都市観光の新しい形
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事例報告

大正区・沖縄の暮らしと文化を生かす

関西沖縄文庫 金城馨

 

 

小さなシーサー

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関西沖縄文庫で開催されている三線教室
 
 大阪市大正区は住民の約2割が沖縄出身者とされ「ウチナーンチュの街」とも呼ばれる。路地を歩けば、魔よけのシーサーを置いた家々があり、時折、三線(さんしん)の音が聞こえてくる。沖縄料理店、舞踊の研究所、三線の教室、空手道場など、沖縄の文化を伝える場所も多い(1997年7月9日付「朝日新聞」より)。

 ここ十何年、大正区沖縄タウンはマスコミの注目の的になっている。その勢いはますます増し、沖縄を消費する人たちの期待と欲望をさらに煽りたて、本来の沖縄としての本質とは違うイメージがヤマトのマスコミによって勝手に作り上げられている。

 また、マスコミに作り上げられたイメージを求める人々が沖縄料理を食べ、三線を楽しむことで修学旅行のための事前学習や人権学習(多文化共生)として、大正区を歩き沖縄を理解しはじめている。

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小さなシーサー・大正区 道端に転がる石敢當。ここに建っていた家のものだろうか?
 
 沖縄ブームは沖縄をのみ込む胃袋でしかない。しかし、ブームにのみ込まれない人たちはいる。あるとき路地裏を歩いていると、ふと小さなシーサーに気づいた。屋根にちょこんと息をひそめてのっかっている姿がいい。

 驚いたことにシーサーの下に目をやると植木鉢の奥には石敢當があるではないか。まるで植木鉢に守られているようにマスコミのヤマトンチュの目にさらされていないこの場所が気に入って時々行くようになっている。あるとき玄関の前でオバァがこっちを見てにらんでいた。その雰囲気に大きなオバァに見えた。

 ヤマトにいるウチナーンチュはヤマトに身をおき心は沖縄にあるという心体が分離した状態にあり、また沖縄とヤマトの政治力学が作用するたび伸び縮みする感覚を日常としている。それゆえ、大正区の沖縄人社会はヤマト社会の中において交差する。

 交差したとき、その側面から見えてくるものは何か。差別の意思が、沖縄ブームの本質など表に現れないものを写し出しているだろう。しかし、それを見るには小さなシーサーの目が必要だ。

 

漂流のさきには…関西沖縄文港

 私は、神戸港から船に乗って沖縄に向かった。神戸港中突堤は1954年、私たち家族が沖縄からヤマトの地に着いたところであり、多くの沖縄人の異郷の地として一歩をふんだところである。私は沖縄にただ向かったのではなく「私を生んだ沖縄」に戻りたかったのかもしれない。

 船は2日後、那覇港に着く。迎えに来てくれているはずの親せきがいない。少し不安になったとき、とぼとぼドゥチュイムニーしながら歩くひとが見えた。後から声をかけたタケオバァは私を見つけることが出来なかったらしい。このことは私の沖縄での旅生活を暗示していた。悩める沖縄人(私)はオバァ(沖縄人)の眼には充分日本人(旅行者)に見えたのだろうか。

 オバァの家で私はあたたかく迎えられ、自分の中にある「沖縄」が元気をとりもどしていくのを感じていた。しかし親せきを訪ね廻っていると、あるとき私を沖縄人としてではなく日本人として見ているように思えた。このことは沖縄にいる間、自分を悩ます新たな出来事であった。ヤマトグチ(大阪弁)をしゃべり、ウチナーグチを知らない沖縄人(二世)は日本人かもしくは日本人に限りなく近い人として位置付けられているようだ。

 私は再び船に乗って宮古、八重山へと向かった。どうしてもオジィの言っていた沖縄を見つけ出したかった。竹富島の種取祭でオジィの生きた時間を体験できたように思う。やっとオジィの沖縄を追い求める旅は終わった。

 しかし私は沖縄にもどる場所を見つけきれず漂流しはじめる。沖縄人として見てくれない沖縄と、日本人として見ない日本との間を自分の意志で漂流できる。船が停泊する港は色々な人が、文化が、生活が、政治が行き交うところでもある。関西沖縄文庫は港なのだ。

 沖縄を離れた沖縄人が沖縄人でなくなるならば、日本を離れた日本人、すなわち沖縄に移住しはじめた日本人はいつから『沖縄人』になるのだろうか。

 

与那原の大綱大阪へ

 その日、私は交差点で信号待ちしているタクシーの中にいた。

 となりの車の窓越しに大きな声(だと思うが窓が閉まっているため声は聞こえない)で、こちらに向かって何か伝えたい様子で、よく見ると京都で沖縄料理店をしている女性がそこにいる。あわてて窓を開けると先ほどの大きな声が「与那原大綱曳は延期になったよ」といっていたと分かり、アギジャビヨー!!私が今日沖縄に帰ってきた大きな目的が与那原大綱曳に参加?することだったのに。

 と、あきらめきれず、ひとまず与那原まで行ってブラブラし、与那原そばを食べやっとあきらめ、私の生まれた原点(とち)コザに向かうため再びタクシーに乗った。

 運転手が「金城さん」と私の名前を呼んだ。おどろいたと同時にもしかしてとも思った。運転手の玉那覇さんは話しはじめ「私は大阪であった大綱曳で六尺棒で参加した」と静かなしゃべり口で車がコザに着くまで3年前の「綱・清ら・エイサー祭り」の話がつづいた。あの時のことが決していやな思い出ではないような気がして、ほっとした。「与那原の綱を見せ物にし利用するのか」という声があったため、ずっと気になっていた。

 あの綱曳は私の中で第1回(1975年)「沖縄青年の祭り」に、木陰でエイサーが始まるのを待ちつづけ静かに見守ってくれた先輩たちのすがたがよみがえってくるものだった。

 そして「後生のお土産ができた」とはっきりと元気な声で、ひとりのおばあさんは言った。

 綱が動き始めたとき、血は叫び、肉体は停止した。見られることで消費させられる関係ははじきとばされ、逆に見る者から「ことば」をうばい、ただ「ウォー」と音を発し、そこに「神」を感じたいとき、消費する行為は打ち砕かれた。

 与那原の綱はヤマト社会がのみ込むことを許さない迫力があった。その力は、30年以上続く私たちの「エイサー祭り」に「いまのままでいいのか」と問いかけ、そして消費されないことのすがすがしさを痛感させてくれた。

(琉球新報「落ち穂」より再掲)

     
     金城馨(きんじょうかおる)
     関西沖縄文庫。1953年、沖縄県コザ市(現沖縄市)生まれ。1歳で尼崎市に移り住む。県立尼崎北高校卒。85年、大阪市大正区に沖縄関係の図書を集めた「関西沖縄文庫」を開設。75年から同区内で「エイサー祭り」を続ける沖縄青年の集い「がじまるの会」創設メンバー。
 
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