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パネルディスカッション2

現代都市のリアリティ


仮想空間と娯楽性・芸術性・仮設性

丸茂弘幸

改行マーク実行委員会メンバーによる仮想世界の規範論のようなレベルの話は、 先ほどのスライドプレゼンテーションでご紹介したようなところです。

 

改行マーク最後に私が出したのはパブリックアートで、 芸術性を追求したものでした。

ある種の商業施設で、 どちらかというと娯楽性を追求したものは、 当然、 演出の仕方もパブリックアートとはずいぶん違うのではないかと思います。

そういう娯楽性に重きをおいた、 あるいは集客ということを念頭においた仮想空間と、 芸術性を意図した仮想空間という点を話のとっかかりにしたいと思います。

 

改行マーク最初の話で今井さんが、 仮想のものを現実に持ち込むのには、 作法というものがいるのではないか、 ルールというものが大事なんじゃないのかということをおっしゃっていました。

我々がお見せしたものに関連して、 なにかちょっと甘すぎるとか、 これは自分は許せないだとか、 まずそのあたりからお話をお聞かせ願いたいと思います。


今井祝雄

改行マーク区切られた時間やお祭り空間の中においては、 例えば、 佐々木葉二さんが提示された野山一帯に展開している「クリストのアンブレラ」もいいと思いますが、 ずっと物理的にあり続けることは非常に難しいと思います。

もしあれがあり続けたとしても、 あまり意味がないかなと思います。

 

改行マーク同じくクリストがパリのポンヌフという橋の欄干や橋脚をカラフルなシートで梱包してしまったことがあります。

あれは、 実際にあの場所に行ってそこを通った人の印象というものが一番強いと思いますけれども、 他のクリストの作品を知っている私なんかにとっても容易に想像ができるわけです。

実際に見なくても、 クリストがそういうことをやったという写真とか情報を知っている人は、 ポンヌフを訪れたときにあの光景を頭の中に再生することができるんですね。

 

改行マークそういう意味で、 田端先生の中にも色々な仮設の壁画の話がありましたけれども、 これからアートに限らず、 仮設のそういう仕掛けがどんどん出現すると思います。

この場合は一定の期間でなくなってしまうわけですが、 いいものはやはり、 もう一度ちゃんと作って欲しいなどの声が出てくるだろうし、 そういう声をうまく反映できるようになればいいと思います。

 

改行マーク今、 パブリックアートの問題点のひとつは、 建築でもそうなんでしょうけれども、 できてしまったら何十年と半恒久的にそこに残ってしまうことです。

ですから、 街の彫刻でも場所にそぐわないものはどんどん移設してほしいし、 あるいは作りつけのものであればよほど慎重に考えてやっていくことが必要だと思います。


丸茂弘幸

改行マーク許せないものとしてあがってきたものに、 けっこう土木施設があったのですけれども、 そのあたり榊原先生いかがでしょうか。


榊原和彦

改行マーク土木デザインというものは、 他のデザイン分野とずいぶん違うのだろうと思いますし、 また違うべきだと思います。

仮設性、 芸術表現としてのインスタレーションの話がありますが、 土木のデザインの場合にはそれと対極にある、 永続性ということが最も問題になります。

ですから、 永続性との関わりの中で考えた場合、 仮想空間性というものはむしろ徹底的に排除しなければならいと思います。

 

改行マーク先程のスライドの中で土橋さんのお出しになった土佐堀川の化粧型枠コンクリート護岸の例は、 私も全く同感です。

自然との関わりということも、 土木デザインにとっては非常に重要だろうと思います。

むしろ、 自然そのものをデザインするという側面があるし、 第2の自然を作るということでもあるわけです。

そういうことを考えると、 あるいは公共性ということを考えると、 土木デザインという立場から、 仮想空間性、 仮想空間のおもしろさというものを簡単に容認するわけにはいかないだろうという気がします。


丸茂弘幸

改行マーク土木の場合には、 先ほどの堰堤にしても、 護岸にしても必ず、 はっきりとした機能を持っています。

ですから、 仮想性を除いても、 デザインの根拠が立派にあると思うのですが、 今井さんがされているようなパブリックアート、 それからランドスケープという世界もかなり機能が曖昧といいますか弱いものといえます。


許せる、 許せないで捉えられるか

改行マーク先ほど紹介しましたように、 佐々木さんは、 そもそも許せる、 許せないなんていう議論をすることが非常に危険だという発言をされていましたので、 そのあたりについて、 若干コメントをお願いいたしたいと思います。


