大阪の昼夜間人口比は146%です。
東京都の区部よりも大きいわけです。
人口は減っているのですが、 昼間人口はほとんど横這いかかえって増えています。
380万人です。
さらにビジターが年に2億人も入ってきます。
1日平均53万人です。
ビジネス目的、 観光目的でこれだけの人が市内に入っているわけですから、 大阪の街は外から来てもらってお金を落としてもらって成り立ている点も大きいのです。
けれども、 それが行き過ぎますと、 例えばアメリカ村の少し南あたりを行きますとアメリカ村にあるような店が広がってきているわけです。
儲かると思ったらどんどんそういうお店が増えてまいります。
そこに日常者がおられてもお構いなしです。
神戸の北野界隈に行っても、 観光客が増えることによって住んでる方が非常に困っておられるんじゃないかと感じます。
だから、 都市観光は非常に重要でございますし経済的にもビジターの方々で成り立っているところもあるわけですが、 そこの具合と言いますか、 危ういバランスではないかと思います。
一方に行き過ぎますとバランスが崩れてしまい都心居住がしにくくなるような気がします。
ドイツのロマンチック街道の街で、 旅人に対して非常に優しいと申しますか、 ホスピタリティを感じさせるような街は魅力的です。
あるいは、 最近のパリのように観光資源をつくりながら、 そこに住んでいる人の生活の質が上がっているというような街を目指せれば非常に良いわけです。
それは口でいうのは簡単ですが、 なかなか難しいと思っています。
それで都心居住の覚悟がいるじゃないかと思っています。
私は今回の震災で家も潰れまして建て直したんですが、 あの時に寝てましたら上からどんどんタンスが倒れてくる。
これが妻が使ってるタンスだから余計に腹が立つわけです。
しばらく経つとまた上の押入の引き戸がバッと開いて頭の上に落ちてくる。
これは妻が結婚式でもらった引き出物とか、 お中元、 お歳暮の類のやつがダーンと落ちてくる。
今度家を建てたときには絶対に納戸をつくらなあかんということになったんです。
私の家に来ていただいたら分かりますが、 一番の所が納戸なんです。
そこに捨てた方がいいものをいっぱい突っ込んでいますが、 こういう生活では都心居住はできないなとつくづく考えます。
物欲を捨てなあかんなということをつくづく感じております。
もう一つは家族と言いますか同じ家に住む者の付き合い方も昔と随分違うわけです。
お店が家と一緒の時には24時間夫婦が顔を合わせてそれで良かったわけですが、 だんだん変わってきて居住空間をどういうように夫婦、 あるいは家族が共有しているかという点から言いますと、 きわめて危うい関係になっていると言えます。
私の友達でございますが、 単身赴任が終わって東京に帰ってきたのに、 帰ってからも単身赴任しなかったら夫婦生活ができないという人間もおります。
ですからそういう都心居住の物的家族とのつながりと言いますか、 かなりの覚悟がいるなと思います。
もう一つは居住者にも覚悟がいるということです。
最初は設計者とかディベロッパーと私ども行政の都市計画担当者の理解がいると思っていたのですが、 安原さんがおっしゃるように一番重要なのはそれプラス居住者です。
こういうところがやっぱりある程度ジェントルになってもらいませんとできないなと思います。
そういう点ではまだまだ大阪は発展途上で京都の町屋のような長い歴史で積み重ねられた付き合い方とか、 あるいはパリのような話とか、 上海のような、 あれだけ狭い空間にあれだけ人が住んでおられるとか。
こういうことを大阪としましてはもっと勉強せなあかんなと思うわけです。
答えになっておりませんが。
大阪ガスさんのNEXT21も都心居住でよかったということばかりではないんじゃないですか。
すみません大阪ガスさん。
どうですか。
加茂さん
具体的に声は上がって来ませんが、 いいことばかりではないのかもしれません。
でも都心で楽しく住むために場を提供することは大事なのだと感じています。
一心寺シアターさんもそうだと思うのですが、 NEXT 21にはホールがありまして、 そこで合唱好きの入居者がクリスマスコンサートを、 お客さまを50人ぐらい招いてなさったことがあります。
