都市観光の新しい形
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パネルディスカッション

暮らしを観光することの意味

北京胡同から見えること

(株)DAN計画研究所 吉野国夫

 

 

都市観光の二大側面と岸和田の可能性

 近年、ニューツーリズムという言葉が流行っているが、これはどちらかというと旅行事業者の発想転換を促す目的が背後にあるもので、基本的には現代の観光の実態を政府や業界が追認したものと理解できる。筆者は都市観光をハレの観光とハレとケの間にある観光(半日常的空間での観光)という二つに分けて考えている。

 従来の観光は、名所旧跡や集客施設等を非日常空間を体験してもらう文字通り光を観るものであったのに対し、半日常観光はケの部分、つまり生活や暮らしの領域に踏み込んで、そこでの空間体験を楽しむものである。パリやローマといった大観光地であってもリピーターとなる要因は有名観光施設ではなくファッションやアート等のコンテンツそのものをより深く追求したり、大通りから一歩入ったあまり知られていない界隈や路地裏のお気に入りの場所や店に通うことが目的となる。「私が発見し、私と心の通じあう空間や人が居る」ということが、単に観光ツアーで皆に見せられる対象ではなく、自分と一体となった、私ならではの場が創造されるのである。

 町並み観光という領域に絞ってみると、京都や金沢、倉敷といった確立された場所であっても、リピーターは人知れず自分なりの通う理由となるコンテンツなり、場所を持っているのであるし、まだメジャーとなっていない魅力ある場所を探し求めて漂流している一定のボリューム層が存在し、それは商店街が繁華街からストリート型に転換してきたのと通じるところがある。大阪で言えば堀江や南船場、中崎町や空堀といった都心周縁部の生活感のある雑多な匂いのするところで発見され成長してきた。

 本フォーラムの開催地である岸和田についていうと南海岸和田駅前や岸和田城といったハレの観光スポットに対し、歴史的町並みの残る本町から旧紀州街道に沿って結ばれる「かじやまち商店街」や「蛸地蔵商店街」が町並み観光の最先端としての可能性を秘めた場所と思われる。筆者は1997年の岸和田駅周辺中心市街地活性化基本計画や、かじやまちのモール化事業に関わってきたが、商業中心・観光地としての成果は十分に達成できていない。その原因は何か。時代の方向は間違っていないし、地域やTMOでの取り組みもそれなりに行われている。何かが足りないのである。とりわけ、かじやまちでは居住機能や生活感が商業的賑わいを高めるのではなく、暮らしの中に埋没して行くかのような印象が見え隠れしている。広く住民にとってはそれも幸せな選択であるかもしれないが、この地が有している歴知的ポテンシャルや未来の可能性という面において、もっと前向きな観光という選択があってよいと思う。石森秀三氏は観光を「ハッピネスを基準とする感幸」というコンセプトで観光客も受入地域も幸せになろうと提唱されているが、岸和田の観光はハレの観光と半日常観光の資源を有し大きく化ける可能性を持つ都市だと思う。

 

北京の胡同観光ブーム

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1982年の北京です。お店の看板はあっても中身は商品がほとんどありません
 
 この9月にオリンピック関連工事で沸いている北京を訪れた。1982年、まだ自由な観光ができない頃に訪れて以来、実に4半世紀ぶりであった。何より驚いたのは商店街が復活していることであった。こんなことを言うと、何をバカなと思われる人がいるかも知れないが、当時は立派な大通りであっても独立した商店というものが存在せず、あっても小さな万屋らしきものがひっそりとある程度で、公営の市場か外国人向けの土産物販売施設しか無かったのである。王府井の繁華街はショッピングセンターの建設ラッシュであり、仮設の露天だった所も小叱街・民俗文化街としていかにも古くからあったように整備されて、往時の木製の井戸まで展示されている。

 どこにでも見られた胡同(フートン)と呼ばれる路地もメジャーな観光の対象となっていることで、北京空港や故宮博物院のブックコーナーでは、観光本の配置で3〜4位の地位を占めていることであった。以前は建築や都市の関係者が四合院とセットで見学する対象であり、そこら中が胡同なので、観光のコンテンツとは考えられなかった。胡同の歴史は1267年の元朝の大都建設に始まるとされているが、明代以降、さらに不規則な路地が開発され、清朝期では2076、1949年には6000以上あった(wikipedia)らしい。北京市観光局のHPでは現在も4550余を数える。オリンピック関連開発で多くの胡同が消滅しているが、一方で2002年に策定された歴史文化名城保護計画では旧市街の30ヶ所を保護区にしており、その面積は1278ヘクタールで実に21%を占める。

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北京9月、胡同、三輪車観光の風景 胡同の四合院の中に文化大革命の頃に増築された長屋の並ぶケース
 
 また、2007年8月には旧市街の人口フレームを現在の140万人から80〜90万人に抑制し、第2環状線の内側の4区にまたがる第1区画では建築物の高さ規制を実施、北京市保存書類館では15キロに及ぶ胡同の関連資料のデータバンクを整備するなど、開発と合わせて保存も本格的に進められており、日本とりわけ大阪はこの面でも追い越されそうである。