佐々木葉二

改行マーク許せる許せないというのは、 あるものをそのまま許せる、 許せないというのではなくて、 その裏にあるものを読み込んで判断しているのだろうと思います。

みなさんしゃれでおっしゃられているということは分かっているんですけれども、 一般的に環境を扱う者がジャーナリスティックに、 許せる、 許せないとしゃべっては、 ちょっとやばいんじゃあないかという気がしています。

 

改行マーク公共文書で残す場合には、 これをしゃれでとられない方が多いんです。

本当に許されないものとしては、 いわゆる権威主義的にやってしまうと、 それこそやばいと思います。

環境を扱う者がメディアに言葉を残す場合には、 相当に気をつけないと、 本当にその言葉をまねする人が出てくると思うのです。

ぼく自身は、 それも含めて、 環境デザイン会議が言う場合には、 もう少し意味を別の形で展開した方がいいんのではないかと思います。

 

改行マークそこで、 みなさんがおっしゃっている、 「許せる、 許せない」とは一体何を意味しているのか、 ちょっと考えてみたんです。

何を表現できているのかということと、 表現し切れていないということ、 言い換えれば好ききらいの趣味の問題を越えて、 力不足のものと、 ここまでいくと自己表現が過大であるというものもあると思うんです。

我々は今回のテーマを「仮想世界の誘惑」と打ったのだけれども、 仮想世界の何が誘惑しているのかというあたりを、 相当しっかり考えなければならないと思います。

 

改行マーク例えば、 先ほどの岩佐さんのスライドとビデオの中で水の表現がありましたが、 それが人々の大変な感動をよんでいるという話と、 それに対して、 ああいうものはテレビでもみれるんだからもっと違う形で人の集め方を考えるべきではないかという貴多野先生のお話がありました。

そのあたりが、 実は、 仮想世界の誘惑のポイントをついていると思うんです。

 

改行マーク仮想世界の誘惑のあり方というものは、 どうも、 人がともに感動できる、 共通の意識の断面をあぶりだしているものが極めて魅力的であって、 それを孤独にテレビで見ても、 決して楽しくないと思うのです。

それをともに語り合える、 言語を発生するようなもの、 それが実は仮想の誘惑であると思います。

それが虚構であることも、 人は分かっている。

だけど、 それを言語としてともに楽しみあえるもの、 そういうもののあぶりだし方の記号みたいなものを発言していれば、 それは実に楽しい誘惑ではないだろうか。

そういうものに人は集まるんじゃないかなという気がしています。

 

改行マーク私自身は、 許せる、 許せないということよりも、 その表現のあり方というところに、 実は誘惑のポイントがあるという気がしています。


丸茂弘幸

改行マークどうもありがとうございました。

同じく、 ランドスケープデザインの上野さんからも、 コメントをいただいております。

ランドスケープという比較的、 機能というものを必ずしも明確に持っていないものへデザインを与えるという営為には、 積極的な表現、 あるいは、 ある意味では仮想性みたいなものが常につきまとうのではないかと思うのですけれども、 そのあたりも含めまして、 いかがでしょうか。


上野泰

改行マーク一般論で、 そういうふうに言い切れるかということは、 非常に難しいかと思います。

建築の場合でも、 非常にシビアな条件で、 例えば経済性が非常に厳しいとか、 ミニマムデザインでやらなければならないケースと、 機能もアドバンスも非常に大きい場合では、 やはりその作り方というものが違ってくると思うのです。

 

改行マーク確かに、 ランドスケープの成立、 発展の経緯としては庭園の文化を引きずっています。

基本的に、 庭園というのは世界中どこでも、 現実の自然世界と人間のインターフェイスとして、 一種の仮想世界を作ってきているわけです。

そういう意味で、 やはり、 ランドスケープのデザインの中に、 仮想性みたいなものが色濃く残っている可能性はあると思います。

 

改行マークしかし、 今一番ランドスケープの中で問題となっている環境問題という視点から見ていくと、 あまりそういう問題は入ってこないのではないかと思います。

ただ、 それをどういうふうに作り上げていくのか、 あるいはどういうメッセージで発信していくかというときに、 一つの仮想現実として演出するということはあるのではないかと思います。


身体性、 物質性

丸茂弘幸

改行マークありがとうございます。

今、 若干建築の話にもふれましたけれども、 午前中の小山さんの話の中で、 建築は内容を表象しない時代になってきている、 それがリアリティを失ってきている一つの側面ではないかというお話がありました。

