フォーラムに向けて
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ

 

デザインの力で「大人たちの恋する街角」づくり

「京町堀輪舞曲」編集世話人 前波豊

 

京町堀との出会い

 『セントラルパーク・ノース、京町堀アベニュー沿い……』。約20年前に作成した当事務所開設の挨拶状に記したミーハーチックな文面である。

 京町堀1丁目に構える私の事務所は、通りを南に渡れば靱公園、北に少し歩けば中之島の川辺という、大阪駅から地下鉄でひと駅、大阪都心部には類い稀な自然に恵まれた環境のなかに立地する。

 昭和11年築の安田ビル本館の佇まいに魅せられ、その日のうちに入居契約をして以来早や20年の歳月を経ようとしている。幸か不幸か、生活時間の大半を過ごす京町堀界隈。

 入居10年を過ぎた頃から、時折どうしてこんなに永く同じ場所に居るのかと、飽き性の私としては不思議に思う時がある。日々のデザイン稼業に興奮しながらも、それまで居た大阪・ミナミのエキサイティングな賑わいに少々疲れを感じだした頃に出会った京町堀。まことに居心地よいエリアであり、私たち事務所スタッフがお世話になる安田ビルは、エレベーターも無ければ床も多少波うっている年齢的には少々草臥れたビルであるが、えも言えない味と凛とした落ち着きのある、誰もが愛着を抱いてしまうオフィスビルである。

 私にとって快適さの一番は散歩にこのうえなく適していることである。これまでも「思索タイム」と称して忙しい時でも事務所を抜け出し、公園や川辺で散歩時間を過ごしていた私の日常は、4年半前にやってきた我が社の新人スタッフ・オーディン(ミニチュア・シュナイザー・雄)と連れ立ってその頻度は増すばかりである。


変貌しつつある京町堀

 さて今回のフォーラムの話題提供のひとつとなるここ京町堀。歴史的な紹介は別の機会に譲るとして、ここでは近年の街動向を簡単に紹介したい。「西船場」とも呼ばれるこの地域は、ビルオーナーが最上階に住む3、4階建ての小ぶりの事務所ビルが連なり、その間に昔ながらの喫茶店(決してカフェと呼ぶものではない)、街の台所的な飲食店、事務用品店、本屋などが適度に散在し、そして所々にある抜け道のような路地と古くからの住宅が静かに同居する下町的職住混在エリアである。

 それまでの歴史を断ち切るような大阪大空襲に遭い、戦後に形成された街の姿である。変化の兆しが現れ始めたのは、私の実感として6〜7年前のように記憶する。一帯に変化をもたらした大きな要因は、全国規模で覆われた社会構造的な不況の波である。

 ビルの1階に洒落たお店がある。今では当たり前の風景も、ここ京町堀ではその当時までほとんど見かけることはなかった。バブルの時代前後に建ったワンルームマンションも数棟あったが、街の景色をつくりだすほどの存在感は無かった。

 多くのビルの1階は一般の事務所や倉庫的な役割で機能していたが、経済効率を求める時代の要請が、永く変わることのなかった1階部分の役者交代を余儀無くさせたように思える。

 幕開けは静かに緩やかなリズムでスタートした。どこかノスタルジックな臭いを漂わせるアメリカ中古雑貨店が、ある日突然のごとく出現し、本格画廊の主人が彫刻作家を連れだってオープンし、公園の緑をふんだんにとりいれたカフェが生まれ、熟練の職人がミシンを走らせるメゾンのような洋服屋が続き、わずか1、2年のあいだにまるでシナリオが用意されていたように、次から次へとこの京町堀に彩りを添えていった。

 “小商い”の時代という言葉が生まれた頃である。靱公園の緑に吸い寄せられるように生まれていったいずれの店も、それぞれが個性豊かで、京町堀の名前とともにマスコミに登場することもしばしばであった。

