私はここのオーナーでありますので、 「皆さんようこそおいで下さいました」と言っておじぎをして引き下がるんだとばっかり思っていたのです。
そうしたら僕の昔なじみの田端修先生に、 いわば騙されたんですね。
いつの間にかここで何か喋らなくてはならないということになりましたので、 ちょっとお話をさせていただきます。
今ご議論のような話に直接結びつくかどうかわかりませんが、 聞いて欲しい話もありますので、 とりあえず何の脈絡も考えないで、 喋ってしまおうと思っております。
それは「都市の日常者」という言葉です。
これは居住者という意味と非常に似ていますが、 そうではございません。
別に住んでいなくても良いのです。
この近所に浮浪者が沢山いますが、 私は日常者という意味で浮浪者とは同等でございます。
それから犬を連れて時々散歩するのですが、 犬も同等であります。
サラリーマンの人で毎日この辺で仕事されてる方がおられますが、 こういう方も日常者でございます。
そういう日常者という視点が、 今日のまちづくりに欠落しているのではないかと常々思っているのです。
多少とも理屈っぽいことがあるとすれば、 それは「日常者という視点をもっと考えてくれ」「俺は考えるぞ」と、 まとめて言うとこれだけのことでございます。
これは私が一種のまちづくり活動のために、 あちこちで説明するためのものです。
これをごらんいただいて、 まちづくりと「日常者」と言うことについて話したいと思います。
今、 あちこち話して回ろうとしています。
一軒、 一軒のお寺に「あんたとこの塀直せ」「1mあたりなんぼかかる」ということを説いて回るしかないと思っているわけです。
いろいろなことが都心居住について従来言われてきたわけですが、 結局の所、 誰が誰に言っているのか全然分からんということがあります。
例えば市役所の方に向いてそういうと「そうですな。
その通りですな」とおっしゃるんですが、 その後あんまり変わったように見えない。
そういうことの連続で現在に至っていると思うわけです。
そうなるとやっぱり「視点を変える」そして「私がやる」ということを何とか仕組んでいかないと私のいる環境は良くならない。
私は「大阪の」ですとか「都市の」とか言うのはやめようと思っています。
私の近所のことだけを考えている。
これが最も重要なことではないかと思います。
これはあとの議論のためにあえて私の立場を極端に説明したということです。
小浦さん
どうもありがとうございました。
身近な所から始めるという視点も含め、 日常者という視点についてお示しいただけたかと思います。
続きまして、 加茂さんの方からお願いしたいと思います。