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基調講演

都市のモード、 モードの都市

大阪大学 鷲田清一

 

 何をしても流されている、 という感覚は、 いまの都市生活者の意識に通底奏音のように流れるものではないだろうか。 車のお迎えがある経営のトップも、 都心に向けて電車で通うサラリーマン・OL、 そして高校生も、 じぶんが何かの欲望に駆られて必死で動いているつもりで、 じつはそのように欲望させられている、 つまりは眼に見えない大きなものに流されているという感覚は、 いまの都市生活のなかに浸透している。 毎日、 忙しいと言うひとほど、 そうである。 いまの都市生活には、 そうした意味で独特の浮遊感に浸されている。

 現代の都市は、 メディアを中枢神経としていると言えるのだろう。 高度資本主義社会というのは、 欲望の対象を生産する社会というよりも、 そういう対象はすでにいわば飽和状態に達しているがゆえに、 むしろ新しい欲望そのものをたえず生産していかないとなりたたない社会と言ったほうがいい。 広告、 それも商品の機能を伝える広告などといったものではなく、 新しい感受性らしきものを新しいイメージで提示しながら、 ひとびとの欲望をくすぐったり煽ったりする広告が、 都市を埋めている。 都市には欲望の記号が充満している。 そのイメージをなぞるようにして、 都市の表層がつぎつぎに描き変えられてゆく。

 都市の表層が、 と言ったが、 なにも看板やイクステリア、 ファッサードのことを言っているのではない。 都市を上空から見れば、 それこそひとびとは蟻のように地をはいつくばって生きているのであって、 その全体が新しい欲望の記号としてつぎつぎにめくり返されてゆくということである。 わたしはモードを、 かつてこう定義したことがある。 服についてなら、 まだ着られるのにもう着られなくなる現象、 自動車なら、 まだ乗れるのにもう乗れなくなる現象、 建物なら、 まだ住めるのにもう住めなくなる現象……というふうに。 そうしたモード変換の怒濤が、 服装や流行語・流行歌のみならず、 建築をも、 思考をも、 さらにはそうしたモードから下りるという小さな反抗をも、 うわばみのように呑み込んでゆく。

 そういった都市風景の全体に、 いま独特の浮遊感が漂っている。 象徴的な事例、 それはいたるところに設置されたコンビニである。 どんなに離れた都市に行っても、 飲み物を買いに、 雑誌を買いにコンビニに入る。 そこには見なれたそっけない店の顔がある。 そのレジのキーはその企業の情報センターにつながれている。 そしてそのセンターの存在はだれにも見えない。 どこに行っても同じ顔というのみならず、 地域の欲望のかたちが別のところで演出されているという意味でも、 コンビニは地域に貼りついているように見えて、 じつは地域からすっかり浮遊しているのである。

 こうした環境の浮遊感覚が、 ひとびとのもっとも近い環境、 つまりひとりひとりの身体にまで及んでいるということはありうる。 ピアスがひとびとの耳を飾るようになった一九八〇年代というのは、 都市生活者に独特の浮遊感覚が浸透しはじめたときと、 ほぼ一致していることからも、 それは言えそうだ。 じぶんの身体に傷をつけること、 これは「自傷」という言葉さえ生みだしていったが、 苦痛によってじぶんの身体に重しをかけるという対抗行為なしにはやっていけないというのが、 いまの都市生活者の直感なのかもしれない。

 能で面(おもて)をつけることについて、 土屋恵一郎がおもしろい指摘をしている。 面をつけると裸になったような気分になるという能の演者の感想にもあるように、 面をつけるというのはじぶんの視野のうちからじぶん自身の姿を消すことだ。 面をつけたとき、 ひとはその身体を剥ぎ取られ、 観客の視線のうちに漂いはじめる。 身体は物としては消え、 その位置もさだかではなくなって、 とても不安定な状態になる。 「能の独特の身体の構えは、 この不安への構えである。 身体感覚の浮遊をしっかりと支えるものとして、 能の構えはつくられている」というのである。

 しかし、 ここで面はほんとうはわたしたちの身体なのだ。 わたしたちは身体でありながら、 その身体はじぶんの視野にほとんど入ってこない。 そういうさだかではないものとして、 身体としての〈わたし〉の存在はある。 そういう不安定な状態のなかでわたしたちはある構えをとる。 「構えのうちで内側から力の束のまわりに身体の中心を組織しなおして、 その受動態を押し返していく」のである。 こういう身体の「押し返し」と連動するものとして、 衣服があり、 建築があるのではないだろうか。

 物としてみれば、 身体と衣服の関係と身体と建築の関係とは、 ほぼ並行した関係にあるのはすぐにわかる。 帽子のひさしと軒。 夏にきものが皮膚に汗で貼りつかないように僧侶が装着する竹編みの下着と、 木造の家屋で夏に襖を開け放ち、 庭に水打ちをして室内の空気を移動させる工夫。 妖しげな下着の存在と、 奥まった仄暗い空間……。 あるいはこんな対比も。 たとえば一方に、 居住空間の内部と外部を壁で厳重に仕切る洋風建築と、 身体をすきまなく梱包する洋服。 他方に、 取り外しのきく建具で内部と外部を通わせる和風建築と、 身体とのすきまにある空気が重んじられるきもの。 身体の構造に家具のほうを合わす洋風家具(たとえばチェア)と、 身体を家具のほうに合わす和風家具(たとえば座布団)。

 だが、 ほんとうの問題はおそらくそういうところにはない。 問題は、 不安定な身体のあの「押し返し」の構えと連動するような衣服の作用、 建築の作用だ。 身体というあり方で〈わたし〉が挿入されているその空間の密度や強度、 〈わたし〉が浸されているその空気の気配や感触、 そしてそれらの力線を設計することだ。 ファッション・デザインも建築デザインも、 空間のデザインなのであって、 物のデザインなのではない。

 モードは、 都市を遊歩するという習慣とともに生まれた。 都市という無名の者たちの空間、 そこにひとびとが集い、 行き交うようになって、 都市はひとが無名のままでセルフ・プレゼンテーションをおこなう空間になった。 ここで、 無名になるということは、 自己をほどかれるということだ。 緊密な関係のネットワークから一時放たれるということだ。 なのに、 いまの都市生活においては、 あの監視ビデオに象徴されるような、 見えないさらに緊密なネットワークにますます深く絡まれるようになっている……。 それへの無意識の「押し返し」があの「自傷」くらいしかないというのは、 都市生活の閉塞を語って余りある。 ひとびとによる「押し返し」のデザイン、 それがいまなによりも必要だ。

鷲田清一 わしだ きよかず
1949年、 京都市生まれ。 京都大学大学院文学部研究科(哲学)博士課程修了。 関西大
学文学部哲学科教授をへて、 大阪大学大学院教授(臨床哲学)。 現在は、 同大学院文
学研究科長・文学部長。 著書に『モードの迷宮』『ひとはなぜ服を着るのか』『「聴
く」ことの力」『老いの空白』『メルロ=ポンティ』など。

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