「形」をめぐる課題として、 「つくり過ぎ」を挙げておかなければならない。
このことは、 よく言われることではあるが、 改めて強調しておきたい。
土木がつくる空間、 景観では土木が主役になることは、 むしろ少ない。
土木は黒子となって控え、 影にあって支えている場合が多い。
そこでの土木の役割は、 その場所の(あるいは環境の)ポテンシャルを引き出すことである。
デザインの主眼は、 場所のコンテクストを読み、 それを構成する要素を編集したり、 強調したりすることにある。
ところが、 つくり過ぎのデザインの自己主張は、 それに反することが多いのである。
「つくり過ぎ」は、 「デザイン過剰」ということの他に、 「不自然」を意味する(キーワード集、 筆者『「不自然な」造形』を参照のこと)。
「不自然」というのは、 「天然の反対で人工・人為であること」「性質に違い、 もともとそうなる傾向にないこと」「わざとらしいこと、 ありのままでないこと、 あたりまえでないこと、 無理のある様子」などの意味である。
たとえば、 「和風」と「洋風」を無理に組み合わせたりすることでいかにも不自然になることがある。
あるいは、 自然河川の河川敷に人工のせせらぎを設けるなども同様である。
また、 河川や湖沼などの水と土が接するところにおいて中・下流域のゆるやかな流れのところであるにも関わらず急流域の岩場のような、 あるいは日本庭園風の石組みで護岸をして、 極めて不自然に見えることがある。
日本庭園風のしつらえであっても、 同じ材質の(しかもそこで産したわけではない)石を表面上の形だけ真似て並べるというようでは、 「似て非」なるものである。
日本庭園は、 自然の模倣・模写を旨とするが単に真似したり擬したりしているわけでは決してない。
それを更に模して自然の中においたところで、 不自然になって当たり前である。
「縮景」さらには「借景」のあり方をもっと考える必要がある。
キーワード集では井口(『自然の「土木」』)がこの点に言及している。
不確定部分に対する対処、 偶然性の許容、 時間に対する考慮、 誘導するデザイン、 などがその内容である。
「エイジング」、 すなわち、 年をとること、 熟成をまず考えたい。
年月が経てば環境は変わるが、 変わるそのことを考慮したデザインがなされなければならない。
一つは、 材料である。
年ふればむしろ味わいが出、 美しくなる材料―天然素材―を使う必要がある。
そしてこのとき、 むしろ「デザインしない」、 そしてもちろんつくりすぎない方がよい。
また、 「緑」は、 年月とともに成長する。
エイジングの典型である。
このデザインは重要である。
そして、 緑のデザインでは、 将来の成長の「余地」を残さなけらばならないという点で、 これも「デザインしないデザイン」と言える。
景観づくりにおいては、 直接にデザインできない部分が多々ある。
たとえば、 街路における民地部分、 建物などである。
これらも、 しかし、 年が経てば変わる。
その変わる方向を指し示し、 デザインの力によって変化を誘導し、 かつ、 他の諸々の手段によって変化を制御する。
これも一種のエイジングであり、 「デザインしないデザイン」が重要な部分である。
キーワード集では、 筆者(『「自然な」造形』)、 江川(『触媒としての土木』、 田村(『醸成してゆく空間』)、 西(『意図しないもの』)、 平井(『なくなる』)、 舟引(『10年後の姿』)などがこれに関連している。
それぞれの材料は、 固有の色、 テクスチュア、 持ち味をもつ。
それが生かされなければならない。
キーワード集でも、 材料は、 重視されており、 一つの章にまとめられている。
それらは、 筆者(『本物の材料』)、 大久保(『テクスチュアー』、 『カラーリング』)、 佐々木(『個性を与える舗装』)、 中村(『ある程度の粗雑さ(舗装編)』、 『ある程度の粗雑さ(壁面編)』、 『ある程度の粗雑さ(河川編)』)長谷川(『情緒的な素材』、 『多様な表情』)、 である。
しかも、 他の章に分類されながら、 素材について言及しているものも多い。
大久保(『積む』)、 大矢(『地域の魅力を引き出す』)、 田村(『醸成してゆく空間』)、 土橋(『地域にとけ込む』)、 横山(『調和型のデザイン』)などである。
筆者の『本物の材料』でも述べているが、 材料の持ち味を醸成する要因として重要なのは「自然性―人工性」である。
概括的に言って、 石や土、 木など天然の素材そのものは自然性がもっとも高く、 手を加えられてそれから離れる程人工性が高いといえる。
例を挙げると、 筆者のまったくの主観的判断であるが、 石・土・木―煉瓦―かわら―コンクリート(表面仕上げによっては順位が上下する)―タイル―コンクリートブロック(形に依る)―アスファルト、 の順になろうか。
一般に自然性の高い材料程、 自然環境にも良く馴染み、 人々に受け入れられ易いと考えてよいだろう。
さらに「真(ほんもの)性―偽(にせもの)性」も重要である。
材料は、 そのものとして使うことが大切で、 何かに擬して用いるべきではない。
このことは、 前述した「不自然さ」と関わる。
本物であるということは、 ものがもつ性質通りであるということで、 それは自然であることである。
偽物は、 「似て非」という無理があって、 わざとらしい。
そのような材料で出来た土木は、 デザインがよかろうとスケールにおいて偉大であろうと、 貧しさ(精神や文化の貧しさ)を感じさせるだろう。
偽性が高い材料は、 (工業)製品としてつくられるものに多い。
タイルの内、 グラニット・タイル、 煉瓦タイルなどは、 別の本物に似せてつくられている点で偽性があるが、 タイルそれ自体として真性が高く、 とくに煉瓦などは焼き物としては同じである点で、 真性も認め得る。
ただし、 本物と並べて比べれば、 その味わいなど、 明らかに差がある。
偽性が高く、 全く評価し難いもので最近よく使われ、 目につくのは、 石積模様化粧型枠によるコンクリートである。
到底石とは見なし難い、 しかし自然石風の輪郭線が内部に描かれた1m角程度のパネルがデザインとしてつまらないものであり、 さらに、 その模様が延々と繰り返される有り様は異様とさえ見える。
同じ模様が続くこと自体は、 工業材料を使えば当たり前のことで致し方ない。
そのような繰り返しがあることに対する無配慮さが悪いのである。
自然の中にしかないような不規則な模様が、 自然の中には決して無いように繰り返されることの不自然さが不興を招くのである。
筆者は、 化粧型枠を使うこと(すなわち、 型の模様を生かすこと)自体は結構なことと思う。
なぜなら、 それはコンクリートの本来的性質である鋳造性(金属ではないので「鋳」はおかしいが、 他に適当な語が見つからない。
moldability、 caStabilityと言える)を生かすことになるからである。
しかし、 それを石積み風という偽物づくりに使うことが許せないのである。
キッチリとデザインした(人工的な)模様で、 繰り返し使うことへの配慮をして用いればよいのである。
この他、 「自然の素材」「コンクリート」「鉄」「工業製品としての材料」など、 個々の材料について、 その一般的性質を吟味・把握しておく必要があるが、 ここでは詳述しない。