手のひらに載る都 by 佐々木幹郎
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ヒマラヤ山岳部の風景

漣痕化石と造山活動

画像sa01  まずこの写真を見てください(図1)。

これはムスタン王国に入る直前の、 ヒマラヤの山岳部の山道です。

このあたりで標高だいたい3000mですが、 写真の右端のところに川が見えます。

カリガンダキという川ですが、 ヒマラヤ山脈を縦にチベット高原のほうから流れてきてインドまで行き、 最終的にはガンジスになる川です。

 そのほとりをずーっと上がっていきますと突然漣痕(れんこん)化石の岩肌が見えます。

この化石は、 いわば「波の化石」と言ってよいでしょう。

「リップルマーク(漣痕)」と呼ばれる、 古代の海岸の砂浜に広がっていたさざ波の痕ですね。

 ヒマラヤ山脈を地図で見ますと東西に3000kmほど一直線になっています。

インド亜大陸はもともとはアフリカと一緒だったのですが、 それが分断されどんどん北へ北上しました。

そしてユーラシア大陸にぶつかってもぐり込み運動を始めます。

その時に、 ユーラシア大陸の海岸とインド亜大陸の海岸の間の海がずっと高くなっていきまして、 それが現在の8000m級のヒマラヤ山脈を形作っているわけです。

現在ももぐり込み運動は続いております。

 そういうことが始まったのは1億6000万年前といわれていますが、 最終的にヒマラヤの造山活動でエベレストなどの8800m級の山ができたのは、 今から60万年前といわれております。