建築の世界でも、 それも許せる許せないという話に還元することは問題かもしれませんが、 今のこの件について、 コメントをいただけたらと思います。


小山明

改行マーク「許せる、 許せない」というのはセンスの問題ですからちょっと横に置いておき、 インターフェイスという言葉を使いたいと思います。

 

改行マークインターフェイスというのは、 ある一つの領域ともう一つの領域があって、 それがくっついている面のことです。

ですから、 今ある領域というのは、 テーマパークでもキャナルシティでもコンピューターでもいいのですが、 片方が仮想的で、 こっちに現実があって、 その2つの間になにか通じている通り道があるかどうかということが、 かなり重要になってくると思います。

 

改行マークさきほどの話で、 キャナルシティで水面の高さを運河と合わせたとおっしゃっていたのが大変印象に残りました。

というのは、 人間というのは、 高さの感覚ということに非常に敏感で、 それがちょっとずれていると「あらっ」ということになるわけです。

パリの展覧会で、 人間の身体、 座って机に向かう姿勢を通して、 展覧会に引き込むという試みも、 インターフェイスです。

こっちの世界と展覧会の内容というインターフェイスに、 身体的なものを使っていくということがこれからかなり有効ではないかと思います。

 

改行マークというのは、 コンピュータやインターネットなどのように虚構の世界が増えれば増えるほど、 身体というものは最後の砦になるかもしれませんし、 それに対して敏感になっていくということがあると思います。

 

改行マーク例えば、 別の例をいいますと、 ベルリンで見た展覧会のインターフェイスの作り方の例では、 航空写真を利用して、 ベルリンの街をなめるような映画の上映を、 天上からプロジェクションして床の上に投影しているわけです。

普通は壁に向かってやるわけですが、 その方法だと地面が立っているように見えるわけです。

そこでは、 それを見せるのに、 プロジェクションしている周りに3段ぐらいの台があって、 それを登って、 ちょっと首の角度を変えると上から見た映像がある。

つまり、 体の方を動かしているわけです。

そうすると、 体を通して、 横から見ているのとは違って、 恐ろしいぐらいに上から見ている感覚が生まれる。

そういう突破口があると、 なにか別の世界にはいっていけるというのがあると思います。


丸茂弘幸

改行マークそういう身体性がリアリティを保証するような部分のもう一つの側面に、 物質性みたいなものがあるかと思います。

許せないものの中に、 先ほどの人工芝のようなものも含めまして、 形とか色とかがいくら似せても、 物質性、 ものとしての存在感みたいなもの、 あるいはものが持っている多様な意味みたいなものをとらえることができないのではないかという指摘がありました。

キャナルシティの場合にも、 においだとか、 波立つ感じとか、 そういう色々なことを演出されているということも、 あまり嘘っぽくない感じをもたらしている原因ではないかと思います。

 

改行マーク先ほど、 パセル・デル・リオのところで、 ものとしては許されるのだけれども、 スピーカから流れてくる鳥の声を聞いたとたんに許せなくなるという、 そのあたりのこととたぶん関係しているのではないかと思います。

物質性ということとの関係で、 井口さんに少しコメントをいただけたらと思います。


井口勝文

改行マーク佐々木さんのお話の中で、 仮想世界の何が我々を誘惑するのか、 という話がありましたが、 それに対比して何がリアリティで、 何が我々をリアリティに誘惑するのかということの一つに、 物質ということがあるのではないかと思います。

 

改行マーク木ななら木、 あるいは、 土、 石、 草という物質そのものが持っている力があって、 それは誰にも否定できないリアリティではないかと思います。

その存在感を、 我々は忘れがちであると思います。

なぜ忘れがちであるかというと、 それは先ほどから話が出ている、 この世の混沌とした、 どこにも現実と仮想の線が引けないということもあります。

 

改行マーク我々は、 どちらかというと仮想の方にひかれていきます。

これは一つの文明のトレンドではないかと思います。

でも、 我々が立っているところは物質世界であって、 これは、 物質文明、 精神文明というふうに分けられるものではないと思います。

当然、 我々は物質から非常に大きな影響を受けて、 物質なしでは生きてはいけないし、 物質とどうつきあっていくのかということは、 人類の発生以来のテーマではなかったのかと思います。

 

改行マークヨーロッパの街がよく石の文化だとかいわれます。

そこを歩いていて、 例えば、 一つの石が建築の中にあるとする。

この石を削るべきか、 それともそのままにすべきか、 あるいはちょっと飾りを入れるべきか、 あるいは、 古くなったからとっぱらって別なものを持ってくるか、 というような立場に立たされたことがありました。