歳を重ねたビル同様、次の世代へのバトンタッチが視野に入り始めたビルオーナーと、こだわりを唯一の武器にした小商いベンチャーの出会いは、互いが生きる道を探る過程で、今思うと必然の出合いではなかったかと思える。

 3、4年前からはトレンドエリアとしてマスコミで紹介される機会も増え、ウィークデイの夜の賑わいが、ひっそりとしていた週末へも波及し、靱公園が50周年の大リニューアルを終えた今春以降とりわけ、好天の日曜日、祝日には老若問わず街散策とおぼしき人たちを目にするようになっている。

画像mae01
夜も賑わいを見せる靱公園
 

街の変化をどう見るか

 私自身、この街の変化にはこれまでのところはおおむね良しと見ている。街に動きが見え始めた頃、戦前からこの町を知る粋な女書店主が、『若かった頃のハイカラなまちに戻っていくみたい』と立ち話のなかで話されたことに何故か喜んだことを覚えている。

 ただ最近の動きには少しばかり心配している。折り込みチラシでは大々的に靭公園の緑や洒落た店のファサードなどの写真をふんだんに掲載しながらも、実際の建物は、街の空気を考えているのだろうかと思わざるをえないマンションが林立しはじめているからだ。

 5年前から、小商いベンチャーの仲間たちと京町堀輪舞曲(きょうまちぼりろんど)というお散歩マップを年2回発行しながら、町内会的な立場で街への関わりをもつようになったが、仲間のなかには同じように街の将来像に不安視する人が多い。

 京町堀輪舞曲の編集世話人をしている立場から、マスコミ取材の窓口になる機会が多いが、「どんな街に育って欲しいですか?」というお決まりの問いかけに、「大人たちの恋する街角になっていけたら」といつも答えている。カラオケボックスが無くても、ド派手なネオンサインが無くても、ぶらりと訪れて店をはしごしながら散歩したくなる、ギャラリーのオーナーと久しぶりに話してみたくなる、青空に誘われて今日はあのカフェのテラスでお茶を飲みたくなる、公園のベンチに腰掛けて思わず恋を語りたくなる、そんな街が大阪にひとつくらいあってもいいのではないか、と個人的に夢見ているからである。

画像mae02
京町堀輪舞曲最新号表紙
 

求められるデザインの力

 心地よいと感じる街並みは、個人個人で違うものかもしれない。しかし、私はここ京町堀が大好きである。大手デベロッパーの造りだしたものではなく、行政主導の都市計画で生まれたものでもない京町堀。昔ながらの喫茶店と最新トレンドのカフェが軒を列ね、そこに違和感を感じさせない絶妙のバランス。個人パワーの集合、もっと言えばここにしかないというオリジナリティの集積がつくりだしている街の空気。公園から漂う緑の気配をバックに、それはちょっとした看板やサイン、店先を飾るフラワーポットの類いから来訪者にさりげないメッセージを投げかけている。

 しかしながら、街全体を表現する素材にあたるビルや店の当事者にとって、恐らく「デザイン」という意識は希薄であろう。ただ現状は、各オーナーのセンスと呼べるもので、かろうじて街の心地よい景観が保たれているように思う。それは、手の届く範囲、目の届く範囲での成長スケールのなかでかろうじて保たれているもので、私にはその限界が近づいているように思われる。

 そろそろ「デザインの力」が京町堀に求められ、またそれに応える「デザインの力」が待たれているのではないだろうか。

     
     前波豊(まえなみ ゆたか)。
     1951年生まれ。グラフィック・エディトリアル、ファッション、建築・インテリアデザイン分野での活動を主体に、「まちあそび」をテーマにタウンコミュニケーション活動を実践。中之島活性化実行委員会委員、靱公園くらしとみどりネットワーク代表、NPO法人大阪再生プラットフォーム理事長、株式会社ヘミングウェイ代表。
 
左三角
前に 上三角目次へ 三角印次へ


このページへのご意見はJUDI

(C) by 都市環境デザイン会議関西ブロック JUDI Kansai

JUDIホームページへ
学芸出版社ホームページへ