 そのぶつかり運動があったときにユーラシア大陸側の海岸の漣もそのまま8000m台まで上がっていきます。

ですからヒマラヤ山脈というのは非常に不思議な山でして、 山の上へ行けば行くほど太古の海に出会えるということになります。

エベレストの頂上からもウミユリの化石が出てきますし、 このカリガンダキ川の辺り、 標高3000m辺りはアンモナイトの宝庫です。

アンモナイトも海の中の動物です。

ヒマラヤの下のほうでは海の動物の化石は出ません。

しかし3000m以上から出てきます。

これが太古、 ヒマラヤは海の底だったという証明になるわけですが、 漣痕化石はそのことをよく証明しています。

 漣痕化石は、 さざ波の痕と先ほども説明しましたが、 ここがユーラシア大陸の渚だったのです。

それがヒマラヤ山脈の造山活動によって垂直に立ちあがってしまった。

漣痕化石は太古の海の水がゆたゆたとたゆたっていた痕で、 そこがムスタン王国への登り口です。

ここからさらに山道を北上します。

カグベニ村

画像sa02  山道を上がって行きますとムスタン王国の入り口にあたるカグベニという村に出ます(図2)。

正面の白い山はアンナプルナの裏側です。

写真中央のカリガンダキという川の河原を歩いて、 写真の手前の方へ上がってくると、 この村へたどり着きます。

 これからいろいろ都市構造を説明しますが、 ここに写っている赤い寺院を一つの典型とお考え下さるのが一番いいかもしれません。

宗教と居住空間

 どういう所に人間は居住空間を作るのか。

さっきも言いましたように、 現在の日本人は宗教感覚を日常生活から失っておりますが、 ヒマラヤ山岳部の人達は日常生活の中に宗教を生き生きと機能させております。

都市空間もまた、 宗教をもとにして作っています。

先ほどの赤い建物は「ゴンパ」といいます。

ゴンパとは寺院のことです。

チベット仏教の僧侶達の館です。

 チベット仏教にはゲルクッパとニンマッパとサキャッパとカギュッパという四つの宗派があります。

ダライラマが属しているのがゲルクッパです。

ニンマッパというのは「古派」ともいわれていますが、 8世紀後半のチベットを支配した最も古い宗派です。

「パ」というのは「〜派」という意味ですね。

 ニンマ派の寺院の壁は真っ赤に塗られています。

宗派によって寺院の壁の色が決められています。

赤は文殊菩薩のシンボル・カラーです。

この色はヒマラヤの山岳部では非常に大事にされています。

後で、 この赤色をめぐって人々がどんなふうに宗教空間を形成してきたのかを説明することができると思います。

 寺院を中心として集落は営まれまています。

周りには大麦畑があって、 このあたりはまだ小麦も育ててます。

それからソバ、 大根といったものを植え付けています。

動物は、 ヤクという高山牛、 それから馬、 山羊、 犬、 鶏がいます。

川の交わる場所の持つ神聖さ

 「カグ」とはチベット語で「砦」という意味です。

カグベニ村が、 二つの川が交わってY字型になっているその三角型のところに都市居住空間を形成しているのは、 そこが聖なる場所だと考えられているからです。

そういう考え方はヒンドゥー教でも仏教でも同じです。

 日本でも、 二つの川が交わったところは聖なる場所であると考えれられていました。

例えば『万葉集』に出てくる歌垣のときの歌は農耕儀礼のために、 水の神様に捧げられるものですが、 この宴は必ず川が二つ交わるところ、 その河原で行われました。

ヒマラヤ山岳部では、 そういう所に町を作る。

画像sa03  しかしこの町はネパールとチベットの戦争で何回も何回も滅ぼされました。

滅ぼされても人々が住み着く。

新しく建て直すお金がないわけですから、 廃墟の中で住み着いていくわけです。

こういう住み方、 空間は実際に現地を訪れますと不思議なことに本当に心が安らぎます(図3)。

チベットへ向かうキャラバン隊

画像sa04  ここから道をどんどん北へ上がっていきます(図4)。

ヒマラヤ山脈の造山活動で垂直に山々が上昇したと言いましたが、 そのことをあらわす地層が見事に残っていて、 ほとんど80度くらいの角度で地層がそそり立っているのがわかると思います。

ここから先、 樹木がどんどんなくなっていきます。

標高は3200mぐらいです。

 山道を山羊たちが歩いています。

その後ろにはチベットに岩塩を取りに行く馬のキャラバン隊がいます。

山羊たちも背中に荷物を背おっています。

チベットには米を運んで行き、 岩塩と交換します。

バーター貿易です。

こういう細い山道を辿ってこれから北へ上がっていきます。

原型としての石塔と仏塔

画像sa05 画像sa06  山道がなくなり、 川原を歩くしかない場所に出ました。

ときには、 川の中に入らざるを得ません(図5)。

モンスーンの時期ですので川の水路が日々変わってしまいます。

半分ぐらい浸かりながら馬で行きます。

そういう川の至る所に、 お祈りの石があります(図6)。

これは石を積み上げた七重の塔ですが、 仏塔の原型と考えていいでしょう。

これも大事な色である赤い色で塗られています。

祈りの石は村の入り口の河原には必ずあります。

川の神様に祈りを捧げているわけです。

 川の神様はヒンドゥー教では「サラスバティ」といいます。

日本にも仏教を経由してその神様が入ってきて琵琶を抱えた弁財天となり、 彼女も水の女神となっています。

音楽の神様もあります。

画像sa07  われわれは馬に乗っておりますが、 ムスタン王国の首都のローマンタンという所まで行くのに4泊5日をかけました。

3500mぐらいの標高の山道で不思議な塔が出てきます。

ケルン状に石が積んでありますが、 これを「チョルテン」といいます。

仏塔です。

これらのチョルテンに守られて、 その先に村があるということがわかります(図7)。

長い塀の「物語」と「役割」

画像sa08  ガミという村の古いチョルテンを通過していきますと、 荒野に突然、 50mくらいの長さの塀があらわれました(図8)。

丸石が積まれていますが、 その石の一つ一つにお経が刻まれております。

「オーム、 マー、 ニー、 ペー、 メー、 フーム」という六文字です。

「オーム」とはオウム真理教のオウムです。

「オーム、 マー、 ニー、 ペー、 メー、 フーム」は、 日本語では「南無阿弥陀仏」という6文字の真言にあたります。

そういう言葉が彫り刻まれた石を「マニ石」というのですが、 それが積み上げられて50mの長さの塀がつくられています。

これは荒野の真ん中にありまして周りに何もありません。

 では何のための塀なのかを地元の人に聞きますと、 かつてインドからチベットへ仏教を伝えに行く高僧がここを通過したときの伝説を教えてもらいました。

仏教が入る前、 この土地を占拠していた悪霊がいました。

高僧の名は「グル・リンポチェ」、 チベット語で「パドマ・サンバーバ」と言われているのですが、 これは名前ではなくて「聖なるお坊様」という意味です。

そのパドマ・サンバーバが来て悪霊を退治し、 悪霊の内臓をちょうどこの塀の下に埋めたということになっているのです。

腸を引き伸ばして、 その上に塀を作ったというのです。

 とにかく塀はそういうふうな伝説とともに残っています。

荒野の真ん中に、 仏教到来のシンボルとして、 この壁があるわけです。

 私たちがここを通過したときはそれだけしか物語を教えてもらえませんでした。

しかしムスタン王国に2週間ほどいた後、 帰り道もこの塀を確認したのですが、 これが実はムスタン王国の最も古い寺院へ到る大きな参道の入り口だったことがわかったのです。

