都市観光の新しい形
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都市観光と都市デザイン

「暮らす、歩く、楽しむ、招く」観光とは

学芸出版社 前田裕資

 

 

日常観光

 従来の観光は、日常とは離れたものとして捉えられていた。住まいから80キロ以上遠出することとか、宿泊する事が観光だという定義もあれば、日常ではなくハレのものだという言い方もある。80キロ以上も先の仕事場に通っている人もいれば、ほとんど毎週のように東京に泊まりがけで仕事にゆく人がいる時代に、日常圏がどこまでだか怪しいが、たしかに観光の議論では、日常とは違うものとの前提があった。

 ところが、本フォーラムのサブタイトル「暮らす、歩く、楽しむ、招く」という切り口は、そういう従来の見方を離れ、暮らす、すなわち日常から考えてみようというものだ。

 本小冊子の吉野氏の言葉を借りれば「暮らし観光」。ただし、これは観光のためにまちづくりをしようとか、まして暮らしを見せ物にしようというわけではない。むしろ暮らしそのものを豊かにする。それも日常圏を歩いて楽しめるまちにする。それが目的なのである。

 ただ人の目を気にしないと、ついついずぼらになって格好悪くなるし、少しはお客さんがこないと、新鮮みがなくなる。たまにはお客さんにも見せたい、刺激も欲しい、という事で、招くのもよいんじゃないか。もちろんイヤな人はお断りだし、自宅に招いても娘の部屋には入れない。そういう当たり前の、きばらない感じで、自分たちが楽しくなるための都市観光を考えたいものだ。

 

日常を観光気分で楽しむ

 話は変わるが、何度かヨーロッパに行ったときのこと。毎日、やれ美術館だ、教会だ、コンサートだ、レストランだとかけずり回っていた。

 あるとき、ふと思ったのだが、旅先でこんなにあくせく文化を追い求めるのに、普段は映画を見るぐらいがせいぜいで、コンサートもレストランも行きはしない……これっておかしいんじゃないだろうか。

 ヨーロッパに行くには、安いといっても何十万もかかる。これだけお金があれば、高いと言われる日本のコンサートにだって100回はゆける。音の違いがわかるほど、耳も教養もない。レストランも今じゃ日本のほうが安いぐらいだし、味も私には十分だ。

 それでは異文化も何もない。単なる日常で、不安も、ときめきも、驚きも、憧れもない、と言う人もいよう。確かにそうなんだが、それで良いんじゃないか。自分の街を楽しめればそのほうが良い。いや、どの街だって味わってみれば結構奥深いところがあるはずだ。

 

日常が街の魅力をつくる

 旅先で、一番印象に残っているコンサートには、地元の人がいっぱい来ていた。知り合いが出ていたり、聞きに来ていたりするのか、なごやいだ雰囲気で、正装をして談笑している姿がいかにもヨーロッパという感じだった。私をはじめ観光客は、身内の楽しみにちょっと入れて貰ったという感じだ。サウナでもそうだ。初体験でドキドキしている私をのぞいて、みんなゆったりと、普通に楽しんでいた。それが絵になっていた。結局、地元の人が楽しんでいるものが魅力的なのではないか。

 これを逆に言えば、みんながみんな、観光だ、旅行だと出かけてしまったら、そのまちに魅力なんて残らない。岸和田のだんじりにしても、アルバイトの引き手と観光客だけになったら面白くもない。

 ちなみに、京都の観光客約4500万人のうち7割が近隣府県からのお客さんなのだそうだ。先の定義によれば80キロにも宿泊にも該当しないかもしれない人たちが大半を占めている。そして、再生町家店舗を支えているお客さんの多くは、もっと近場の人たちではないか。そういう厚い客層、リピーターがあって、彼らに鍛えられて、店の質も良くなるし、雰囲気も出てくる。

 宗田好史氏が書いていたが、京都の町家再生レストランにいって、初老の夫婦が和服で来て、ゆったりした時間を過ごしていたりすると、居合わせた東京の人はとっても感心するのだそうだ。さすが、京都だね、というわけだ。

 私も、どちみち食べるならチェーン店や普通のビルのお店より、再生町家を選びたい。ただ、再生町家でリーズナブルで美味しいところが少ないのが難点だ。やはり味と値段は雰囲気に勝る。そこが非日常との違いかもしれない。

 というわけで、地元の人が楽しむこと。楽しめる街になること。それが全ての出発点なのではないだろうか。

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