その時に、 そこにある石がぼくに語りかけてくるといいますか、 その石そのものがそこでどうありたいと思っているのか、 そういう物質そのものの存在感と、 その物質が主張している力というものを感じたことがあります。

 

改行マークこれは、 ちょっと説明をしにくいのですが、 「スターウォーズ」で、 最後の勝負は、 フォースを信じろという場面がありました。

全てのコンピュータの回路を切って、 いわゆる念力で攻撃に成功する話です。

人間が念力を持っているということ、 これはぼくは信じますけれども、 それと同じものを物が持っていると思います。

じっと見つめて、 耳をすますと、 物が語りかけてくる、 これを物質の力というのですけれども、 これは精神論ではなくて、 一つの文明の成り立ち方として、 僕らがつい忘れがちなものではないかと思います。

特に、 今の世の中で忘れがちです。

 

改行マークぼくにいわせると、 石が遊びたがるいうことになるのですが、 そのあたりに原点があるんだということを忘れて、 仮想世界に没頭するということは、 非常に危険だと思います。


丸茂弘幸

改行マークありがとうございました。

今の話を聞きながら、 いくつかのことを思いました。

一つは、 よく我々は物の豊かさよりも心の豊かさという言い方を安易にしてしまうのですが、 これは、 井口さんがおっしゃられたように物の力を信じていない、 あるいは物に対して非常に失礼という意味あいがあるのかなあと思います。

もう一つは、 我々は、 教育や仕事の上でも、 物というものと直接関係しない形で、 物質性とあまりにも距離を置いた形で思考しているのではないかということです。


コンテクストからのズレ

丸茂弘幸

改行マークまた、 論点を移させていただきたいのですが、 「許せる、 許せない」という話の中に、 もうひとつコンテクストとの関係、 コンテクストがずれているから許せないというお話があったかと思います。

この中で、 2つの対照的な意見があったと思います。

一つは、 囲ったフェンスの中であったら許せるということ。

例えば、 テーマパークという囲ったその世界の中で実現するなら許せるけれども、 その外の一般の都市の中でやるのは問題であるということ。

アートにしても、 美術館の中だったら許せるけれども、 それが外の広場に出てくるといろいろと問題があるという考え方もあります。

 

改行マークしかし、 例えば、 柘植さんのお話の中にもありましたが、 「囲ってある、 囲ってない」は問題ではなくて、 むしろ現実の囲われていない世界で、 関係欲みたいなものを実現した方がより濃密な関係といいますか、 オープンな関係ができる。

囲われた中での関係というものが非常に限定された関係にすぎないということがあって、 そういう言われ方をされたのではないかと思います。

そのあたりに関連して、 コンテクストとの関係における問題について、 どなたかパネラーの方の方からコメントをお願いいたしたいと思います。


岩佐倫太郎

改行マーク「許す、 許さない」ということで言いますと、 私はいいなあと思うことがひとつ、 悪いなあと思うことがひとつありました。

一つは、 榊原先生もご指摘になった中之島の人工擬岩です。

おぞましいデザインといいますか、 公共空間をどうしてあんなふうなデザインをするのか、 見ていて非常に腹立たしいのです。

デザインをしないんならしないで、 南京町のようにもうしっちゃかめっちゃかやっているというふうなら、 それはそれで気持ちがいい。

だけど、 これは修景しましたとかデザインしましたとか言って、 あんなふうに作っていく公共工事というのは、 おそらくもうだれも支持しないし、 自然に対する、 あるいは環境に対するセンスの欠如というものを雄弁に物語っているような気がしました。

 

改行マークとても気に入ったのは、 グットラックという手の形をしたオブジェです。

あれを見たときにはなにか肩の力が抜けたような印象を受けました。

というのは、 おそらく本来なら美術館に飾られて、 そのしきりの中で鑑賞する、 というふうになるのでしょうけれども、 突如街の中に脈絡なく存在したというところが、 すごくいいなあと思うのです。

 

改行マークつまり、 いわゆる経済主義の街の中に、 わけの分からないオブジェがあることによって、 世の中の意味をちょっとの間解体させてしまう、 それが相当気持ちに余裕を与えてくれるのではないだろうかと思います。

 