いろいろお話を聞きながら場を提供できるようなハードづくり、 やりやすいような仕組みだけをやっておいたら、 やる気がある人はどんどんしてくれる可能性も、 なかなか捨てたものではないのかなというのが一つです。
あとやっぱり都会人としての教育がいるのかと思っています。
NEXT 21は緑地が多いもんですから、 繁みの中に、 誰だか分かりませんがビデオカセットデッキとかいろいろなゴミを捨てて行くんです。
肝を据えて都会人をしなければならないという話が岩本さんの方からあったと思うのですが、 皆んなが気持ちよく住むためには、 そういう都会人としての、 生活者としての教育が本当に必要なのかもしれないと感じました。
高口さん
岩本さんに私が言いかけてたことをもう少しはっきり言っておこうと思います。
怒りというほどではありませんが。
どういうことかというと、 天王寺公園の周りに柵をしましたよね。
それで、 有料化した。
元々ヨーロッパで公園は貴族の私庭であったものを、 市民革命の時に開放したという流れからすると、 全く逆行しているわけです。
入り口でお金を払って中へ入ってくるというそういう人が、 今入っているわけなんです。
例えば僕が下駄を履いて犬を連れてそこに散歩に行く時に、 わざわざ向こうにあるゲートを通って、 そこでお金を払って散歩に行くアホがどこにおるねんというわけなんです。
柵と言うのは要するに都市の居住者、 あるいは日常者たちを区別するという発想だと僕は思うんです。
柵以前は500人の浮浪者が常住していたと言われますが、 それをどうしても排除しようというなら、 例えば非常にラフな柵をして、 昼間開けておいて夜は追い出すということをしないのかということです。
それだったら僕と犬と、 浮浪者も、 昼間はエンジョイできたわけです。
つまり、 なにかえらく簡単に排除されたということをむかついているわけなんです。
ここのところの工夫がないと、 結局楽しい街はできないじゃないかっていうことなんです。
先ほどの生玉公園ですが、 生國魂神社の足元がすでに公園になっておるわけです。
そこに緑を植えているわけです。
そのまま放置しておくと、 たちまち浮浪者のキャンプになってしまうというので、 仕方がないから周りにネットフェンスを巡らしているんです。
これは一体何なんだとこういうわけですよ。
緑化は言うのは非常に簡単だけれども、 それをどういう状態に置くのかという研究がまこと足りなくて、 さっき僕が言ってましたように何かカタログ見て「このネットフェンス張るしかないな」というんでパッパッと張っちゃう。
結局、 浮浪者も犬も私も含めて、 それに対して知恵を働かせてくれている形跡がないと、 このことを怒るわけです。
僕は天王寺博覧会の時に樹木を切り倒したことも、 まだむかついておるわけです。
これも私らが歩いてる時に「ええ木やな」と思いながら見ていたわけです。
犬は「ええ木やな」と思いながらションベンしていたわけです。
ところがある日突然切っちゃた。
これは本当に切らなくちゃならなかったのかと聞きたいわけです。
切った後に何をしたかと言うと、 似たようなショボショボした木を植えているわけです。
こんなことを本当にする必要があったんだろうか、 というところがまず第一。
「じゃあどうしろってんだ」と言うのであれば、 僕の言い分では樹木も日常者なんです。
ですからどうしても切らなあかんのなら、 一本ずつちゃんとお払いをして切れと思うんですよね。
お払いして切る気がないんだったら切るなと。
そういう樹木、 犬、 私、 浮浪者、 この辺に対する配慮というのがない。
岩本さんに向かって取り敢えず言っておりますが、 ここにおられるそのほかの方も、 デザインとかいう奇麗事ばっかり言ってて、 私と犬のことを配慮してくれていないんじゃないかということを今言っているわけです。
施設のデザインは非常に良くなっておるわけです。
例えば天王寺の駅であるとか、 それから阿倍野の百貨店であるとか、 非常に綺麗なんです。
ところが行くまでが汚い。
行くまでが。
例えば手摺が汚いんです。
ガードレールの手摺が汚い。
電柱の姿が非常に見苦しい。
さらにそこそこにやばいところがある。
