都市観光の新しい形
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長崎さるく博

 

日本で初めてのまち歩き観光博

さるく博のきっかけ
 さて、長崎の話をしなくてはならないんですが、そういう都市観光のあり方を考えながら長崎の仕事を私はやったわけです。

 この経緯は、『まち歩きが観光を変える』という本に詳しく書きましたので、そちらを見てください。

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茶谷幸治著『まち歩きが観光を変える』学芸出版社
 
 なぜ私が長崎から呼ばれたかというと、長崎の観光が随分ひどい状況になっていたからです。十数年前、だいたい600万人くらいあった観光入り込み客数が、平成16年には480万人くらいまで落ち込みました。そういう状況の中でですね、もうグラバー園とか平和公園とかいくらアピールしても客は増えない、もうどうしようもないということで、「まち歩き」をやりました。これは長崎市民が一生懸命考えて「これしかない」という一つの結論を得たわけです。

まち歩き観光を都市観光のインフラに
 しかし、「まち歩き観光」というのは、なかなか大変なんです。

 今日も皆さんはエクスカーションで二つのコースに行ってこられたかと思うんですが、なかなか楽しいものだと思われたと思います。「まち歩き」をイベントとして春・秋とか、あるいは何かあるときにちょっとやってみる。今はまち歩きブームでもあるし、ウォーキングというスポーツの感覚もありますので、ちょっとした観光地であれば、このイベントはまあそこそこ上手く行きますよ。

 ところが、暑い日でも雨の日でも、定番として毎日、そこへ行けば必ずそこを歩けるんだ、というような仕組みを作ろうとすると、なかなか大変なんです。いつでもそこへ行ったらいくつかのコースがきちんとあって、そこを案内してくれて、それが楽しいんだよと保証しなければなりません。昨日はあったけど今日は無いという、まあ夏の花火大会みたいなイベントは、「残念ですね、お客さん。先週来てくれればよかったのに」とか、これでは観光のインフラにならない。そうじゃなくて、いつ行ってそこにあるというのが、都市観光の資源のあり方なんです(このように考えると不完全な資源の多いこと)。

 例えばニューヨークのブロードウェイに行ったら、いつでもミュージカルが観られます。それからパリのモンマルトルへ行けば、いつでもシャンソンが聴けます。オムレツは朝から晩まで食えます。こういうのが、いわゆる都市の来訪者産業というものなんです。

 だから今申し上げたことでおわかりいただいたように、受け入れ体制をなんとかしなくちゃという考えがあったときに、イベントで何とかしていこうと考えるのは危険なんです。イベントそのものに大きな欠陥があるということです。イベントの本質というのは一過性のものなんです。一度やったら、はい、おしまいというやつなんですね。で、これに頼っておりますと、そのイベントをやり続けなきゃいけないんです。

 ある歌手のコンサートをやって、例えば20万人観客が集まった。でもそれを3日に1回、繰り返してやれますか? そんな馬鹿な事はできないですよね。そうではなくて、普通にやっていて、そのまま観光客に来てもらえるという方法はないかというところで、たどり着いたのが、実は「まち歩き」なんです。

 ですから「まち歩き」は単にですね、街を歩けば楽しいよ、ここにこんな楽しいものが沢山あるんだよ、ご案内してあげよう、さあいらっしゃい、というイベントでやったのではないんですね。長崎の場合。

 つまり、都市観光のインフラにしちゃえと思ったんです。インフラにするためにはですね、5人や10人のガイドさんを育てるくらいじゃだめなんです。地図を作って、それを皆に歩いてもらうという仕組みがあって、それの核としてガイドツアーを考えたわけですが、ガイドさんのツアーを四六時中可能にするためには、最初の計算では200名くらい必要だとなりました。最終的には395名、ほぼ倍になりました。

 それからサポーターさんといって一隊の後ろにくっついてまわる人ですね。車が危ないよとか、あるいは隊の中で説明を聞き逃したり、途中で「これなんだろう」と余計なことを聞いたりする人がいますが、その人にちょっとお答えする係のような人が必ず後ろにくっつくという二人体制で臨みました。一隊15名を限度とし、このガイドツアーが「長崎さるく博」の企画の中心です。


