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パネル報告

ゆめ・うつつの都市デザイン

成安造形大学・造形作家 今井祝雄

 真っ白いキャンバスは仮想世界のメディアである。 最近では麻のキャンバスにかわって新しい電子のキャンバス=CRTに表現するアーチストも少なくないけれど、 美術をはじめ芸術とは、 もともと仮想世界の産物にほかならない。

 キャンバスに眼前の風景を写そうが、 空想のイメージを描こうが、 絵画は奥行きある立体的対象を平面上に描写する仮想の世界であり、 現実世界との境界を額縁が補強している。

 絵画は、 本物と“そっくり”に写し描く現実世界の模倣が写真の発明までの主流であった。 写生、 写実からの翻訳語「写真」もまた当初「まるで“絵”のよう」であることが求められ、 その後、 「時間」が加わった映画、 そして現代のコンピュータグラフィックでさえ、 その最初期において以上と同じ過程を踏んでいることは興味深い。

 やがて絵画は単純な外界の再現だけにとどまらず、 内面の心象風景や観念的世界といった「見えないモノ」を「見えるモノ」として表現するなど、 アートのアイデンティティを探りつつ今日に至っている。

 今秋、 私は久々の個展を開くが、 こうした展覧会の会場となる美術館やギャラリーの空間は、 外界と遮断した「もうひとつの世界」すなわち仮構の空間を形づくっている。 場の創造というべき仮設のインスタレーション作品ではいっそう明らかだ。 美術館やギャラリー自体が、 その制度を含めて、 ひとつの額縁=フレームとなっていることはいうまでもない。

 そうした非現実的、 異日常的空間とは違って、 もろ現実のただ中に身をおくパブリックアートの場合、 そんなフレームは存在しない。 現代の都市空間に展開するパブリックアートとは、 フレームレスでボーダーレスな現実世界の中でアートのメッセージを発するものなのである。

 同じ仮想世界を出自としながら、 展覧会場という仮構空間におけるプライベートアートと、 現実の“場所”と関わらざるを得ない、 というより、 そのことに意味と意義をもつパブリックアートは同じようであって同じではない。

 美術館ではよくても街なかでは唐突で、 周辺環境から浮き上がった悪しきパブリックアートを「プロップアート」というが、 同様なことはアートよりも、 もっと現実と関わり、 現実そのものといっていい建築やランドスケープに顕著に見ることができるだろう。

 たとえばテーマパークまがいの建物や構造物が都市に溢れ出したようなキッチュな光景。 短期仮設の看板造形ならまだしも、 半ば恒久的な施設(ときに文化施設さえ!)から住宅にまでそれは及んでいる。 チューダー様式、 コテージ風といった建売りや輸入住宅がいきなり普通(?)の街並みに出現したり、 カッパや鬼の顔をした駅舎や公衆トイレにカエルの橋などなど…。 『偽装するニッポン』の著者、 中川理が「ディズニーランダゼーション」と呼んだように、 まさに遊園地的仮想世界が日常世界になだれ込んでいるのである。

 ヒトは仮想世界と現実世界の両方で生きている。 夢と現実(うつつ)、 精神世界と世俗社会ともいえる対極的構図。 前者が個人の内面や趣味に基づくきわめてプライベートな部分で関わっているのに対し、 後者は、 すべてのヒトが共通に関わる公共的=パブリックな領域といえる。

 どちらがどうのではなく、 どちらも大切である、 というより両者が相互に作用しあう関係が重要であり望ましい。 しかし前者をないいがしろにしがちだったこれまでの街づくりの結果、 そうした仮想世界が安直に持ち込まれるのは芸がないの一言ではすまされない。 それにはそれなりの手法ならぬ作法が必要なのである。

 公共空間におけるそうした“許せない”事例を列挙し検証することから仮想世界との正しい(?)つき合い方が見えてくるかもしれないし、 同時に現代の都市環境の欠落した現実がリアリティをもって浮かびあがってくるに違いない。

 
−−略歴−−
1946年大阪市生まれ。 元、 具体美術協会会員。 1966年第1回シェル美術賞一等賞受賞。 新大阪駅前の屋外彫刻や住吉万葉歌碑(住吉大社)などのモニュメントを制作。 1991年大阪市都市環境アメニティ賞表彰。 また行政や民間の都市・景観・文化関係の委員を勤める。

著書:『アートする街かど』(ブレーンセンター)『都市のアートスケープ』(ブレーンセンター)『アーバンアート』(学芸出版社)など

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