また、 <仮想>には、 仮に考えること、 仮に想定すること(広辞苑)という表面的な捉え方からだけでは見えてこない巨大なエネルギーが潜んでいるところが面白い。
なぜなら、 その本質には人間の自由な発想を規制している情況を、 乗り越えようとする「姿勢」が発生基盤にあるからだ。 すなわち、 法的条件、 経済条件、 社会条件、 物理条件などに規制された言葉や、 形態からでは表現できない「意識」のズレやはみだしがテーマとなっている。 そこには、 人間の生命や存在理由を突き動かしている、 なにか根元的なはたらきがあるようだ。
この意味から<仮想>とは、 「存在情況からのズレやはみだしを抽象化し形象化する表現行為であり、 またその意識の断面をあぶりだす<記号>である」と言えないだろうか。
私にとっては、 この関係を見つけることが環境デザインの出発点だととらえているから、 その世界を「許せるものと、 許せないもの」とかに区分できない。 ましてや、 環境をあつかうものがそう言い切ってしまうことは、 <仮想>という自由な表現手段そのものに自己規制をかけてしまうことにもなるのではないかと、 ひとつの危機意識をもっている。
だから、 「許せる、 許せない」よりも、 「何を表現できているのか、 いないのか」を見つけることのほうが、 環境を計画・設計するにあたっては、 より大切なことではないだろうか。仮想世界が教えるもの
仮想世界からは、 その表現者の力量や表現結果が、 ありふれていて陳腐であろうと、 個性が強烈で、 たとえデザイン感覚が未熟であろうと、 それらが表現しようとしている時間と空間を超えた普遍的な関係を見つけだすことが出来る。