市民主体、手作りの良さ

さるくガイドの特徴
 そのようにして長崎の都市観光の仕組みとしたんです。実は「長崎さるく博」の何がよかったかというと、ガイドさんによる「まち歩き」、これを「長崎通さるく」と名づけたのですが、これが大受けに受けたんです。面白い、面白いということで、いろんな人が参加してくださったのです。何が面白いかというと、舞台となった長崎のまちが特別におもしろくなったわけではありません。長崎のまちというのは昔から特別に変わってないんです。新しくできたところも、少しあるんですよ。博物館ができたり、美術館ができたりですね、あるいは大きな橋ができたりはしたんですけれども、そういうところに吸引力があったのではなく、昔からある長崎のまちの中を、ちょいと案内してもらう、まさに「まち歩きガイドツアー」というのですが、このスタイルが受けたんです。

 ガイドさんは、ほとんどの方がその土地で生まれたり育ったりした人で、自分のまちとも言えるエリアを歩く。しかもそれは往って1km、戻って1km、合計で約2kmを標準としました。だからサッサと歩いたら30分、それを地図を見ながらでちょうど1時間くらい。ガイドさんと一緒だったら1時間半〜2時間。それくらいの所をゆっくり歩くというのが企画です。たったこれだけのことで、何も特別な仕掛けはありません。

 街のガイドというと、普通は「あそこに見えますのは何年何月に・・・こんなことありました」とかいうことになります。こういう歴史解説はあってもいいですが、それよりはガイドさんがここで暮らしてきたことの感覚や「こんなふうに暮らしてきた、あのときはうちのお父さんはこうでした、うちの奥さんとはここでこんな風に出会いました」とかね、こういう話をしてくださいと、ガイドさんたちにお願いしました。

 日常生活の中で、例えばゴミ出しであるとか酒飲み会であるとか、いろんな事がありますよね。そういう話題を盛り込んで、そこへ来られた方と話の交流をして下さいと。ガイドという言葉は本当はあまり使いたくなかったんですけれども、他に適当な言葉がありませんでしたので「さるくガイド」と呼ぶことにしました。「さるく」というのは「ぶらぶら歩く」という長崎弁なんですね。ぶらぶら歩きながら世間話をしてもらうという考えだったんです。

 これがもう受けましてね、親子でやるガイドをケースや、ご夫婦でやられるケースも出てきたし、それから長崎の歌というのは知られていないものも含めて3000曲くらいあるんだそうですが、それをわざわざ歌って歩いたり、様々なケースが出てきたんですね。それはまあガイドさんがご自由にやってくださいという形でやってもらったわけです。

 しかし、ガイドさんが395名もいても、観光客を何十万人も相手来ませんから、一方で、ご自由に自分で歩いて下さいという地図を発行したんですが、この地図を持って歩かれた方を含めてまち歩きをした方が、これは地元の経済研究所の調査なんですが、観光客に対して無作為調査を2回ほどやりまして、その結果出た数字が720万人ぐらいです。

 ということは1日に延べ3万人ちょっとで、ひとりで2〜3コースに参加されているとすると、実数で2万人足らずです。40数万人の都市ですから、2万人があちこち行ってもそんなに目立ったというわけではないんですけれども、ゴールデンウィークだとか、秋の終わりの季節の良い時に集中しますから、これは至る所みんなまちを歩いているように見えます。ワイワイ歩いてました。これはすごい光景だなあ。まちの中でまちを歩くだけというので博覧会になったというのは、こういうことなのかなあな、などというように、改めて私も感心したということであります。

市民プロデューサーと地元によるコース作り
 実はこのコースも地元の人たちにお作り頂いたというか、約1km四方のエリアに住んでおられる方々に作ってもらいました。リーダー役を市民プロデューサーと呼びましたが、コースづくりだけでなくイベントの企画をしたり運営を手伝ったりする市民プロでユーサーが最終的には95名になりました。地図づくりの市民プロデューサーに「ここの地図を作って」と頼むと、自分がよく歩くコースを書くわけですね。で書いたものを地元に示すと、地元の方は「いや、これは右に曲がった方がいい」とか「これは左がいい」とかやりはじめるんです。

 また長老がうるさいんですよ。「昔はここはこうだった」とか、聞いてないような話が一杯出てくるんです。そういうことをやって、それを書き留めたりして、地元で会議を何回もやりますと、もう複雑な地図ができるわけです。私から「行って帰って1時間くらいだ」と言われているのに、これは複雑すぎるとなったら、そこでまた修正を加えたり、いろいろしまして、42コース作り上げたんです。だから地図の作り方がみんなバラバラなんです。個性が1つ1つありました。それをそのままに採用して、「長崎さるく博」42のコース取りというマップ集を発行したんです。