ここから山道をさらに登って行きますといろんなシンボルが現われてきます。

ヒマラヤ山脈の壮大な景観の中で参道が作られており、 ぽつん、 ぽつんと不思議なものが出てきます。

ムスタン王国最古のチョルテン

画像sa09  前方に赤い岩肌が見えてきました(図9)。

聖なるシンボル・カラーである赤色の山です。

おそらく鉄分を豊富に含んでいるのでしょう。

 その山の麓に大きな仏塔が見えます。

これはムスタン王国で一番古い仏塔と言われております。

 ムスタン王国が独立王国として成立したのは15世紀の半ばですが、 ムスタンの首都ローマンタンの「ロー」という名前が歴史上の文献に出てくるのは7世紀ごろからです。

この地に仏教寺院などいろいろな施設ができたのは9世紀から13世紀の間です。

このチョルテンはひょっとしたら13世紀ごろに作られたのかもしれません。

 まだ文化遺産としての調査が行われていませんので、 伝説でしか確かめられません。

さっきの長い塀、 そして突然山道にあらわれる古いチョルテン。

これらが参道を形作っています。

ゴンパのデザインと意味

画像sa10  先にニンマ派の赤色に染められたゴンパ(寺院)を紹介しましたが、 今度は別の色に染められたゴンパを見ていただきます。

これはチェレという村のゴンパです(図10)。

村の子供たちに案内されて行った場所です。

子供たちが立っている背景に実に大胆なデザインの壁が見えます。

 わたしは宮本隆司さんという写真家と一緒に入ったのですが、 宮本隆司さんは都市の廃虚の写真を専門に撮っておられます。

彼はこの寺院の壁面を見た瞬間、 現代美術のインスタレーションを超えるものがここにある、 と驚いたのです。

これをそっくり真似したインスタレーションをやっているイギリス人の美術家の名前を教えてもらったのですが、 その美術家はヒマラヤ山岳部の景観デザインからどうやらアイデアを得ていたことがわかりました。

 実に大胆なデザインです。

先ほどの真っ赤なゴンパ(寺院)の壁面とは違って、 三本すじがあります。

白、 赤、 黒。

三色の縞模様。

赤は文殊菩薩です。

黒にも白にもちゃんと神様の名前が決まっています。

そういう色を壁の上から垂らしています。

 このような三色に染められたゴンパはサキャッパのもので、 三色は「サキャ派」という宗派のゴンパだというサインです。

マニ石、 チョルテン、 そして村の入り口へ

画像sa11  山道の転がっている石にも図11のような仏教のお経の経典が刻まれています。

この石の近くには別に村があるというわけではなく、 旅人の安全祈願をこめて「サキャ派」の人たちは石に着色しているのです。

画像sa12  やがてギリンという村が見えてくる峠にさしかかりました(図12)。

峠には必ずチョルテン(仏塔)があります。

この仏塔のまわりもやはり三色の色で着色してあります。

寺院だけが山腹にある理由

画像sa13  図13はギリン村の全景です。

これはローマンタンという首都に至る前の、 ムスタン王国で3番目に大きな村です。

まわりは月世界のような風景ですが、 人々が住んでるところだけが緑におおわれています。

 山の中腹のところにやはりゴンパが見えています。

寺院が二つあります。

 山の中腹に寺院を作るのは日本の寺院の作り方と同じです。

同じですが、 歴史的に見ますと日本のように山腹に寺院があってその下のところに民家、 里があるという発想でこの村は作られているのではないのです。

 この辺りではヒマラヤの東西にわたって、 小さな王国が7世紀から19世紀にかけて幾つも成立していました。

その王国同士、 それからチベット・ネパール間の戦争が長い間続いていたのです。

ですから最初は、 山の中腹のゴンパを中心として、 城郭都市が作られていたのです。

里の方へ下ると危ないというわけです。

 王国同士の戦争がなくなったときに、 人々はやっと里の方に降りてきて村を作り出したわけです。

しかし寺院だけは山腹に残りました。

色のない空間で作り出される色

画像sa14  図14は山腹の寺院側から村の方を眺めてたものです。

そこのチョルテン(仏塔)から見ておりますが、 このチョルテンも三色にきれいに塗られています。

 ヒマラヤのような大きな景観のなかでどんな色が似合うかと言いますと、 このゴンパの色に匹敵する色はちょっと考えられない。

 女性たちもまたヒマラヤ山岳部の風景のなかでは見当たらないような色彩の、 どうしてこんな色合いの服あるいはこういう発想が出るんだろうと不思議なほどきれいな色とりどりの服を着ます。

人間は不思議なもので、 まったく色がない空間へ行けば行くほど、 そういう土地へ行けば行くほど、 女性たちの服装は色鮮やかになっていきます。

 つまり、 どこかでバランスを取らないといけないんですね。

色について。

しかも真っ赤な珊瑚の色やトルコ石のブルーなどと、 その土地になじむ色彩で、 しかも山にはない海の産物の色をもってくる。

 ヒマラヤの女性たちが首に飾っているもので一番大事なのものは宝貝やトルコ石です。

それから赤珊瑚。

珊瑚はもちろん山にはありません。

そういう土地にないものを宝物にする。

そしてその土地にない色をどんどん人間は作り出していく。

動物はそういうことはしません。

人間だけがそんな特殊な才能をもっていて、 しかもそれが非常によく自然の風景にマッチする。

このヒマラヤの色のない風景のなかで。

 男は駄目ですね。

男はどこにいってもその土地の色に染まった服しか着ない。

日本でもそうだと思います。

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このページへのご意見は前田裕資
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