京都の景観はよくなるか!?
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1。修徳学区の景観づくりは
「地域の歴史と文化」認識から

修徳まちづくり委員会委員長 小西宏之

 

●修徳学区のまちづくり

 地域の歴史と文化という認識から景観についての地域の理解が出てくるという観点から今日のタイトルを付けました。

 京都の方はご存知でしょうが、まずは修徳学区の位置や歴史的な背景について簡単に説明いたします。

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 我われの修徳学区は、京都駅から北に歩いて10分ぐらいのところ、五条通りに面しています。阪急四条烏丸からも、南に歩いて10分ぐらいの位置です。南北200m、東西400mの矩形の地形です。

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 この地域は、平安時代から鎌倉時代にかけて政治の中心の位置を占めてきました。今でも、関白九条兼実をめぐる人々の歴史的な史跡、例えば藤原俊成、法然・親鸞、九条兼実の政敵であった源通親の祖先(源氏物語に出てくる夕顔の逸話のモデルとされた具平親王)を感じ取ることのできる史跡や場所がいくつかあり、住民のみなさんが誇りに思っています。それを景観づくりに反映させたいということからスタート致しました。

 一方、少子化の流れで7学区が洛央小学校に統合され、修徳小学校は廃校となりました。以前大阪の人から「小学校がなくなったのに、なぜまちづくりの単位が今でも小学校なのか」と聞かれたことがありますが、京都の小学校の単位となった町割りは戦国時代に信長から自治権を認められたほどの由緒があり、明治になったときその町割りを基礎として小学校が出来たという歴史があるんです。我われは、その点でも学区に自治の伝統の誇りをもっております。ですから、小学校がなくなることで、住民の絆もなくなることが心配でした。そこで、跡地を老人ホームにするだけでなく、ここをまちづくりの中心拠点としたいということから活動を始めました。

 実はちょうどその頃、京都の町でもマンションが増え始め、建設を巡るトラブルがあちこちで発生していました。そこで、我が地区では高層建築を控えてなるべく中低層のファミリー向けマンションが建つようにしたいと思い、地区計画を作成しました。学区地域全体の地区計画を作ったのは我われが第1号です。

 その地区計画をさらに具体化して、ではどういう建物がいいのかをみなさんに訴えたのが「まちづくり憲章」です。これが出来たことで、この地区でマンションを建てようとする業者さん、設計の方が必ずまちづくり委員会あるいは自治連合会に相談にいらっしゃるようになりました。そこで相談を重ねて、どういう顔のマンションにするかという合意を経て建設にいたるという経緯になっています。

 マンション問題が難しいのは建物の形だけでなく、防犯・防災といった学区(まち)全体の自治や地域管理に関わらない建て方になってしまうので、学区(まち)の中で孤立してしまうことが多いことです。つまり、マンションのところだけ学区(まち)の自治の中の空白地帯になってしまうんです。それが最も大きい問題だと我われは認識しております。

 ですから、まちづくり憲章を作りましてからは、マンション住人にも自治連合会に入ってもらうようにしました。今は新築マンションの80%ぐらいの方が入っておられますので、このまちづくり憲章は効果があったと思っています。

 業者さんが建てる高いビルの場合はそんなことでうまく行きましたが、一方で個人が建てられる家はどうしていただくかという問題がございました。個人の美意識もありましょうし、経済的な問題もありますから。今、それをまちづくり委員会で検討しているところです。


●修徳学区に相応しいデザインとは

 ここで、写真を見ていただきます。

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 これは藤原俊成の邸宅の中にあったという歌道の神を祀った新玉津島神社(松原通り)の隣にある染料屋さんのビルです。付近に考慮した建物になっています。

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 その南隣にある建物で、ずっと向こうに見える町家は和歌所跡に建てられたものです。

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 この町家の西側に大泉寺というお寺がありまして、ここは「花園殿」という九条兼実の別邸だったところです。ここで法然が月見をしたという逸話があり、そこから「月見町」という町名がつきました。この家は江戸末期から明治にかけて定着した典型的な京都の町家ですが、その隣が調和していないことが問題でした。

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 ここは道祖神社という和泉式部ゆかりの場所でして、そこに建つ大正末期から昭和にかけてのスタイルを持つ家です。窓の鉄格子の下に重厚な石造りを施した建物です。

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 これは悪王子神社という祇園祭関係の御旅所ゆかりの町に建つ建物です。上は明治時代の虫籠窓、下は大正〜昭和にかけての石造りスタイルという形です。

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 我が町内は、江戸〜明治、大正〜昭和、さらに洋館スタイルなど町家の変遷を示す建物が数多く残っており、これからの町並みとどう調和させていくかが問題です。これからそういう問題にも取り組んでいきたいと思っております。

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 これはみんなで設計を考えた修徳公園で、その向こうが明治天皇が井戸水を飲まれたという仕出し屋さんの建物です。

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 これは新景観政策後に建った建物です。奥の建物は格子を施していていいなと思うのですが、前の建物は自動車の置いてあるところが外から丸見えです。なぜかなあと疑問が残る建物です。せめて引き戸でも付けてくれたら良かったのですが。

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 この建物は新景観政策前に建った物ですが、私たちとの話し合いを経て作られた、格子と庇を施したマンションです。

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 平成の町家はどうあるべきかをよく話し合うのですが、このように新建材の材料を使っても、瓦や格子など伝統的な意匠を取り入れたらなかなかいいのではないかと思っております。

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 これはある建築士の方の事務所です。普通の町家だったのをこんな形で事務所として作り替えられました。これも平成の町家としてあるべき姿ではないかと思います。

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 これを平成の洋館と呼んでいいかどうかは分かりませんが、とても綺麗な御影石の建物です。ただ、これは新景観政策には合致してないんですよね。これを明治の洋館の感覚として扱って良いものかどうかを、今検討しております。

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 新景観政策が出来たときにワークショップを行ったのですが、そこでは、本当にいい建物が建つのか、地域が望む建物が建てられる仕組みになっていないのではないかという疑問がございました。

 これからのまちづくり委員会の挑戦としては、まず町内の人たちが同じ理念でひとつのルールを作ろうと思っています。そこで、修徳文化財という呼称を考えて(ただし、これについてはもっと簡単な呼び名にしなさいという声があったので今検討中です)、町内の古い建物をみんなで選んで表彰するということを考えています。

 また、新しく建物を建てたり、作り替えたりするときは隣近所に相談するというルールを作りたいですし、地域が望むデザインを地域で作れる仕組みの検討、地域住民と専門家によって構成される組織(例えば建築分科会という組織とか)を立ち上げて、景観づくりだけでなく、防災や防犯にも対応できる活動がしたいと考えております。

 以上です。

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