改行マークこれは私のジレンマで、 仮想空間にせよ、 パブリックアートにせよ、 一瞬なりでも人間の心をいやしてくれるものじゃないかなという気がするわけです。

そもそも、 心をいやすには時間をかけて、 金をかけて、 芝居なんかを見に行かなくても、 本当はいいはずなんです。

自分と違う人生を見て、 なんであんなふうに涙を流したり、 喜んだりするのか。

人間の本質としか言いようがないのですが、 やはり自分の人生を解毒したいという、 そんな気持ちを持った存在なんじゃないかなと思います。

 

改行マーク何が仮想空間の誘惑なのか。

佐々木さんは、 共通体験が大事で、 お互いに言語として語れる記号を発信することが仮想空間のおもしろさだとおっしゃいました。

井口さんはこれはもう文明のトレンドだとおっしゃいました。

私は、 仮想が好きだとしか言いようがないのですけれども、 人間の中にはそういったフィクションの世界に身をまかせて、 想像力を働かせてそれを喜んでしまうという本性があるのではないかという気がします。


丸茂弘幸

改行マーク私が個人的に想像するのは、 コンテクストとの関係で一番シビアな局面を迎えるのは、 やはりアートいういわばもっとも内面に関わるようなものを、 パブリックアートという形でもっとも公共的なコンテクストの中に置くという時です。

そこではいろんな葛藤が生じて当然だという気がします。

また、 アートが美術館に収まっていったり、 額縁の中に入っていく現象自身が、 恐らくは基調講演でも言われた「私的空間の拡大、 公共空間の喪失」と非常に関係しているのではないかと考えています。

 

改行マーク今井さんの図式で言いますと、 仮想空間はいわば夢、 精神世界、 非常にプライベートな世界。

それに対して、 現実の世界はうつつ(現)であり、 世俗的で、 パブリックな世界であるということを書かれておられます。

そのパブリックアートが持っている「自己矛盾」と言ったらおかしいかもしれませんが、 コンテクストとの関係でちょっとお話を頂きたいと思います。


今井祝雄

画像ima50 改行マーク先月の末に、 京阪の始発駅で終着駅でもある坂本駅の駅舎改装のモニュメントとして、 一つ彫刻を作ったんです。

日本では、 何かの記念でないとモニュメントの予算が下りないこともあり、 彫刻だけを純粋に作る機会がなかなかないのです。

そこで、 ホームの先端を降りたバラストのところに、 高さ3mほどの作品を作りました。

軌道内に彫刻を作るというのはあまり前例がなく、 最終電車が止まった夜中に設置作業をしました。

そこで私は鉄道のレールを使って1つのオブジェを組み上げました。

駅を行き来する人は否応なく、 また運転手さんは必ず信号のようにそれを見ることになるわけです。

こうした非常に特殊な場所で、 ずっと時間を耐えていくという、 そのようなことを意識して作りました(写真50)。

 

改行マーク私の場合、 パブリックアートを作る際、 常にどこへ行っても作家の個性を押し出すのではなく、 そこの場所に自分が立ってみて、 ここに何がいるのか、 あるいはひょっとしたらいらない場合もあるかもしれなという白紙の状態で考えるようにしています。

と同時にまちの空間のコンテクストを読んでいくところから作業を始めています。

 

改行マーク岩佐さんのお話にありましたように、 オブジェが突然町なかに現れる面白さもありますが、 ここでまちのパブリックアートと、 美術館にあるいわば展覧会アートの違いを整理しておきたいと思います。

 

改行マーク展覧会アートについて言いますと、 そこは美術のための空間で、 人はわざわざ「アートを見に行くんだ」、 ホールであれば「音楽を聴きにいくんだ」という心構えを持って行く。

しかし、 まちの中のアートの場合は、 たまたま出くわしてしまうことになるのです。

あるいは今は車社会ですから、 自動車の中からちらっと一瞥することにもなります。

 

改行マークそういう一瞥に対しても、 形、 色とかに一つのパワーを持たせたいと思っています。

わざわざ行く人は鑑賞者ですが、 まちの中では人は通行人です。

オーディエンスに対してビュアーというような違いでアートを見る。

僕は、 そういう中で人が一つのアートとの出会いを得て、 もっと深くはまりたい人は美術館に行けばいいと思っています。

極言すればまちが景観的に美しくなり、 彫刻などで文化的に豊かになれば、 美術館はなくてもいいんじゃないか、 むしろ研究施設として機能していったらいいんのではないかとさえ思います。

 

