手のひらに載る都 by 佐々木幹郎
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ローマンタン、 その成立過程

ローマンタン概要

画像sa21  さて、 標高3800mまで登って来ました(図21)。

ここで4泊5日の旅がようやく終わりになります。

峠から遠方に大きな町が見えてきました。

これがローマンタンという首都です。

月世界のような風景の真ん中にポツンと首都がある。

 この城郭都市から先、 北方の山を一つ越えるとチベットです。

標高4500mのチベット高原が山の向う側に延々と続いています。

ローマンタンからラサに至るまでちゃんとした町はありません。

ですからヒマラヤ山脈の南側、 インド大陸から北上して来ますとこのローマンタンがヒマラヤ山脈の南側での最果ての都になります。

画像sa22  このローマンタンという首都に接近してみましょう。

これがそうです(図22)。

周囲1km、 そして高さ11mから高いところでは15mの塀が都市のまわりを囲っております。

 赤い色をしているのが、 やはりゴンパです。

寺院が三つあります。

そして白いビルディングがあります。

あれがムスタン王が現在も住んでいる王宮です。

 この城郭都市の中に、 166軒の家々があります。

チベット情勢と人口増加

 この城内に住めるのは上層階級の人々だけです。

下層階級はこの外側にしか住めないことになっています。

 1960年代からローマンタンの郊外にどんどん人が増えてきてまして、 城郭の外側に新しい部落ができました。

人が増えたのは、 チベットから難民がやってきたためです。

 1959年に中国が突然チベットを侵略し始めます。

そして現在、 チベットは独立王国ではなくなり、 中国領となってチベット自治区になっております。

独立した国をよその国が勝手に侵略して世界中が何も言わない、 というこれは見事な例です。

 その時ダライラマはインドへ亡命して、 現在もダラム・サラという町に住んで亡命政権を作っています。

1959年にダライラマと一緒にチベットから亡命した人達はインドにも行きましたが、 亡命者たちが一番多く住んでいるのがネパールの山岳部です。

その中でも特にこのムスタン王国にはたくさんのチベット人たちが、 1960年代に入って住み着くようになりました。

交易の中心、 そして学術の都市

 ローマンタンが、 歴史上に現われてくるのは7世紀です。

ローマンタンという名前がチベット語で「薬草の豊かな町」という意味があるくらいに、 ここは本当に豊かな土地でした。

そしてヒマラヤ山脈を越えてチベットとネパールおよび北インドとを結ぶ塩貿易の中継地点でした。

 なぜこの地が、 チベットとネパールを結ぶ交易のメインルートになったかといいますと、 ヒマラヤ山脈を越える一番低い峠がこのローマンタンを通過した先にあるからです。

一番低い峠はププ峠ですが、 この峠は標高4400m。

日本人の感覚では富士山が3700mですから、 4400mなら山だと思いますが、 ネパールでは山は6000m以上のことを言います。

5000m台までは峠です。

 4400mの一番低い峠があるので、 チベット側から来た人達はその峠を越えてネパール、 インドへ入ります。

そのとき最初に出合う都がローマンタンなのです。

 かつてはたくさんの人、 物資の出入りがあり、 バザールが開かれ、 塩貿易の独占権を持っていました。

同時に、 11世紀末から13世紀にかけて、 ここはチベット仏教の経典の翻訳センター、 学術都市としても大きな機能を発揮しました。

チベット仏教の僧侶たちの修行の場所でもあり、 またインドから入ってきた経典の言葉をチベット語に直す、 その中心地にもなっていたのです。

そのころの文献はたくさん王宮に保存されています。

ですからそういう意味でも、 都市の構造を完全に備えているわけです。

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都市環境デザイン会議関西ブロック


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