 「胡同観光」は実はそれほど古いものではない。1990年代の初期に始まって急速に発展。2004年に人力三輪車を利用した観光事業者に対する特別営業許可制を施行し、営業範囲と車両台数を制限したことが、悪徳な事業者の抑制となり観光客の増加と客層の拡大に結びついている。事実、訪れた胡同でも女子高生グループや若いアベック客が良く見かけられた。値段はあってないような所もあるが30〜50元(交渉次第で15元)、観光局のHPでは四合院での食事や什刹海の船めぐり込みの本格的なパックもので180元というものもある。しかし、本当に胡同を満喫したければ歩くしかない。

 胡同の写真本やガイドをもってとにかく歩き回ることである。

 ここで問題となるのが、住民の方の生活上のプライバシーとの折り合いである。胡同の空間の面白さは通り景観だけでは味わえない。より細い路地に入ったり四合院の中にも路地があったりして、住んでいる人の日常生活垣間見る所に醍醐味があるのだが、当然見られる方は心の準備ができていなかったり、そもそも他人しかもカメラを持った外国人が生活空間に入り込んでくることに不快感を持つ人が多い。微妙な言い方ではあるが、筆者はこうした体験を世界中で30年もやってきたので、かなり危険な所でも入って来たし、感情面のトラブルを回避する感覚とコミュニケーションセンスもあるつもりだが一般の観光客にお勧め出来るものではない。

 三輪車観光の良いところは、プロが住民と合意した一定範囲を定めて路地を巡るのでトラブルがないことだが、逆に人々の暮らしを身近に体験し、見知らぬ人と出会うといった可能性も少ない。ここに町並み観光のその先にある暮らし観光の難しさがある。パリの家具工房街の中庭式パッサージュは、そこに数件のお店があることによって部外者の存在を許される。

 

空堀・神楽坂の路地

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空堀の通り抜けられる路地
 
 空堀では路地の中にお店のある所とそうでない所が微妙に混在しており、プライベート空間を覗く不作法な来街者のおかげで、住民の一部が全ての来街者を拒否する事態も起こっている。あるアーチストは路地の中で工房兼ショップを開設しようとしたところ、路地住民の反発を招きオープン出来ないケースがある。逆にこんな路地奥に何の宣伝もなくお店があったりもする。そうした懐の深さが街には必要なのであろう。路地に入れない観光客が通りに面した萌・練・惣といった有名ショップだけを見てつまらないところだった、という人も多い。そうした人には路地を見せたくないし、見ても何の感動も交流も生まれないと思う。空堀はやはり通って、まちの人と知り合ってこその場所である。

 神楽坂はどちらかというと来外客に開かれた路地である。しかし、ここでも・花街が創り育てた「しつらえともてなし」の路地・飲食店、物販店、娯楽点が連なる、賑わいの路地・住宅が連なる生活系の路地、の3つがある。(山下馨氏)しかし大事なことはこの3つがバラバラに存在するのではなく一体の路地の町としてあることだ。氏はこれを「一見の来外客は足を踏み入れにくい…マナーの空間」としている。賑わいの路地も神楽坂らしさがあり、生活路地も下町の路地とは趣をやや異にするのであり、下町の空堀とは随分違っている。ここで面白いのは毎年秋に行われる「まちとびフェスタ」であり、和とモダンが渾然となり「まちに飛びだした美術館」というコンセプトで町をあげての文化祭となっている。また、夏や秋には着物でコンシェルジェという着物を着てもらって着物を着たボランティアガイドが案内するという1000円で写真や茶菓子のサービスもあるイベントが人気だ。対して空堀では今年で7回目となる「まちアート」が人気であるが、熊野街道の団体ウォーキングや1〜2名のリピーターによる街歩きが中心であり、観光ガイド的な取り組みは見られない。

 

暮らしを観光する事の意味とは

 暮らし観光というややエキサイティングなテーマを掲げたが、基本的は文化人類学でいう観光による文化変容の問題と重なるようである。ツーリズムが発地側の論理から着地側の自律的な誘客行動に軸足を置き、そこで生まれる土地の人々との交流こそが観光コンテンツとなるような観光がこれからの姿だとすれば、そこで求められる事は互いにより深い共同体験から生まれるのであろうし、それは芸術やクラフトなどの創造に関わる事、エコツーリズムや農業ツーリズムのような一過性でない、発地側の人々の日常性と不可分な生活スタイルとして捉えられるものではないかと思う。こうした観光はしかし、これからの実態が進む中で様々な問題解決を模索しつつ、直面する課題にダイナミックに答えていく必要がある。

     
     吉野国夫(よしのくにお)
     1949年大阪府生まれ。(株)ダン計画研究所代表取締役社長。独学で様々な仕事を覚える。73年、ダンアソシエイツを設立、翌年(株)ダン計画研究所に改組。主に官公庁の長期計画、まちづくり事業を手がける。著書に『タウンリゾートとしての商店街』(学芸出版社)、『路地からのまちづくり』(共著、学芸出版社)など。
 
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