江川:
横山:
大地と人間のスケール
今日は、 建築家の江川さんを迎えて、 建築と大地についてのいくつかの疑問点を投げさせていただき、 このセッションを進めたいと思います。 江川さんは、 阪神大震災の復興公営住宅でもそうですが、 建築という枠を越えて、 人間からまち、 そして都市、 また自然から大地へと真っ正面から取り組んでいらっしゃいます。 その姿勢は、 まさに大地の達人だと私は思います。
そこでまずお尋ねしたいのですが、 私は建築は、 人間の行動だとか人間のサイズを科学したところにあると考えています。 その建築が、 大地と取り組む時、 重要になる視点はどういうところにあるのでしょうか。
先に結論を言ってしまうと、 人間のサイズとか、 スケール感が知覚できるなかで、 大地と応答しながら、 ものを作っていく行為が建築だと思っています。
ですから、 どこにどういうふうに建てるかという、 「どこに」ということが、 建築にとって非常に重要な意味があるということです。 「場所を選ぶ、 どこに作るか」と言うことが、 きわめて建築的な行為なのだということです。 答えになっているかどうか解りませんが、 「どこに」を抜かして箱をつくるのは、 決して建築的な行為ではないと言うことです。
モンゴルには遊牧民がいますが、 遊牧は場所そのものを変えながら生活を移動していくものです。 生活そのものが移動式になっています。 しかし、 彼らの住居である「ゲル」の中では、 草原の大きさや、 大地の大きさ、 自然の風の流れ等が知覚できるのです。
それに対して、 一般的なコンクリートの建物のような、 つまり、 あまり大地との応答がない箱のような建物の中では、 そういったことは知覚できません。 四季ごとの、 あるいはもっと細かな自然の変化に対応して、 彼らは非常に良く考えてその「ゲル」の位置を決めているのです。 そういう意味では、 彼らの「ゲル」は、 たとえそれが移動式であっても、 建築なのです。
さらに重要なことは、 ヒューマンなスケールといったときに、 ただ単に物の大きい小さいということではなく、 人間が大地と共存し、 応答しているのだという事が、 人間として知覚できるかどうかという意味でのスケール感が重要だと言うことです。 巨大な建物でも、 十分にそんなことが感じられるものは、 それでいいのです。 物理的な成り立ちの大小ではなく、 大地や自然、 さらには宇宙のようなものまでが、 人間の感覚的な知覚として捕らえられるものが、 建築であると考えています。
日本建築におけるお茶室の閉じた空間は、 私にとって、 とても居心地よく感じられるのですが、 これも、 日本人における知覚できるスケールという物なのでしょうか?
江川:私は、 建築を作るという行為は、 文明的な行為だと考えています。 司馬遼太郎は、 文明とは必ずしも利便性だけではないといっています。 人間にとっての暮らし易さや、 過ごし易さ、 楽しさは、 便利であれば満たされるのかと言えば、 必ずしもそうではありません。 多少不便でも、 むしろそのことによって、 別の得られるものがたくさんあるのです。 大地の起伏と同じように、 人間にも感情の起伏があり、 人間を実感できる場面に出会えたり、 自然を実感できたりすることによって左右されます。
大地との応答、 大地への取り組みというときには、 物理的な事だけではなく、 精神的な意味での大地との応答がまずあると考えています。 それをさらに形に表したらどうなるか、 というプロセスを踏んでいくのです。 つまり、 形や処理の仕方を一番始めに考えるのではなく、 大地を前にして、 人間としてどうつきあうのか、 どう知覚するのか、 ということがとても大事なことだと考えています。
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モロッコの風景 人と自然がつくりあげた風景 |
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稗田の環壕集落 北方に近代の住宅地 |
横山:
ニュータウンの形は、 人間にとっての機能性、 利便性、 経済性などから最も効果的な形として考えられていたけれど、 人間のスケールを忘れて一人歩きをした結果と言うことでしょうか?
江川:
大地から教えられる事は、 とてもたくさんあって、 都市計画や建築にとっては、 そのことはとても重要だと思われるのです。 建築と起伏と言ったときにも、 単純に斜面住宅のような形の話ではなくて、 大地や自然と人間の心との応答、 どういう風に応答するのか、 その結果、 形としてどうなるのかということが大事だと言っているのです。 それさえ決まれば、 おのずと処理の仕方が決まってくると思っています。