まずは、 刺激的なお話を聞かせて頂いて大変面白かったという印象を持ちました。
実は今日のテーマを見たときにちょっと心配したんですけども、 成功だったのではないかと思います。
そこで、 私なりのお勉強をお話しさせて頂きたいと思います。
仮想世界ということについては、 鳴海先生が「想像の世界と虚像の世界」という言い方でおっしゃってます。
虚像の世界というものが、 コンピューターの中の非物質の3次元空間としてのバーチャルワールド、 虚構の世界が、 テーマパークという名前で代表される物質的現実を持った世界であると思います。
どちらかというと虚構の世界のお話が多かったように思います。
人間の歴史の中の仮想世界については、 何人かの方もご指摘されたように、 はじめは象徴的な絵画、 それが遠近法をもって写実画になってヨーロッパに渡り、 だまし絵が出来、 それから写真が発明され、 エジソンとリミエールによって映画が発明され、 そして今、 コンピュータ・シュミレーションとテーマパークの世界になった。
私は言語もあったんじゃないかと思いますが、 いずれにしろ人間は仮想世界を喜ぶからこそ、 こういう発展をしてきたわけです。
それで、 想像世界のリアリティ増大の法則というのが人間にはあるのではないかと思うのです。
この想像世界のリアリティの増大が、 またここで一段階大きい進歩をしつつある。
人間は巨大な建設力を手にしたがために、 今までのように絵ではなく、 本当に作ってしまうということです。
そこに、 仮想世界の問題と危険があって、 やはり今日のお話ではみなさんいろいろ気にしておられているんだと思いました。
私は、 人間という存在は脳が発達したことで自然の中で特異な存在になった、 地球のシステムから考えると病巣みたいなものだと思っています。
想像世界のリアリティ増大の法則もそうなんですが、 脳の発達というのは自然から離れようとしていっている。
私はいくらかペシミスティックな考えをもっておりまして、 これがそういう方向で進み、 行き過ぎると、 必ず人は自然を滅ぼすと思うんです。
今、 地球環境が問題になっているのは、 その方向性で最後まで行きそうになっているということです。
そしてその危険が環境創造の世界では、 仮想世界の喪失として現れていると思うわけです。
「許す、 許せない」という議論の中では、 大きく4つくらいの「許す、 許せない」に関わる仮想現実の規範があったように思います。
一つは自然認識を狂わせるもの、 つまり本来の自然のあり方を代替物で狂わせるもの。
そのことによって、 人間が地球の環境の中で生きていくことを狂わせる危険、 そういう偽物は批判されるべきであるということではないでしょうか。
二つ目は、 今日はあんまりお話が無かったかもしれませんが、 生命のリアリティを失う、 喚起を損なうものが「許せない」ものとしてあげられます。
仮想世界ではポンと殺してもどうでもないわけですから、 生命が生きていることがどれだけ大事かということを狂わせるものです。
行き着くとそういう問題をはらんでいると思います。
それから、 地域文脈の破壊につながるものを許すのかどうかというお話がありました。
これは一方で、 テーマパークでないものはいったい何かということを逆に照射しているんではないかと思います。
あまり力強いお話にはなりませんでしたが、 この考え方は、 地域の空間的、 時間的なコンテクストからはずれたものが、 テーマパークという定義付けも出来るかと思います。
この点については今日のお話では、 コンテクストを離れても許す方が多いように思います。
これはアメリカと日本の特徴で、 ヨーロッパであればもっと許されないのではないかと思います。
これについてもう一つ思うことは、 ヨーロッパはある時期にロマン主義の時代を経ています。
だましもやりましたし、 よその世界のものを引っ張ってくるということも随分とやりました。
社会としてはある程度それに飽きたというふうに思います。
これは個人的な考え方ですが、 アメリカと日本はそういう時代を経ていないので、 今それが来ているのかと思います。
また、 作りがよく質が良いものが許せて、 作りが悪い安物は許せないというお話もあったと思います。
これは、 仮想世界がこれだけ広がっても、 健全な感覚を保ち続けている、 健全さ故の偽物と本物の判断ではないかと思いました。
そして最後には、 バーチャルリアリティというのは現実と錯綜し、 その中でどう環境を作り続けるのがいいのか、 リアリティをどう作るかという話でもあります。
また、 バーチャルリアリティと現実の混同は、 それが本物かどうかを問うというお話、 ご意見があったように思います。
伊東先生のお話では、 人権、 及び人権に行き着く公共性を元にして、 本物かどうかという問いをしていけばいいということでした。
柘植先生のお話は、 地の場所のテーマパーク化も辞さずに、 自由な想像、 虚構と現実の混同をむしろ許していくのがいい、 そういう考え方があるんじゃないかというお話があったと思います。
また、 バーチャルリアリティと現実の世界は、 時間的にも場所の限定によっても住み分けて、 共存するのがいい。
そういうお話が岩佐さん、 今井さんからもあったと思います。
それから、 柘植先生のお話の中で、 情報を失いつつあるまちは魅力を失いつつある、 そこで物語や場所の意味の復権という意味でバーチャルリアリティというものも作ってはどうかというお話があったと思います。
こういうふうに変化しても、 人間の数万年来からの記憶が健康な世界を維持するんではないかというご意見もあったように思います。
それから最後に印象に残ったのは、 小山先生に発端を見せて頂いた、 コンピューター内の3次元のバーチャルリアリティの現実化です。
我々もその世界を十分に見てないんですが、 「バーチャルという思想」という本を書いているフィリップキオウという人は、 バーチャルリアリティという言い方が良くなくて、 バーチャルシュミレーション、 虚像ではなくて現実のモデリングをコンピューターの中でしていると言っています。
そういう存在感を持ったものを使って人間は何であるのか解釈したり、 あるいはその中のユークリッドでない空間の作り方によって別の世界を見たりします。
そういう世界が一方で進んでいるようです。
そんな世界を我々はどうしても面白がる性格があって、 現実と相互影響して動いていくのだろうと思います。
今日はこのような刺激的なお話をして頂いた諸先生方に、 まず感謝を申し上げたいと思います。
これから現実と虚像が混ざり合っていく、 それによってリアリティが照査するというお話がありましたが、 我々の次の世代は、 また別のリアリティを持って活動していくことでしょう。
このような大変困難な時代の中で、 環境づくり、 ものづくりをしていかなければならない皆さまに、 私から解決法を言うというよりは、 ご健闘を祈りまして、 終わりの言葉とさせて頂きたいと思います。
ありがとうとございました。