改行マークいっぽう最近インターネットを使って、 パリへ行かなくてもバーチャル美術館でモナリザに出会えると言ったりしていますが、 CRTに映像として写るだけのものと、 モナリザの実物の大きさ、 わざわざそこへ行って見たという感激、 背後に外人も一緒に見てるような空間の体験というものとは全然違うと思うのです。

実物を見てる人であれば、 先ほどのクリストの話じゃないですが、 想像力で補えると思うのですが。

 

改行マーク最後に言いたいのは、 受け手側の想像力を磨く、 あるいは磨かせる仕掛けがいるということです。

演劇や舞台芸術にしても至れり尽くせりで、 受け手はただ受け止めるだけ。

人が、 作品にぐっともう一歩想像的に関わっていくような仕掛けが、 今後のまちづくりの中にも必要じゃないか。

そのためには、 やりすぎない、 作りすぎないことを提案したいと思います。


仮想世界の種明かしをするか、 しないか

丸茂弘幸

改行マークどうもありがとうございます。

これもコンテクストの一部かもしれませんが、 実行委員の方々の議論の中の対照的な意見として、 演出の種明かしがしてあった方が許容できる、 むしろ非常に面白いという意見と、 気づかせないような演出が一番高度な演出ではないか、 それをむしろ評価するという意見がありました。

 

改行マーク先ほどの岩佐さんのショールームでも、 イタリアの町並みを再現されていますが、 天井については意識的にしていないわけですよね。

あれが非常に面白いなと思ったのです。

「これはバーチャルなんだよ」という種明かしをされてるのかな、 と僕は理解したんです。

その辺りの種明かしの問題についてお願いします。


岩佐倫太郎

改行マークアムラックスについて言いますと、 正直言って天井は触りようがないということです。

高さ4.5mぐらいに仮に天井を貼って空を描くと、 そちらばっかり目につく。

そのような場合、 逆に省略して「これは無いんだ」と見てもらうといい。

人間の想像力、 了解力が結構ありまして、 「これはごっこの世界だから、 黒い天井でいいんだ」と割り切ってもらえるんです。

そういう意味で黒い天井に塗って、 存在感を消すのが最良の演出であったといえると思います。

 

改行マークそれから、 丸茂先生がおっしゃった、 種明かしをした方がいいのか、 そうじゃない方がいいのかということなんですが、 多分これは二者択一ではなくて両方だと思うのです。

スタジオツアーというのがありまして、 例えばユニバーサルスタジオでも、 その背後がどういうふうになっているのか。

電源装置がどうなって、 ポンプはどうなって、 火はどうなっているのか、 こういうものを全部見せるツアーがあります。

それを行くとそれはそれで大変面白いわけです。

裏方を見るということが、 新しい知識でもあるし、 情報でもある。

バック・トゥ・ザ・フューチャーライドに乗れば、 知らなくても面白い、 知っても面白い。

それで結論を言ってしまうと、 多分両方を僕らは理解する能力を持ち合わしているんじゃないかと思います。


丸茂弘幸

改行マークそのあたり貴多野さんどうでしょうか。


貴多野乃武次

改行マーク集客ということになるかと思います。

三宅さんがおっしゃった「何が誘惑するのか、 何がリアリティなのか」という答えは、 みんなの共通体験とか、 更にその前に人はなぜ集まるのかということ、 それが私の求めている解なのです。

 

改行マーク私は、 それはやはり死の恐怖から逃れることの誘惑、 あるいは死の恐怖ということのリアリティ、 これが最終的な結論ではないかなと仮説しています。

死と非常に裏腹なところに快楽があります。

人気の「失楽園」はまさに裏表にある快楽と死がセットにあります。

 

改行マークまた、 宗教ランドというのも究極のテーマパークであろうと、 冒頭申し上げました。

実はこれに関して、 小林恭二さんが書いた、 快楽の極限のテーマパークである『ゼウスガーデン衰亡史』という作品をご紹介します。

これは、 本当にたくさんの人が来ると思われる、 死の恐怖と快楽とが裏表にあるような世界です。

例えば何千人も入る大きなホールの中に、 人間だけがたくさんいて、 ぽろっぽろっと人が一人ずついなくなって、 そして最後に誰もいなくなる。

こういうふうなアトラクションです。

私は何が誘惑するのか、 あるいは何がリアリティなのかということをつきつめますと、 死の恐怖があるから、 みんなが集まるんじゃなかろうかと思っております。


リアリティをどうつくるか

丸茂弘幸

改行マークだんだん難しい話になってきました。

今日のサブテーマとして、 リアリティをどう作っていくかということがあります。

伊東さんの基調講演の中では、 可能性としての人権、 その人権に基礎を置く公共性、 その公共性に基礎を置くデザイン、 それがリアリティを作るんだというお話が出てきました。