要するに犬と私と浮浪者は、 割と分かり易いので私はそういうように言っておるんですが、 その人たちのことを考えずに何か銭落とす人のことばっかり考えてんじゃないかということです。
小浦さん
それは最初に鳴海先生の方から経済的な市場性と都市に住むってことはどう折り合っていけるかっていう問題提起がありました。
歴史が積み重ねた、 歴史的な論理が、 そういった経済的な論理の中で、 刃向かってやっていけるのかということですが、 刃向かってるわけですね。
高口さんの場合。
そういうことをつくっていく側も真剣に考えていくことが、 都市に住み合う中で重要なことじゃないかという指摘だったと思います。
岩本さんの方で今のご指摘について何かございませんでしょうか。
岩本さん
おっしゃる通りだと思います。
犬は別にしまして…
小浦さん
犬を別にしてはいけないと思いますけど。
岩本さん
……。
天王寺公園の件につきましては、 ちょっと具体的に反論させていただくのは差し控えさせていただきます。
すみません。
申し訳ございませんが、 おっしゃる通りで金落とす人ばかりがビジターではなくて、 特にご住職のような方は貴重な市民として十分に認識してやっておりますんで。
やっぱり何と言いますか、 それぞれの職域におりますものがそこでもっともっと真剣にその場所性と言いますか、 そういうものをもっと認識せなあかんというのは常々考えておりますし、 今まで私どもが一番その辺がぬかっていたなと思います。
小浦さん
ありがとうございます。
会場の方からいかがでしょうか。
観客
高口さんは「私は目立つことが大事や」とおっしゃっていましたよね。
私は寺院は癒しの場であると思うんです。
高口さんが言ってはることには矛盾あるなって今気が付いたのですが、 目立ついうことが大事だったら、 浮浪者、 高口さん、 犬などにお金かけても駄目だと思うのです。
その辺の日常生活者のためにとか、 そういうことって目立てへんと思います。
駅から旅行者が通りますよね。
苦労して来られた方が通りますよねぇ。
ああ、 きれいにしてんなと。
大阪市はお金かけてんなと見てくれますよね。
高口さんもやってはる姿勢は同じじゃないか。
行政がやってはる姿勢と同じじゃないかと思いますが。
小浦さん
いかがでしょうか。
高口さん
いやいや、 よく言っていただきました。
私が今言ってきたことは、 ひがみを言っているわけです。
だけど言ってもしょうがないから僕はもう自分でやりますと。
で自分でやる手法は目立ってやるといことしかないんです。
誰しもが良いにせよ悪いにせよ注目してくれるという、 そのことを狙いながらやるしかないという誠にお寺らしくない、 誠に坊主らしくない手法を採らざるを得ない。
その開き直りの裏には、 今言ったようなことがあるということです。
ですから今ここで何か言えと言われているんで、 日常者の視点とか何とか言ってますけど、 僕が言ったて何も変わらないと思いますよ。
当面。
だから僕は当面の手法としては自分でできることをやるしかないと。
そのことと今日のテーマとは根本的に違うわけですが、 そう開き直ってやってるやつがいるような種類の問題なんだということをお分かりいただきたいと思って言っているわけです。
いずれにしても僕は大したことを言っているつもりはないんです。
都市全体についてそういうことを言ったって非常に難しいですよね。
だから僕だけの体験について「こう思う」ということを言ってるに過ぎないんです。
あえてあなたの話に明快に答えれば、 僕としては矛盾は感じていません。
観客
私としてはまだ納得行かないんですけど。
小浦さん
延長戦はまた後で続けてやっていただければと思います。
目立つということ、 一人一人がやるということについても分かってくるんではないかと思うんですが。
ちょっと時間も押してきましたので多分今おっしゃられたようなことで言えば、 高口さんは高口さんの形での都市に対しての働きかけをなさっていますし、 加茂さんは加茂さん、 安原さんは安原さんでずっとやってこられたことだったと思います。
そういう中で生活者の目から岡さんの方から、 先ほど郊外に住んでおられた人が感じた都市で住んでいることの意味ということがあったのですが、 今までこういった意見を聞かれましていかがでしょうか。