私たちにとってその「家」とは、 「家族」「家庭」「住居」として総合の意味を持っている。 そこは、 私たちの日々の生活を充たす濃密な日常があるところだ。
ところが、 都市とは、 まさに「都市性」を有する街であればあるほど、 それらのことごとくと対立関係にあるのではなかろうか。 都市は、 往々にして人間の欲望の結果を表現するものであった。
疎外と孤独。 倦怠と無関心。 瞬間と刹那の快楽。 虚構と幻想。 美と醜。 冒険と危険。 秘密と探求。
これらの言語はすべて都市が持ついわゆる悪しき光景である。 しかし、 それこそ逆に都市の魅力となる光景でもあった。 なぜなら、 その都市の魅力によってこそ「群れ」の中で孤独となった自分の存在感覚が呼び戻されるからだ。 人々の創造への夢、 自分の幸福を描く夢はここから常に発生してきた。
さて、 このような「危うさ」を持つ都市が、 はたしてふるさとになりうるのだろうか。
私には、 そのような問いに一般解などない、 としか言えない。 なぜなら、 上記の言語を悪しき光景とみなす人は、 ふるさとの象徴を郊外神話に拡大しなければならない人だし、 魅力的光景とみる人は、 現実の目の前にある卑俗な世界を上まわる自己でなければならない。 前者は純粋な場所の感覚を見つけることができ、 後者には自立と創造の力を手に入れる可能性がある。
このように考えると、 都市の「みち」もそこを使う行為を包む新しい空間が要求されてくる。 「みち」には、 歩く機能だけではなく、 朝と夜、 晴れと雨によって「選択できる」空間として新しい機能と形、 テクスチャーを与えることができる。
都心の河川空間も裏道ではなく、 都市から水面を「眺める」「溜まり」の縁側として新しい役割が与えられるだろう。 それらは、 都市に住む人々にとって、 自分の「都市風景」の発見となる。
ここで気がつくのは、 私たちはこれらの都市的行為を「動詞的表現」によって、 身体的現実へと引き込んで風景を認識していることだ。
ささやく、 たたずむ、 すわる、 うつす、 つどう、 うけつぐ、 もてなす、 いやす、 そめる、 のぼる、 切りとる、 まよう、 しるす。
都市の公共建築や道路、 広場や公園が、 従来のように名詞だけではなく、 これらの豊かな動詞によって新しく規定されるならば、 公的領域はその機能をより拡張し、 都市の魅力となる光景を生み出すだろう。
ささやく回廊、 たたずみ、 すわれる橋、 空の変化をうつす広場、 夕陽にそまる図書館、 等。
それらは、 自由であるが孤独な都心居住者に、 人々と共有できる風景(コモン・ランドスケープ)を手に入れる契機を与えてくれる。
都市をふるさとにできるのは、 そこに住む人である。
環境デザインにたずさわる者ができることは、 その人々の都市性を求める行為の発見と、 その空間への転換という、 あくまでモノとしての舞台装置づくりにすぎない。
けっしてシナリオまでつくることはできない。 舞台装置とは、 都市の機能、 施設や環境だ。
しかし、 もしもこの舞台装置に、 生命力溢れる動詞風景としての、 新しい意味と役割を与えられるならば、 それらは明日の都市環境の発見につながるにちがいない。