変貌しつつある京町堀
さて今回のフォーラムの話題提供のひとつとなるここ京町堀。歴史的な紹介は別の機会に譲るとして、ここでは近年の街動向を簡単に紹介したい。「西船場」とも呼ばれるこの地域は、ビルオーナーが最上階に住む3、4階建ての小ぶりの事務所ビルが連なり、その間に昔ながらの喫茶店(決してカフェと呼ぶものではない)、街の台所的な飲食店、事務用品店、本屋などが適度に散在し、そして所々にある抜け道のような路地と古くからの住宅が静かに同居する下町的職住混在エリアである。
それまでの歴史を断ち切るような大阪大空襲に遭い、戦後に形成された街の姿である。変化の兆しが現れ始めたのは、私の実感として6〜7年前のように記憶する。一帯に変化をもたらした大きな要因は、全国規模で覆われた社会構造的な不況の波である。
ビルの1階に洒落たお店がある。今では当たり前の風景も、ここ京町堀ではその当時までほとんど見かけることはなかった。バブルの時代前後に建ったワンルームマンションも数棟あったが、街の景色をつくりだすほどの存在感は無かった。
多くのビルの1階は一般の事務所や倉庫的な役割で機能していたが、経済効率を求める時代の要請が、永く変わることのなかった1階部分の役者交代を余儀無くさせたように思える。
幕開けは静かに緩やかなリズムでスタートした。どこかノスタルジックな臭いを漂わせるアメリカ中古雑貨店が、ある日突然のごとく出現し、本格画廊の主人が彫刻作家を連れだってオープンし、公園の緑をふんだんにとりいれたカフェが生まれ、熟練の職人がミシンを走らせるメゾンのような洋服屋が続き、わずか1、2年のあいだにまるでシナリオが用意されていたように、次から次へとこの京町堀に彩りを添えていった。
“小商い”の時代という言葉が生まれた頃である。靱公園の緑に吸い寄せられるように生まれていったいずれの店も、それぞれが個性豊かで、京町堀の名前とともにマスコミに登場することもしばしばであった。
歳を重ねたビル同様、次の世代へのバトンタッチが視野に入り始めたビルオーナーと、こだわりを唯一の武器にした小商いベンチャーの出会いは、互いが生きる道を探る過程で、今思うと必然の出合いではなかったかと思える。
3、4年前からはトレンドエリアとしてマスコミで紹介される機会も増え、ウィークデイの夜の賑わいが、ひっそりとしていた週末へも波及し、靱公園が50周年の大リニューアルを終えた今春以降とりわけ、好天の日曜日、祝日には老若問わず街散策とおぼしき人たちを目にするようになっている。
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夜も賑わいを見せる靱公園
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街の変化をどう見るか
私自身、この街の変化にはこれまでのところはおおむね良しと見ている。街に動きが見え始めた頃、戦前からこの町を知る粋な女書店主が、『若かった頃のハイカラなまちに戻っていくみたい』と立ち話のなかで話されたことに何故か喜んだことを覚えている。
ただ最近の動きには少しばかり心配している。折り込みチラシでは大々的に靭公園の緑や洒落た店のファサードなどの写真をふんだんに掲載しながらも、実際の建物は、街の空気を考えているのだろうかと思わざるをえないマンションが林立しはじめているからだ。
5年前から、小商いベンチャーの仲間たちと京町堀輪舞曲(きょうまちぼりろんど)というお散歩マップを年2回発行しながら、町内会的な立場で街への関わりをもつようになったが、仲間のなかには同じように街の将来像に不安視する人が多い。
京町堀輪舞曲の編集世話人をしている立場から、マスコミ取材の窓口になる機会が多いが、「どんな街に育って欲しいですか?」というお決まりの問いかけに、「大人たちの恋する街角になっていけたら」といつも答えている。カラオケボックスが無くても、ド派手なネオンサインが無くても、ぶらりと訪れて店をはしごしながら散歩したくなる、ギャラリーのオーナーと久しぶりに話してみたくなる、青空に誘われて今日はあのカフェのテラスでお茶を飲みたくなる、公園のベンチに腰掛けて思わず恋を語りたくなる、そんな街が大阪にひとつくらいあってもいいのではないか、と個人的に夢見ているからである。
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京町堀輪舞曲最新号表紙
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