 地元で自分たちで地図を作りますと、まず自分たちのまちへの愛着が出てきます。「へえ、そうだったのか」というようなことを後で実際に歩いた人がよく言っていたのですが、まず最初にそう思ったのは作った人たちです。「これほどすごかったんだ、うちのまちは」ということになりました。これだけ自分のまちを知るとね、人を案内したくなるんです。「私ガイドやりたい」という人が出てきて、やればいいじゃない、ということですね。どんどんどんどんガイドさんのなり手が増えていったんですね。ガイドさんも自分で得意げになって自分のまちを語ろうとする。ああですよ、こうですよ、「私の好きなチャンポンは実はそこを曲がったあそこの店です」とか話し出す。今までの行政主導の地図やガイドでは民間の店舗を勝手に推薦するなんてご法度でしたが、市民プロデューサーやさるくガイドさんは平気でどんどんやっちゃう。まちがいきいきとしてきます。

市民も「まち歩き」に参加
 自分のまちを歩いた市民の方も沢山いらっしゃるわけです。長崎にも新しい住宅地が沢山あります。「さるく博」で普段言ったことのない長崎へ行ってみて、「ああここはこうだったんだ」、「話には聞いてたけど居留地ってこうなんだ」というように、自分のまちに対する認識がどんどん更新されていくんです。それでね、自分のまちにたいする反応が変わってくるんです。

 最初は「まち歩き」を「知らないまちの発見」とか「初めての体験」とか、そういうことばかり言っていたんですけれども、だんだん、自分のまちを歩くということがどれほど自分を充実させてくれるか、このまちに住んでいる実感を感じさせてくれるかということに気づいていったんです。

 ガイド以外のことも博覧会のさまざまな運営は「じげもん」(地元の人たち)でやってもらったんです。よそ者は私だけです。こうして自分のまちに市民が大勢、積極的にかかわっていった。すると、みんななんだかすごく感動してるんです。「ああ、長崎はこんな素晴らしい所だったんだ」と。「こんなよい所に私達は生きてたんだ」ということになりました。その感情がうわーっと誰彼に広まっていくと、「私もガイドやりたい」となるんです。

 最初からいきなりガイドはやれませんから、まずはサポーターをやってもらうんですが、サポーターをやってるとガイドさんが格好良く見えるんですね。だから「私もやりたい」と。博覧会をやってる最中でもどんどんどんどん増えてきましてね。事務局は研修ばかりやってられないですから一時中断したんですが、博覧会が終わってもガイド希望者はどんどん増えています。


さるく博後

変わった市民の意識
 終わったあと、この博覧会は取り壊すものがないんですね。地図は別に破らなくてもいいじゃないですか。街は取り壊せない。いつまでもそのまんまです。ガイドさん、さようならというわけにはいかない。全部そのまま継続して使えるんですよ。

 だからもっとやろうよということで、当時の市長さんが「当然続けてやりますよ」という宣言をして、今年2007年も、「さるく博」の「博」はとりましたが「長崎さるく」ということでやっています。

 11月はさるくフェスタということで、長崎は今教会群の世界遺産登録を目指したりしているんで、それを加えたりしています。つまり定番じゃない期間限定のツアーを入れ始めたりと、ちょっとずつリフレッシュしながら続けているわけです。

 私も時々行ってガイドさんにお会いするんですけれども、どうですかと聞くと「いやあ、博覧会が終わってから出番が少なくなって困ってるよ」ということで、なんだか手持ちぶさたらしいんです。「自分たちでやったらいいじゃないですか」と言ったら「やってますよ」という答えが返ってきたんです(笑)。

 どういうことかっていうと、今長崎へ行くと「さるく」の受付機関である国際観光コンベンション協会に電話してガイドさんの手配を頼むのですが、そうでなくとも直接ガイドさんに依頼してガイドをやってもらうケースが増えています。ガイドさんもひょいひょいとやってきて、マイクと制服を着て、じゃあご案内しましょうということです。もうフリーのオーダー・ガイドが、いつでも調達できるような形になってきているわけです。まちぐるみの「まち歩き」のスタイルができあがりつつあります。