今までの議論の中にも、 例えば関係欲の問題、 あるいは貴多野さんがおっしゃった共同性の問題、 そういうものも、 今の話につながってくるかと思います。

私の手に負えるかどうか分かりませんが、 そのあたりの一番難しそうな領域に入らせて頂きたいと思います。

 

改行マーク私なりに一言で言うと、 リアリティは結局、 馴染むことではないかと思います。

飽きられないように馴染む空間、 そういうものを作るのが非常に大事だという感じがするわけです。

 

改行マーク少し乱暴かも知れませんが、 こんな調子でまず一言ずつ現代都市におけるリアリティとは何かということについて、 パネラーの方々のご意見を頂いたあと、 議論に入りたいと思います。


榊原和彦

改行マーク土木のデザインを下敷きにして、 私の話の続きを言うと、 実空間世界では、 「描写のリアリティ」と「体験のリアリティ」とが一致・比例するということが問題になるんだと思います。

そしてやはり「描写のリアリティ」を実現するには素材、 先ほど物質性という話が出ましたが、 物質性に応えられた素材が問題なのだろうと思います。

 

改行マークこのことについて、 自分でデザインしたわけではないのですが、 私が関わったディアモール大阪、 クリスタ長堀という地下街を例に考えてみたいと思います。

 

改行マークついこの間、 見学会で両方いっぺんに見に行ったのですが、 どうもクリスタ長堀の方がシャラッとしている感じがする、 リアリティが高いのはディアモール大阪だと感じたんですね。

ところが作る段階では、 ディアモール大阪はミラノをモチーフにして、 イタリアから床材を全部輸入して、 イタリアの職人も呼ぶということでした。

その背景というかよりどころはミラノと大阪が姉妹都市だというただそれだけのことで、 ものすごくバーチャルな場所なんです。

 

改行マークそれに対して長堀の方は、 ジャポニズムというか日本的なものをテーマにして、 むしろきっちりデザインしました。

ところが実際出来上がってみると、 どうも長堀の方はシャラッとした感じのものしか出来ていないのです。

比べてみると、 どう見ても高級感があってリアリティをより感じさせるディアモール大阪の方が私はいいと思いました。

そうなった原因は、 実は素材の力という感じがします。


柘植喜治

改行マークリアリティとは何かということについて、 一言で言うならば、 多様性だろうと思います。

 

改行マーク都市にはいろいろな価値観を持っている人がいて、 仮想的なものもリアルなものも受け止めて、 自分なりに何か感じる、 反応する、 価値を作っていく、 判断基準を作っていく、 それが仮想的であったりリアルだと思う判断になっていく。

様々なものが混在している状況、 それが都市であり、 そうあるべきだとと思います。

 

改行マーク今、 一番危機的な状態というのは、 都市の中にあるべき様々な要素や情報がどんどん少なくなっていく傾向にあるということです。

結果的に、 人はそういう情報の少ない都市に対して興味を失っていき、 都市は愛されなくなり、 だんだんと人がいなくなっていく、 あるいはケアされない街がどんどん出来ていってしまう。

これは、 かなりまずい気がします。

答えになっていませんが、 仮想的なものもリアルなものも都市の場の中に入れ込んでいく、 ミックスしていくことが、 重要ではないでしょうか。


今井祝雄

改行マーク先ほどから言っていますように、 正確な仕切が無くていいんですが、 現実空間とバーチャル空間は、 徐々に分けていく形でないと具合が悪いと思うのです。

 

改行マーク先ほどの丸茂先生の話で、 人工芝生が分離帯に敷かれている話がありました。

僕は、 生活空間の中でああいうものに目が馴染んではイカンと思うのです。

まがいものにだんだん目が慣らされていく感じがします。

野球場の芝生はいいじゃないかということですけど、 野球場は野球をする一つの装置空間でありテーマパークなわけですから、 いいわけです。

 

改行マーク人工芝で思い出したのですが、 岐阜県に2年ほど前、 養老天命反転地というアートのテーマパークが出来ました。

まだ行ってないんですけども、 写真や資料で見てますと、 なんと人工芝を持ち上げた地盤の上に貼ってあるわけです。

あれは、 なんてちゃちいんだという感じがしましたけども、 「ここはそういう仮想の空間なんだ」ということで許せると思うんですね。

あそこに入るには入場料がいるわけで、 仕切られた空間であるわけです。

 

