本日、 「あかりの今昔」というテーマをいただきましたので、 昔の灯灯火器からスタートして、 現在のあかりについてのモードとファッションのお話をしようと思っていたのですが、 これについては教科書を見ていただいたら十分おわかりいただけるかと考えました。 そこで私が十数年の活動の中で、 都市空間のあかりが昔と今でどう変わったかといった視点でお話ししていきたいと思います。
それでも火を使ったあかりの期間は、 照明の時代に比べて非常に長い。 電気というものが発明されて、 たかだか100年から120年くらいしか経っていないわけです。 ですから光というモードから考えますと、 照明はファッションと言わざるを得ないかと思っていますし、 あかりですらそうなのかもしれません。
今、 照明では、 昔体験したあかりの使い込んできた良さみたいなものを実現しようと、 ゆらぎであるとか、 炎が醸し出す温かみであるとかを、 メモリーを解きほどくような感覚で取り組んでいます。 人類はこの二つのツールを使って一生懸命新しいモードを得ようとしているのではないかと思います。
これがまた何億年か経って(その頃太陽がどうなっているかわかりませんが)、 新しいエネルギーを手に入れて、 例えば空気中にぱっと光をつくることができるようになってくると、 また違う光の使い方、 楽しみ方が生まれてくるのかもしれません。 そんな思いであかりの今昔をイメージしてみました。
まちのあかりの問題点の一つとして、 都市環境として夜間を演出する照明が、 ばらばらで取り組まれているということが挙げられます。 道路であったり民有地であったり、 いろんな人々が都市を共有しているわけですから、 それぞれのあかりになっている。 何も統一する必要はないんですが、 快適な都市環境の照明を実現しようとすると、 一方が良くて、 一方が良くないということが出てきてしまうわけです。 例えば一般の住宅の隣に商業用の看板照明などがあったらとても迷惑ですね。 このようにそれぞれが共有することなくかってに取り組まれているということが一つ。
二つ目には、 どこの町も同じ顔、 表情であるということです。 先ほどコンビニの話がありましたが、 全国どこでも同じようなスタイルで、 その街らしさが見えないということです。 例えば海辺であれば海辺らしさがあるだろうし、 山なら山の環境の良さのようなものがあるはずで、 そのまちらしさみたいなものを、 もうちょっと見せる必要があるのではないかということです。 地域の人が一生懸命、 街を考えて、 その街らしさをつくっていく行為が、 街のファッションであり、 それを継続していく事がやがてはモードに繋がるのではないかと思います。
問題点の三つ目として、 基盤となるまちの照明がいつも重複しているということが挙げられます。 例えば管理体制が歩道と道路、 あるいは公園と施設といった形で重複してしまっていて無駄が多いということです。
さらに四つ目として、 照明は植栽計画など周辺環境の計画がわからない中で計画を進めて行かねばならないということです。 そのために最後に照明をつけてみると、 不要な影ができたり、 植栽をいためるような照明計画になっていたりするわけです。
また五つ目として、 照明というのは、 一般の人にわかりにくいという面があります。 照明器具の形はわかるのですが、 照らし出す光環境というのは非常にわかりにくいところではあって、 そういう意味でなかなか取り組みにくいということが言えると思います。
最後に六つ目として、 良い照明環境は守らなければならないはずですが、 時間と共に無くなって継承されないということです。 これはモードの話と関係が深いのではないでしょうか。 つまり良い照明環境を守るための方法がきちんとできあがっていない。 照明は潰されやすく、 継承されないわけです。 ただ、 継承されないのは、 太陽が人に刷り込んだ光のモードに触れていないからかもしれません。 そういう意味でどのようにしたら継承できるのかというようなことを、 今、 一生懸命考えています。
照明は所詮ファッション
光こそモード
地球に生命が誕生したときから
太陽が誕生して46億年という、 非常に長い月日が経っているわけですが、 この46億年の間、 光が燦々と降り注いでおり、 その光から生命体が生まれてきたわけです。 ですから我々生命体は太陽の光から受ける心理的・生理的な影響を必然的にベースとして持っているのではないか。 そういう意味で光のモードという表現をしております。
照明はファッション
さて、 人類が火を手に入れたのが、 今から十数万年前になるわけですが、 太陽の誕生から考えますと、 とても短い時間です。 では、 火をいきなりあかりとして使ったのかと言いますと、 どうもそうではないという気がします。 生命維持のために、 あるいは狩猟のために使ったのかもしれないし、 もしかすると自然災害で焼けた肉を食べたのがスタートで、 食べ物のために使ったのかもしれない。 その後からようやく火によるあかりというものが生まれてくるわけです。
まちのあかりの問題から
このわずか100年程度しか歴史のない照明でモードを論じるところに無理はあるのですが、 私がまちのあかりに感じてきた様々な問題を通して、 テーマに迫れないかと考えました。
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