 ガイドさんに登録される方もずいぶん増えていまして、長崎市の観光部では600名を超えたって言っていたと思います。稼働しているのが400余名だというのが、今年(2007年)の現状だそうです。

 市民が「わがまち意識」を、この「まち歩き」を通してもってくれたと思います。で、わがまちの意識をしっかり持ってくれたことによって、「長崎っていいねえ」という、なんでしょうかね、市民の熱っぽさみたいなのが外へも伝播いたしまして、その熱気を求めるようにあっちこっちから来て頂いている。

 自慢じゃないですけど、長崎市なんて人口40万ちょっとの都市です。たったそれだけ。このまちが「原爆」もやらなきゃいけない、「出島」もやらなきゃいけない、今は「唐人屋敷」もやらなきゃいけない、と、もうやることが一杯あってですね、地域の財政もかなり疲弊しております。

 ですから大変な状況ではあるんですけれども、だったら自分たちでやれることはやるよというムードが市民の間にわあっと広がっていった。ガイドさんや市民プロデューサーというような色々なお世話をしてくださった人たちは、別に観光を盛り上げようというような意識はあまり無かったと思うんですね。面白そうだからやってみたら、本当に面白かったなあというね、外からいらっしゃる方をお世話するというのは、これほど充実感があるものかという形になって、今、存続している。そういうことに対して、いいよこのままで、無料でやってあげるよ、という形のものが残ってるというのが、非常に評価すべきポイントかなと思っております。

 「さるく博」をやったときに、都市イベントではよくやるんですけれども、短歌とか俳句とかのコンテストやりますよね。それで一等賞になった歌があるんですよ。

     
     「遠くから 来る朋あり 長崎を 自慢たらたら 歩かせており」。
 
 つまり遠くからお友達がやってきたときに、自分からガイドしちゃうわけですよ。もうしたくってしょうがない。だから皆さんが長崎に行けば、必ずつかまると思います。もうしたくってしょうがないわけですから。

 歩いて自慢するんですよね。「どうです、いいでしょう、うちのまちは」ということでね。もうそこまで来ちゃったわけです。

東京主導から市民主導へ
 「さるく博」は、実は、3年間やりました。平成16年、17年にまずやって、試し試しやって形を整えっていったのですが、本番が18年、2006年ですね。このときに約720数万人の方がおいでになった。グラバー園も1日1万人です。ああいうところでは、1日1万人来るというのは大変なことなんですよ。それが十何年ぶりの記録を2日連続で作った。だから本当に「まち歩き」を求めて相当の人が動いたんですね。

 私は「まち歩き」がこれほど人を呼ぶとは全く思ってなかったです。全国のあちこちでやってる企画だし、なんとかなるというよりも、他に方法が無かったんです。だって人寄せパンダのイベントやりたくないというんです。私も仕事と割り切ってお金をもらうだけだったら、何か人寄せイベントをやるほうが私だってずっと楽なんですよ!? ハイハイハイ、ということでポンポンポンとやって、それで何十万人か来てくれたらいいんです。けれども、長崎は実は過去にちょっと嫌な歴史がありました。

 「日蘭修好400年」、あるいはその前に「旅博」という博覧会がございました。実はこれは県主導のいわゆるイベント型でやって、沢山のお客さんが来てくれたんですけれども、東京からやってきたプロデューサーが自分つれてきたスタッフを使って、まあ長崎の人たちもスタッフとしては使ったんでしょうが、終わったらさっとギャラと人を持って帰ってしまった。後には何にも残らなかった。それで、一過性で翌年からまた沈んじゃったと、その話を市民が盛んに言うんですね。よく聞いてみると。

 じゃあそういうことの無いようにしましょうということで、「それではあなた方がやってくださいよ」と、まあそれこそ義務と恩恵というものとがあるんですが、「やりますよ」ということで、できてしまった。

 まあ、「まち歩き」だからやることはそんなに難しくないんです。その前提にお客さんに来てもらいたいということがあった。このままでは長崎は立ち直れないところまで落ちこんでいった。だから、なんとか元気のあるまちを作りたいし、そのためには来訪者、つまり観光客をうんと集めたい。それを自分たちで迎えよう。こう決意したら市民も必死です。

