小浦:
今、三つの立場からお話をしていただいたわけですが、午前中に蓑原さんにお話しいただいた街の担い手像とはまた違った側面もあったかと思います。午前中の説明は、ある種のブランディングデザイン、ビジョンに、いかに力を持たせていくかという観点から、やはりデザインの力、自治による提案力、開発の文化的な意味、そしてそれをいかに持続させるかというしくみでした。
今の三つのお話は一つ一つの積み重ねで街にどう手をかけていくかという取組だったと思うのですが、やはりそこにも同じような自律性への期待であったり、いかに文化を読むか、つくっていくか、そして新しいものを行いながらいかに場所性を継承し、生み出し続けていくかという、同じような視点があったかと思います。
そこで蓑原さんのほうからご報告についてのコメントをいただきたいと思います。
お話しを伺っていて感動いたしました。まず二つの面があります。一つは(これは大阪のすごいところですが)、自分のライフスタイルや楽しみ方というものと、まちづくりなり仕事を結びつけながらやっていくという文化を持っているのではないかという点です。
やはり今あるものを、自分の生きがいを絡めながら文化的になおしていくのは、おそらく21世紀型の街のつくりかたで、そういう意味ではものすごく進んだことをしておられると、僕は思います。21世紀型というのは、おそらく大規模なプロジェクトをどんどんつくってゆくような話ではなくて、まさに今あるストックをこういう形で直していくことこそ主流になるだろうと思っているのですが、それを地でいった形でやっておられるのは、感動的な話だと思ったわけです。
ただ、さきほど市民というお話が出ましたが、僕は今のお話は市民ではなくて町民だと思っているんです。なぜかというと、お上はいったい何をしているんだということです。
私たちは高い税金を払って街を支えているわけです。なのに河川管理者は、いったい何をしているのか。河川は、もちろん治水とか利水とか様々な目的はあるけれども、本来は都市の環境として今みたいな問題に対して一緒になって議論しなければならないのに、膨大に投入されている税金は、ほとんどネガティブにしか効いていないわけです。
これでは市民文化ではなく、相変わらず町人文化の構造です。そこが2番目の大きな問題です。これはやっておられる皆さん方の問題ではなく、むしろ大阪という地域社会がこれからそういう問題を含めてどういうふうにお上との関係を変えていけるのかという問題だと僕は思っています。
お話をお伺いしていて大阪のほうがまだ幸せなのかなと思うのは、東京は恵まれたところで、フィルターをかけて、ある状況が発生すると、とたんにそれを外部形態として利用して金儲けしてやろうという奴が現れます。そして、その環境をめちゃくちゃにしてしまうわけです。それに対してどういう防御をするのかということが東京ではむしろ問題になるのですが、今のところそういうことにあまり気を煩わされずに済んでおられるようです。それは大阪の場所性があって、例えば淀屋橋や船場というと、行儀の悪い担い手というのがあまり出てこない構造になっているのかなと思います。
行儀の悪い担い手とは、一つは金儲けのために外国経済を平気で撒き散らすという担い手、もう一つはそのためには自分の土地であろうと何だろうと勝手に使わせてしまうという担い手、こういった人たちが発生しない構造になっているのか、その辺のところはお聞きしたところです。澤田さんのプロジェクトが成功したとたんに変な奴が現れてこないのかというのは心配なところなのですが、その辺はいかがなのでしょう。
有難うございました。
今日議論している新しい担い手と、いわゆる権利者と言われている人たちと、いくつかの立場の違う人たちが街を担っているわけです。今お話いただいたのはそういった権利者的意思決定ではなく、それに働きかけたり、それをうまく活用したり、使う枠組みを変えていったりといった創造性のなかで街を変えようとしている動きだと思います。そういうものが果たして従来型の意思決定と、どう違う枠組みをつくれるのかが、たぶん蓑原さんの質問にも答えていくことになるのではないか。その辺のところは休憩を挟んで、後半の議論で皆さんともご一緒に進めていきたいと思います。
コメント
蓑原計画事務所 蓑原敬
自分の生きがいを絡めながら街をつくる
蓑原:
行儀の良い担い手・行儀の悪い担い手
それから澤田さんのお話についてですが、銀座の人たちも澤田さんの勉強にきたのではないでしょうか。銀座のほうも、澤田さんがやっておられるようなことを、どうやってやったらいいかということを一生懸命模索しているわけです。
枠組みを変えるということ
小浦:
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