非常にシンプルな構造です。
左側の階段の所が民家の入り口です(図32)。
こういうふうに路地が迷路のようにつながっています。
しばらく路地を歩いてみます(図33)。
ローマンタンの民家は石と、 土をこねて作られています。
後で説明しますが、 チベット式の民家の上の屋上には薪がたくさんあります。
これが富の象徴なのです。
薪はこの辺りには全然ありません。
薪をたくさん持ってるのは金持ちの家。
薪が少ないのは貧乏人な家であるというように、 実にはっきり分かれます。
民家の入口にはこのようなおまじないが吊り下げられています(図34)。
悪霊よけです。
細い路地をさらに歩いていきますとこういう風景が至る所に出てきます(図35)。
手前に座っているのは、 仕事休みの女性たちです。
日本の高度に発展した文明社会がいったん壊れたとき、 そこに何が見えてきたか。
神戸で私が見たのは、 人々の住み方がネパール、 チベットと同じ状況であったということです。
人々はビニール・シートでテントを作り、 そこで寝泊りをし、 焚き火をし、 そして川から水を汲み上げる。
そして川で食器を洗う、 洗濯をする。
すべて生活のスタイルはネパール、 チベットとまったく同じでした。
文明社会の都市も一皮めくればヒマラヤにある都市の原型に戻るんだ、 というふうに思いました。
震災後の神戸で見た文明社会の原型
阪神大震災が起こった一週間後に、 神戸を歩きました。手作りのデザイン
これも路地の一角です(図36)。
民家の入り口の所が実にきれいにデザインされています。
家の人達が好きなように色を塗るんですが、 ほとんど現代美術ですね。
別にプロがやったんじゃなくて、 この家の人達が自分で色を選んでああいうふうに塗るわけです。
お孫さんを背中に背負って一日中ずっと散歩しておられます。
私のような異邦人が声をかけてたって全然驚かない。
チベット方言でにこにこしながら答えてくれるのです。
僕は非常にいいところだなって思いました。
つまり、 この都市にいて全然不安なことがないんです。
目の見えない人でも手探りでなにもかもできる。
その感覚は何だろう。
1週間程ローマンタンにいたのですが、 やがて思いあたりました。
この町の家の作り方、 それから土壁、 すべて手で触ったような感触で作られているという柔らかさの中にあります。
窓のふちも、 戸口も丸みを帯びています。
今から10年ほど前に北九州に琵琶法師が数人いました。
目の見えない盲僧琵琶師です。
その目の見えない方が何百年も続けてきた口頭伝承の琵琶語りを聴きに行ったのですが、 その一人のお家に行くと、 家の中がぼろぼろなんです。
その家の畳も、 かまどもおじいさんが目の見えないまま、 自分で作ったものでした。
もちろん、 料理も自分で目の見えないままやっておられるわけです。
おじいさんの琵琶を聴きながら私はあるとき、 目をつぶってみたことがありました。
自分で目をつぶり、 家の中を歩いてみたときに、 部屋の中のつくりが実によくできているということがやっとわかりました。
つまり手で触り足で触って全部わかるようになっているのです。
例えば私が手で触った部屋の壁は、 目を開けてみたら、 全部垢で光ってるわけです。
目の見える人間から見たら非常にぼろぼろに見えるのですが、 しかし目の見えない感触で、 手の感触でいきますと、 ぼろぼろなんてのは全然関係ないわけです。
非常に使いやすくできてる。
身体のリズムに即してずーっと緩やかに波打ってそのままで寝転んだり何もかもできるってことを、 その琵琶法師さんのお家に行って体験したことがあります。
私はローマンタンでこのおばあちゃんに出会って、 この町の柔らかな感触の建物を見たとき、 九州の琵琶法師の家の作りと同じだ、 と思いました。
寺院もこういうふうに丸みを帯びてしまっております。
寺院の2階です。
13世紀末に作られて廃虚同然になっております(図40)。
これが本当に古い寺院だというのは、 支柱に残された文字をアップしてみると分かります。
これはインドやネパールで使われているディワナガリ文字ではなくてパーリ語といって、 非常に古い言葉です(図41)。
パーリ語でお経が書かれております。
ですからこの寺院がいかに古い寺院であるかというのがよくわかると思います。
こういうところの柱のデザインは、 全部、 ネパールのカトマンズにいた大工さん、 中世の宮大工さんが作っております。
この宮大工さんの技術は非常に高度で、 チベットの初期の寺院も作りましたし、 カトマンズから出ていって唐の都の寺院も作っております。
カトマンズ盆地の宮大工さんがアジアの木造の寺院建築には大きな影響を与えております。
デザインも非常に美しい。
これは寺院の天井です(図43)。
天井の細かな木組みも、 アジア大陸を通過して日本にも伝えられてきた建築様式でしょう。
悪霊除けの「のぼり」
民家の屋上からいろんな家々を見てみましょう(図44)。
さっきも言いましたようにどの家の屋上にも薪が積まれていて、 そして馬たちの食料となる草も干されています。
家々には幟(のぼり)が建てられています。
幟は一家に一本必ずあります。
「タルチョー」といいます。
タルチョーには経文がプリントされております。
外側から風に乗ってやってくる悪霊をこのタルチョーに巻き付かせ、 風はためかせて追いやるという役割をしてます。
このタルチョーが日本に入ってきますと、 「こいのぼり」になる。
