆に、 部分が積み上がっていくことで全体が調和していくことが必要なんだろうと考えています。 ただその場合、 必ずしもプロデューサーと呼ばれる立場の人が必要だとは思っていません。 必要があれば誰かがイニシアチブを取る、 あるいは参加している人のコンセンサスが最初からあってそれぞれの専門性を発揮できて協力できる場合にはプロデューサーはいなくてもやっていけるのではないかと思います。 これは、 竹山さんがおっしゃった理想主義的な体制だとは思いますが。
大事なのは、 全体の中に部分があり、 部分の中に全体があることをプロジェクトに参加している全員が認識していることです。 誰がどういう立場を取るかは状況に応じてはまっていけばいいと考えています。
なお、 先ほどご指摘があった「マンションの建物が合っていない」については反省をしております。 いろんなプロジェクトでこちらがプロデューサーの立場の場合はひとつの方向に持っていけるように、 別の所がプロデューサーの立場であればこちらはスペシャリストの技能を発揮できるように、 全体として整合できるよう臨機応変に仕事が出来ればと思っています。
現代のひな壇造成の根拠が棚田にあるという竹山さん、 杉浦さんのお話はすっきりした説明でよく分かるのですが、 本当にそうなのかという気持ちも一方であります。 江戸時代以前の山村を考えると、 大規模な造成なんてできないからおそらく地形に沿って造成をしたはずです。 現代でも地方に行くと地形に沿って造成をしているんじゃないでしょうか。
大規模なひな壇造成は日本人のDNAじゃなくて、 明治以降の近代的な合理主義から生まれた形態じゃないでしょうか。 とりわけ、 戦後の高度成長期の都市化の中で生まれた、 安易な経済合理主義の結果がひな壇造成になったと思います。 平地が足りなくなり里山に手を伸ばしたとき、 もっとも安易な解決法でやった近代的な荒廃の結果がひな壇造成だろうと思えるのですが。
ですから、 私としては日本の伝統はそんなものじゃない、 地形に合致したやり方こそが本来のあり方だと思いたいんです。 そこへDNAを持ち出されると、 これはもう宿命ですから変えようがないのかと思ってしまいます。 私は違うと思うんですよ。 あまり、 DNAを強調されると破壊を合理化してしまう説明につながりかねないと思います。
竹山:
今のご意見が今までの正論だし、 全く正しいご意見です。 人間が近代的技術を手に入れてどう使うかの延長線上で、 環境破壊が行われひな壇造成が出てきたということが正しい説明だと思いますよ。
ただ、 それはそうなんです、 が。
ひな壇造成は、 切り土・盛り土を等しくするという技術、 安全性を確保するための30度の擁壁を作る技術があって出来て来るんですよね。 その技術自体は昔からアジア全般にあったもので、 愛媛県の段々畑なんかは山の頂上までものすごい執念で作り上げてきました。 この段々畑自体はとても美しく見えます。 起伏の激しい斜面をなんとか生産地にしようという人間の執念が美しい風景を残しました。 なぜ美しいかと言うと、 そこが食べ物を提供してくれる土地であり、 植物という生命力で覆われていたからです。
一方、 それとは全く別の論理でひな壇造成が作られました。 ブルドーザーを入れてコンクリートで固め、 生命とは全く関係ない箱が並べられて、 段々畑とは全く違う風景が展開されています。 しかし、 それをなぜ日本人は作るのか、 なぜそんな住宅地に執着するのかというと、 日本人が棚田を作ったり段々畑を作ってきた風景に免疫があるからじゃないかと考えたわけです。
僕自身もひな壇造成の風景を嫌だと思うのですが、 日本中でひな壇造成が展開されていることを考えると、 多くの日本人は不愉快だと思ってないのかもしれません。 そうした観点から、 ひな壇造成は日本人の記憶に残る棚田のDNAから来ているのかも、 という説を出した次第です。 当然、 表側の歴史としては土木的合理性や平場を作るときに得た近代技術の力によってなしえた近代の産物だと思っています。
鳴海(大阪大学):
私も一言。 ひな壇造成が棚田と決定的に違うのは、 水をそこで分離してしまったからです。 ですから、 ひな壇造成地に水を入れることができたら、 もっと美しくなる可能性はあります。 我々の住む風土はモンスーン地帯ですので、 水と住宅地の関係性はぜひ忘れないでいただきたいと思います。
司会:
もっとディスカッションしたいのですが、 あいにく閉会の時間が迫って参りました。 まとめる時間がなくなったことをご容赦下さい。
山本茂(総合司会):
今日は朝から「形と関係の風景デザイン」をテーマにいろんなお話を聞かせていただきました。 少し難しいテーマだったのかもしれませんが、 私たちが求めたい風景像やデザインについて、 いろんな角度から思いを馳せることができました。 この後は懇親会で、 今のお話の続きをみなさんで展開していただきたいと思います。 今日はこれで閉会と致します。 皆さま、 どうもありがとうございました。
パネラー:竹山聖(建築家)
柳田良造(建築家・都市デザイナー)
杉浦榮(ランドスケープアーキテクト)
司 会:松久喜樹(大阪芸術大学)
管理の問題が風景をつくりにくくする
司会(松久):
日本人の遺伝子が生み出したひな壇造成
司会:
都市の中の農の風景について
司会:
苦楽園の試みには都市計画が欠落していたのでは
司会:
マンションの耐用年数はどう考えて取り組まれましたか
難波:
このマンションのデザインがヒドイのは何故ですか
竹山:
プロデュースする力こそ重要なのでは
金沢(大阪産業大学):
函館のまちづくりにおけるプロデューサーの役割とは
司会:
部分が積み上がることで全体が調和していくことが大切
司会:
ひな壇造成は日本人の宿命ではない
木村:
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