◆街と向き合う
結論から言うと、私はどんな街でもまちづくりの担い手は『市民』だと思っている。
問題は、都心だろうが郊外だろうが日本に『住む人』や『働く人』はいても『市民』はほとんどいない、っていうことにあると思う。
ずいぶん昔の話になるが、英語を習いはじめた中学生のころに、私にはどうもよく意味がわからない英単語があった。『citizen』という言葉である。もちろん辞書を引けば意味は出ているのだが、『そこに住んでいる人』というくらいの意味しか感じなかった市民という訳ではどうも理解したことにならないような、そんな特別な独立した英単語だった。そしてその言葉の先には『市民権』という言葉がさらにあった。こうなると訳語自体、普段使わない日本語である。勝ち取る、獲得するという力強い動詞があてられるその言葉から、よくはわからないまま、何かずっしりとした印象だけを受けとめていた。
それから約20数年後のある夜、人生の大先輩に突然『あなたは市民ですか』と問い詰められた。前後の脈絡から『ここはYESと答える場面だろう』とは想像がついたが、禅問答のようなやりとりの中で、『正確な返し』はできなかった。思いは遠く中学校の時に感じたcitizenの記憶へ跳んだ。私は市民なのか、市民とは何をする人のことなのか…。
今でもその言葉が頭から離れない。私の街との関わりは『私は市民だろうか』という問いと向き合ってきた過程である。
私の中で『市民』という言葉の今現在の意味は、その街を『自分の街だ』と思い、その街に対して『責任がある』と自覚している人のことである。責任があるから意見も言う。できることはやる。それがあってはじめて胸をはって権利も主張する。最近になってようやく自分にとっての『市民』という言葉の意味が、解けてきたよう
な気がする。しかし、そうやって見渡してみると実はそのような『市民』が日本には実際には少ないと思う。
◆あたりまえのことは難しい
日本の街に『住む人たち』は、その街に税金をはらうことで責任は全うして、あとは誰かが住みよくしてくれるものと思っているかのようである。
『働く人たち』は、仕事では街の利益より会社(民)の利益を優先する立場ではあるが、家庭では当然私人であり、実はprivateである場所の往復をする生活になっている。『社会』との関わりを持っている人は少なく、会社人ではあっても社会人ではないかのようである。
街の将来に利害関係がある『地権者』ですら、現代社会のなかで長期的な視野では物事を考えにくく周囲のポテンシャルを食いつぶしながら収益をあげることに奔走しがちである。しかも売ってしまえばその時点ではきれいさっぱり縁がきれてしまいかねない。
そして『行政』は、民の立場であるコンサルに考えることはまかせて、工事を発注することが仕事のようであった。さらにお金がなくなってしまった最近では発注する仕事も少なくなって、住民の意見を聞かないこれまでのやり方が否定されてきたことを盾にして(正しい行政主導を経験しないまま)、まちづくりは住民がやってくれと言い放ったりもする。その時の住民や市民という言葉のニュアンスは、地権者でもありかつ昼間から時間をもてあましている悠々自適の人が街にあふれかえっているとでも考えているかのようである。
この街のどこに、真剣に、街のことを考えている人はいるのだろうか。
この街のどこに、公はあるのだろうか。
その街に自覚と責任をもって住んだり、働いたりする人、『住民であって市民』、『働く人であって市民』、『学ぶ人であって市民』、『行政であって市民』、街には『市民』が
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パネルディスカッション
あなたは『市民』ですか
蟹AO竹田設計 森山秀二
森山秀二(もりやま しゅうじ)
1962年神戸生まれ。父親の仕事の関係で2〜3年ごとに引っ越しを重ね、いろんな街を転々としながら育った。東京大学工学部建築学科で建築計画学を学ぶ。株式会社電通に入社しテレビ局に配属、広告代理店で勤務するなかで広告の力や企業戦略などにふれる。その後株式会社リクルートコスモスではデベロッパーとしての開発プロジェクトや事業収支など、株式会社EPIでは建築意匠設計とランドスケープデザインを経験した。現在は株式会社IAO竹田設計で開発プロジェクトの企画、都市計画やまちづくりなどに関わる。企画部部長。