「身体的モード」の街が、 「頭脳的モード」に変わることによって、 それまでの“魅力”を失ってしまった街は、 少なくない。
「頭脳的モード」は基本的に一元論であり、 多様で動態的な社会においては常に“破綻”を内包しているといってよい。 「身体的モード」の街は、 時として“人間臭く”、 “温かく”、 “ダイナミック”と評価される。 一方、 「頭脳的モード」の街は、 見た目に美しいが、 “冷たく”、 “堅苦しく”、 “退屈”といわれる。 歴史的に見て、 都市はこれら2つの「モード」のせめぎあいの産物であり、 時としてそれらは“相補的”ですらある。 そうした意味で、 村松 伸の「道教的空間」と「儒教的空間」のせめぎ合いとしての中国的空間の理解(「中華中毒」ちくま学芸文庫2003)は興味ある視点である。 「頭脳的モード」が支配しても、 時とともに社会の動態性による“ずれ”が発生し、 そこから“逸脱”としての、 「身体的モード」が“顕在化”してくる。 「頭脳的モード」がそれを排除するなら、 その都市(あるいは社会)は動態性を否定することにより、 ダイナミズムを失い魅力を喪失する。 魅力ある都市空間とは、 これら2つのモードが程よく並存するものといえるのではないか。
カラダ・アタマ
2つのモードの相克と相補
そうした“モードの転換”を含めて、 都市あるいはわれわれの社会の“ふるまい”の型と捉えることが必要ではないか。
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