「こいのぼり」も子供たちの健康を祈る、 おまじないの役割をした吹き流しですね。
まず屋上にある薪を全部いったん外に放り出すのですが、 女の子たちがこういう仕事をやっています(図45)。
日干しレンガはわずか数時間で乾いてしまいますが、 このあたりの泥を枠にはめて、 天日で乾かしてるわけです。
カチカチになったら壁として積んでいきます。
壁には心棒を入れず、 レンガを組み上げているだけです(図47)。
その外側を、 泥をこねて、 女の人たちが自分の手で塗り込めていきます。
男は働きません。
この建築現場には何度も足を運んだのですが、 男が働いてる姿を見かけたことがなかった。
いつも働いてるのは女です。
泥をこねるのも塗るのも女性(図48)。
男たちの仕事は何かといいますと、 ほとんどキャラバン隊となって、 一年中チベットと北インドの間を行ったり来たりしているわけです。
そういう仕事をしていて、 村に帰ってきたときは働かない。
農地での収穫期には男たちも働きますが、 そこでも女が主導権を握っています。
ですから、 ローマンタンの都市全体を守り育ててるのはほとんど女の力です。
家を作るのも女ですから、 ムスタンの壁面及び民家は全部女たちの手によって作られているのです。
ですから実に柔らかな感触の壁面が出来上がるのです。
水をめぐる生活の風景
水は山の上からビニールパイプで引き降ろしてくるのですが、 これもその一つです(図49)。
水道です。
一日中蛇口から水が流れているのですが、 城内には二つしか水道がありません。
そこで洗濯も、 体を拭くのも、 食事のしたくもします。
これは食事の準備ではなくて、 チュウという、 ローマンタンでいう油を作る苗の種を洗っているところです。
この種を押し搾りますと食用油ができます。
城外へいきますと麦畑が出てくるのですが、 標高3800mになりますと、 できる麦はライ麦、 裸麦です。
大麦はもうできません(図50)。
一毛作で非常に耕作が難しい土地です。
写真では子供が働いていますが、 12、 13歳になりますと大人以上に働かされております。
この少年が持っているのはよもぎです。
よもぎを食べるのかというと、 食べるんじゃなくて、 動物たちに与える餌として採っているんだと教えてくれました。
戦争でいつ隣の王国から軍隊が来るかわからないというので、 ここでも山上に都市が作られたわけです。
最初の王宮の跡が山の頂上にあります。
標高4200mです。
図51では王宮の下のほうに、 崩れ果てた土のかたまりが幾層にも波のようになっておりますが、 これは全部土で作った都市の跡なのです。
すべてが崩れ去って一番外側の塀だけが写真の前方に残っております。
山の頂上に王宮を作って、 そのまわりに何層にも何層にも渦を巻くようにして、 かつては都市があった。
もう戦争がなくなったという段階で初代の王アメパルは里に城郭都市を作ったのです。
ローマンタンの郊外へ行きますと、 王宮を中心とした砦「ゾン」の跡が図52のようなかたちでいくつも出てきます。
すでに崩れ果てていますが、 造形としても面白い構造を持っております。
これは死者の弔い方の一つ、 鳥葬をする場所です(図53)。
現在は使われておりませんが、 ここにハゲワシを呼んで鳥葬にするのです。
ムスタン王国では一般庶民が鳥葬で弔います。
ムスタンでは無料です。
ヒマラヤ山岳部の場所によっては鳥葬が一番高価だという所もありますけれども。
王族はどういう葬礼の仕方をするかと言いますと、 王族はこの石段の上で、 火葬になります(図54)。
つまり貴族階級が火葬なのです。
なぜ彼らだけが火葬かといいますと、 樹木のない土地で薪を使って死体を焼くことができるのは金持ちだけだからなのです。
火葬にしても鳥葬にしても散らばった骨はそのままにしておきます。
骨をどこかに埋めるという習慣はありません。
ですからこの写真の辺りもいっぱい細かい骨が残っております。
最下層の貧民は「ガラ」と呼ばれていますが、 「ガラ」と疫病にかかった人たち、 この人たちは火葬にも鳥葬にもさせてもらえません。
そういう人たちは土葬です(図55)。
土葬が一番忌み嫌われている葬送儀礼のやり方です。
土葬の場合は土に埋めてその上に石を積み上げるだけで墓碑銘もなにもありません。
10歳以下の子供たちが死んだときは、 水葬にします。
川に死体を小さく刻んで捨てるのです。
墓という発想、 墓という単語もネパール語にはありません。
チベットにもありません。
インド大陸のヒンドゥーそれからチベット、 ブータン、 ネパール、 この辺りが世界で唯一「無墓文化」の土地です。
人間の死体というものは死んだ後残ると困るんですね。
輪廻転生できない。
魂を一刻も早く天上へもっていって、 もう一度生まれ変わらすためには死体をなくさないとだめだ、 と。
だからそういう意味で墓という発想はないわけです。
ヒンドゥー教の場合は川辺で火葬して灰にして川に流します。
チベット仏教徒の場合も火葬にして残った灰や骨は風に吹き流してもらいます。
鳥葬の場合は死体をハゲワシが食べやすいような大きさまで石で砕いてから岩の上に置き、 ハゲワシに食べさせて身体全部をなくします。
土葬が忌み嫌われるのは死体が残るからです。
その証拠に、 たとえばチベットオオカミがやってきまして、 いったん埋めた死体を食べた跡があるんです。
下のほうに大腿骨とか頭蓋骨がいっぱい出てきていますでしょう。
オオカミが食べ散らかした跡です。
ここにお参りに来る人はありません。