かたちと関係の風景デザイン
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問題提起

〈風景喪失〉から都市再生のための風景デザイン

大阪芸術大学 松久喜樹

 

風景をテーマにした理由

 かつて私はアメリカに住んでいたことがあった。 時折日本に帰国した時の印象は今でも鮮明に覚えている。 成田の飛行場から東京の都心へ通ずるフリーウェー、 道路から見える風景は温帯モンスーン特有の霧が立ち渡り、 濃い雑木林に囲まれるように水田の草緑が生え神秘的な印象であった。 カリフォルニアの乾いた風景から、 しっとりした大地の風景へ美意識の変化を肌で感じながら、 まぎれもなくこれは一級品の風景にちがいないと思った。

 ところが1、 2年おきに日本に帰国するにつれ全く奇妙な風景に出くわすことになった。 防音壁である。 最初それは一部の民家の集中している場所に低くあるだけであった。 しかし、 瞬く内にそれは広がり、 連続し、 高さはどんどん高くなり上の方で湾曲している。 もう風景どころではない、 外国人に誇りたい日本の風景はどうしてこんなことになってしまっているのかと思うと無性に腹が立った。

 今では地面を走る一般道にまでこの無骨な壁が広がっている状況が見受けられる。 街なかにおいても効率や利益が優先され、 醜い風景に対する極端な寛大さばかりが目につく。 日本の都市風景は「見えない」といわれるが「見せない」ようにしているかのようである。 異常に発達した地下ショッピング街、 地震大国日本にとって危険きわまりない、 風景のない世界である。 都市は働く場所であり、 日常の生活環境において風景を意識することは贅沢なことなのか。 風景は個人の好みの問題か。 風景には基準となる規範はないのか。 こういったスタンスが風景を語ることを難しくしていたにちがいない。

 しかしここに来て時代の兆候が変化してきていると感じるのは、 1995年以降に出版された本で「風景」という言葉を含むタイトルのついた本が500冊近くもあることや、 風景や景観の問題は従来の行政による特別地域の歴史、 自然景観破壊の規制措置といったレベルから、 市民を巻き込んだ日常的な風景の整備あるいは創出などといった町づくりの手法になりつつあることでもわかる。 国は1998年全国総合開発計画である「21世紀の国土のグランドデザイン」で「美しい国土・ガーデンアイランド・日本」を指針とし、 美しい風景づくりを国づくりの目標に掲げた。 その意味では現代は明治以後過去に3回あったと言われる風景ブームなのかもしれない。 そしてそのいずれもが大きな時代変化の潮流の中で風景が取り上げられ、 風景を意識した。

 五十嵐敬喜氏はその著作「美しい都市をつくる権利」のなかで日本の町が全国どこでも同じような町になってしまったのは、 都市法が地域の実情を考慮しないで、 建築を抽象的な線(線引き)色(用途地域)、 数値(容積率、 建ぺい率など)に合うかどうかのみに合わせてきたからで、 その結果合法ではあるが、 不当な現実を作り出してきたと指摘する。 その意味では日本では地区計画を含めて、 都市計画はほとんど町づくりに役に立っていないと述べている。 さらに憲法に「美しい都市をつくる権利」の条項を加えることによって、 従来の法律を変えていくことができるのではないかと提唱している。


都市における
〈かたちと関係の風景デザイン〉とはなにか

 風景デザインが対象とする場所の多様さ、 評価軸の多様さなど多元的、 多様さを特徴としている以上、 多様の統一とでもいえる一定の秩序が全体と部分の関係で成立していることが重要と考えられる。 そういった意味で、 かたちの風景デザインとは都市風景を素材や形態あるいはスタイルの問題として捉えようとする態度であり、 関係の風景デザインとはルールや作法と呼ばれるコミュニティーやエコロジーといった自然と人間のシステムの反映としての都市風景を読み解こうとする態度と言えるのではないだろうか。

 7月のプレ・フォーラムに於いて井口勝文氏はストックの思想から西欧と現代の日本の風景を比較して見せ、 今ある都市風景の中に、 決して少なくない宝を探し出し、 そこに都市デザインの可能性を見るしかないし、 可能性もあることを示唆された。 20世紀の都市デザインはモダニズムの思想のもとで知性によってコントロールされた都市モデルができあがった。 ル・コルビジェの描く都市イメージは、 道路は交通のための機械であり近代都市のイメージは超高層、 高速道路、 人工地盤の装置であった。 都市はインターナショナルなものと捉えられ、 固有の歴史よりも理論が優先した。

 こういった場所性や地域性の欠如がポスト・モダニズムを生みだしたが、 多くのキッチュな風景を作り出したことも否めない。 モダニストのテーゼは現代でも有効であり、 進化し続けているとみる見方もある。 一方現実の日本の雑然とした都市風景の大部分は予定調和に収斂しているわけではないが、 この混沌のなかに生き生きとした市民の生活風景があることも事実である。 都市デザインに生活者の視点が欠如しているといった時代要請もある。 さらに環境共生の時代、 社会的要求と同時に生態学的要求に応えるデザインも求められる。 たとえば都市における際(きわ)といえる地形的な境目は生態学的な移行帯であり、 かつて風景を感じることができる特別な遊園の場所でもあった。 このように人間との関係で風景を捉えると人間の脳によってつくり出される風景の心的イメージが子供の時に体験した風景のイメージから強い影響を受けており、 それが風景の嗜好に反映されていることが知られている。 このことは都市で生まれ育った人々は日本人一般の原風景と考えられている農村風景よりも、 都市の風景が原風景になって眼前の風景を捉えていることを意味している。


風景という価値観で
断片化した都市環境を総合化するとは

 これからの時代は場所の意味性を再構築するために象徴的なものと、 生態的なものを結び付ける風景デザインが求められるのではないだろうか。 都市環境をデザインするにしても今までのように個別化した部分の発想から風景デザインによって部分をつなぐ連続性の発想へ総合化できないか。 現代は価値観喪失の不安な時代と言われる。 風景をキーワードに価値観の再構築をしていくことは人々に安心感と明確な目標を与えることができ、 だれもが欲していることであろう。 オギュスタン・ベルクは現代の日本の状況は急激な近代化の後遺症であり、 過渡的なものにすぎないと述べている。 そして風景の実質的な改良という形が現れ、 環境が美しくなればなるほど、 ますます風景の改良に向かう好循環を進めることが期待できるとも述べている。 もはや風景デザインの視点から美しさや快適さを追求しなければ、 都市は廃れていく。 従来の経済効率至上主義にかわって風景主義が都市性を語る言語になることで、 都市再生の新たな展開を期待したい。

     
    松久喜樹 まつひさよしき。
     1950年大阪生まれ。  81年、 カリフォルニア大学大学院 ランドスケープアーキテクチュア修士課程修了、 82〜86年アンソニーグザード設計事務所(サンフランシスコ)に勤務、 86年、 大阪芸術大学環境計画学科専任講師、 93年、 同 助教授。
 
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