 観光者が来たらなんとか喜んで帰ってもらいたい。「それはガイドさん、あなたたちの役割でしょ」。だってパビリオンないですから。ロボットも映像もないんだから、ここでは冷凍マンモスを見に行くってわけにはいかないんです。「真夏の暑いときに、大変だなあ」というムードが一度流れたんですけれども、「じゃあ止めますか? 止めてもいいですよ。博覧会を中止すればいいんだから」と言うと、「とんでもない。私たちがやりますよ」という逆の反応が出てきたというのが、彼らの迫力だったのではないかという気がしますね。

名物市長の暗殺、さるく市長の誕生
     
     「わが町を 夏より熱く 語るかな」。
 
 これが俳句の部で市長賞をとった句なんですね。その市長賞を差し上げた当時の市長の伊藤一長さんというなかなかの名物市長さんがいらっしゃった。それが、今年(2007年)3月末の統一地方選挙で、長崎の駅前にあった自分の選挙事務所に帰るときに、暴力団関係者に後ろから2発撃ちこまれて、即死ですね。心肺停止状態で翌日亡くなりました。

 選挙中だったので、大変な騒ぎになりました。で、某政党から一人と、後はまあ言っちゃあ悪いですけれども、政治には関係のない人がちょっと立候補されていたのですが、伊藤一長さん大楽勝という話が流れていたので、こんな事件の後は長崎市の未来はいったいどうなるんだと市民に動揺が走りました。幸か不幸か投票日の3日前までは追加候補が認められるということで、娘婿さんが新聞記者をされていたんですが、立候補された。

 それを見ていた長崎市民が「これでいいのか」ということになったらしい。私は行ってないので知らないのですが。それで立候補したのが長崎市の一課長だった田上さんなんですね。その人が立候補して、たった3日間の選挙運動で、市長になっちゃったんです。

 これは弔い選挙です。市長さんがあんな不幸なことで亡くなられて、次にその娘婿さんが立たれて、そのような弔い選挙で負けた例は今まで日本にはないんだそうです。当選するあらゆる条件が揃っている、しかも普通の人が出ても選挙運動なんて出来ない。あと3日しかないんだから。

 それでもそうならなかったというのは、間違いなく「長崎さるく博」を支えた市民が、延べ数ですが2万9000人くらいの数になるんですけれども、その人達が実は田上さんの選挙を支えたんです。まるで、「さるく博」そのままの選挙を実行しちゃった。

 それはつまり、ここまでやってきた「私のまち」を何にも知らない人がどうする気だ、というんです。娘婿さんは新聞記者をやっておられただけに、何にも知らない訳はないと思うのですが、東京勤務でしたから地元とは直接縁がなかった。そういう人に来てもらってどうなの?というのと、それとこれは伊藤一長さんという、あれだけの市長さんが無念にも亡くなられたんだから、なんとかその恩に報いなくちゃというのとのせめぎ合いだったんです。それが、何とか900票くらいの差で新市長は田上さんということに決まったわけです。

 実は、この田上さんという市の職員が、私に最初にメールをくれて、実は長崎でこういうことをやりたいんだけど、相談に乗ってくれないかと言ってきて下さった人でありまして、私自身このことを思い出すたびに胸がつまる思いがします。

まち歩きは人(ひと)観光
 最後にあえて私から申し上げたいことは、「まち歩き」というのは、まちを歩いてあそこの神社がどうだ、教会がどうだ、坂段がどうだというまち巡りも楽しいでしょうが、そのまちそこにいらっしゃってそのまちの人と触れ合う「人(ひと)観光」という側面を非常に強く持っているということです。そして、観光の受け入れ体制の方からいくと、そういうことをやることによって、わがまち意識とわがまちに対する自慢になるまでの愛着というものが、どんどんふくらんでいくんだと思います。

「長崎さるく博」は、いままでの観光キャンペーンと大きく異なる手法を採用しましたが、その結果大きな成果を得たのですが、それは「人観光」の側面を非常に強調したということです。市民プロデューサーやガイドさんの果たした役割はまさにそうです。このあたりのことを具体的に記録しておこうと考えて、『まち歩きが観光を変える〜長崎さるく博プロデューサー・ノート』という本を書きました。博覧会が終わって一年以上も経つのに「さるく博」成功の謎解きへのご要望がとても多いので書いてみました。皆さまにお読みいただければと思います。

 ここでちょうど手持ちの時間がやってまいりましたので、私の話は終わりとさせて頂きたいと思います。どうもありがとうございました。

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