改行マーク現実の空間の中であれば、 やはり本物を、 そして芝生が駄目であれば別の人工的なものでもいいから工夫が欲しい。

護岸のコピーの岩も、 似せるのではなくて、 新しく創っていくような知恵が欲しいと思います。


岩佐倫太郎

改行マーク貴多野先生のお話の中で、 死の恐怖があるから人間は集うんじゃないかという視点に、 大変感心いたしました。

人間は仮想のものが好きだから、 好きなんじゃないかと言いましたが、 よく考えてると、 その人生を生きなければならない人間が、 よりオルタナティブな人生を生きたように思うもの、 それが物語だと思うわけです。

それで人は、 芝居を見たり、 テーマパークへ行ったり、 博覧会のパビリオンへ行ったりするんじゃないかなと思いました。

 

改行マーク私の考え、 というより今日勉強させて頂いたことを、 私なりに整理します。

現在はバーテャリティとリアリティが相互浸透している時代であり、 虚構の方がウエイトがうんと大きくなってきている。

そういう時代で我々は、 その双方に生きて、 双方にリアリティがあるんだという内容だったと思います。

 

改行マークまた、 リアリティを感じるコミュニケーションがどういうことかが分かってきた気がしました。

つまり、 親切ごかしのあまりに老婆心たっぷりのコミュニケーション、 てんこ盛りの至れり尽くせりの情報はやはりリアリティではない。

言い換えれば、 相手を変えないインターフェイスは、 本当はコミュニケーションではない。

パブリックアートであれ、 企業のショールームであれ、 人々にささやかでも何らかの変化を催させる部分がある時に初めてリアリティが作られるんではないかと、 コミュニケーション論の立場から思った次第です。

 

改行マークそれから、 こういう状況で人は、 どういうふうに情報化社会を生きていったらいいのかという心配があると思うのですけれど、 私はあまり心配しておりません。

先ほどこれは砦だとおっしゃった方もいましたけども、 人間の身体性の限界がある限りは、 実に器用にこなしていくのではないか、 過大な心配はあまりいらないと思っております。


丸茂弘幸

改行マークさて誠に申し訳ないのですけども、 私の不手際で時間がなくなってしまいました。

ほんとに一言ずつちょっとだけお願いします。


貴多野乃武次

改行マーク私の考えているリアリティには3つの層があると考えています。

人と人とのリアリティ、 人とものとのリアリティ、 人と自然とのリアリティです。

柘植先生のおっしゃった関係欲は、 人と人とのリアリティなのだと思います。

人とものとのリアリティも、 人と自然のリアリティもバーチャルな世界に浸食されていくだろうけれども、 人と人とのリアリティだけは最後まで絶対に残ると私は楽観的に見ています。

それは身体性という問題でしょう。


小山明

改行マーク私はリアリティというのは相対的なものだと思います。

例えば人間は、 透視図法のようなテクノロジーを一度手にしてしまうと、 そういう目で次の風景を見ることしか出来ないわけです。

ですから、 生まれて一年経つと、 あるいは昨日と今日ではすでに違う人間であって、 自分の中での相対的な関係でしかリアリティを語れないのです。

私にとってリアリティは、 私が前から感じていたよりは、 リアリティが失われつつあるというのがリアリティなのです。

 

改行マーク結局、 虚構と現実がどういうふうに関係していくかということになると思います。

例えば、 インターネットが普及してテレビ会議が当たり前になっていくとします。

テレビ会議があるから人は会わなくていいかというと、 絶対にそういうことはなくて、 普段人といっぱい会っているから、 後はテレビ会議で済ますことが出来る。

つまり現実の世界と虚構の世界はリンクしているということです。


丸茂弘幸

改行マーク全体をまとめるのは今日の議論の広がりから言っても、 私の手に余ります。

パンフレットの一番最初に書きましたように、 60年代から70年代はじめくらいを「夢の時代」と位置づけて、 それは「理想の時代」から「虚構の時代」に移る時代だったという見方があります。

そして私は、 ひょっとすると今は、 「虚構の時代」から「理想の時代」に移る過渡期で、 これから21世紀のはじめくらいは、 もう一回「夢の時代」なのかもしれないと思っています。

いずれにしても今日のお話の中では、 「私は楽観してます」というお話がたくさんありました。

私もそういう楽観した展望を持ちながら、 このフォーラムを終わらせて頂きたいと思います。

どうも長い間ご静聴ありがとうございました。

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