私は、 建築っていうのは、 人間を科学して作っていったみたいなところにあると思っているんです。 人間の行動で決まったり。 そうなると、 建築が大地と取り組むときの視点というのは、 どういうことになるのでしょうか。 人間と大地のちょうど中間に建築があるように思うんですが。
江川:
建築っていうのは、 確かに自然の中に建物を作って配置するわけで、 それは一種の文明的行為だと思うんだけれども、 司馬遼太郎がこういうことを言っているんですね。 文明というのは、 便利さの他に暮らし易さとか楽しさという概念が入っているというわけね。 人間が、 人間のために建築を作るって言うと、 ひたすら利便的機能だけのために作っていると思いがちなんだけれど、 もちろんその機能という概念の中には、 司馬遼太郎が言っているように、 楽しさだとか、 トータルな意味での暮らし易さとか、 感情の起伏を受け入れる箱というか、 感情の起伏がそこから発せられる箱というか、 人間の住まいというものは、 基本的にはそういうものがベースにあると思うんだ。
建築というのは確かに建物なんだけれども、 建築を作る行為というのは、 どこに作るのか、 どこに建てるのかと言う行為が非常に建築的な行為なんだよね。 たとえば雛壇造成地が用意されていて、 そこに建築を配するというか、 置くという行為の場合には、 建築側にしてみれば、 どこに建物を建てるかというところに実は参加できていないんだよね。 もちろん雛壇造成の敷地のどこにどう建てるか、 窓をどうするかということはあるんだけれども、 大地の中の、 あるいは自然の中の、 町の中の、 山の中の、 どこにものを配するかと言う行為に参加してないんだよね。 でも、 建築という行為は、 そこが結構重要な意味をもっているんだ。
街割りの中に連続して建築を作るというのとは違った意味なんだけど。
横山:
こう見えたいとか、 こう見たいということですか。
江川:
もちろん周囲からどう見えるかとか、 利便性というかアプローチの楽しさとか、 そういったもののすべてが、 あなたが言っているように人間のスケールで人間が使うものでしょ。 人間がどういうふうにそこに寄って行って、 そこの建物に入って行って、 そこで暮らして、 そこの建物からどう見えるかとか、 空が見えるかとか、 町が見えるかとか、 空気がどう流れるかとか、 トータルなものでね。 他の人にとってその建物がどう見えるかとか、 他の人にとってのさまがどうなのかとか、 じゃまになるのかならないのかとか、 そういうトータルな意味でいうと、 建物をどこに配するか、 どういうふうに建てるか、 敷地を決めたりとか、 建築と大地のつき合い方だとかいうのは、 きわめて建築的な行為だと思うね。 だからそういう意味で、 建築と大地という関係はあるんだと思うんだ。
たとえば、 アーバンデザインで大地をどういじるかといったときには、 環境のまず一次骨格みたいなものをつくるわけでね。 骨格的構造みたいなものが出来たときに、 それとどうつきあっていくかということは、 それはそれであるんだけれども、 この場合はその骨格をどうつくるかということが非常に大事で、 それは結構建築的行為なんだと思う。 それが、 スケールが大きくなったりするとなかなか建築という領域ではできないところもあるのだけれども、 結局人間のスケールを基本に置きながら、 土に対して、 どうつきあうのかというあたりが一番問題だろうね。
横山:
建築的行為というの言うのは、 具体的にどういう事ですか。
江川:
最終的には、 人間のスケール感で人間の欲求にあうものを作っていくという行為かなあ。 いつでも小さなスケールでというのとは違う。 時には巨大でも良いんだ。 人間の理解できる感覚、 スケールでということ。 それと、 建物を作るというのは、 単に上物だけを作るというのではないと言うこと。 そこに、 大地との応答が必要だし、 日本のプレハブ住宅が建築になれない原因はそこにあるように思うね。 ローカルな場所の掘っ建て小屋の方がよほど建築的なのは、 そこに大地や場所との応答があるからなんだろうね。
横山:
建築というのはとても人工的な行為なんでしょうか。
江川:
そうでしょう。 その素材が、 木であれなんであれ、 人間が、 意図的に空間を作っているわけだから。 要するに、 人間が意図的に作らないで、 自然にできちゃった空間に住んでいるわけじゃないから。 だから、 その人工と自然との関係というのが非常に問題になるわけで………。
横山:
それは、 人間の側から見てというか………。
江川:
基本的には、 文明とは、 人間が人間に都合のいいようにするわけだよね。 だから、 さっきの利便性とか、 楽しさとか、 暮らし易さというのは、 人間の側からの発想なんだけれども、 もう少しいろいろやっていった結果、 つまり、 もっと長スパン、 長い期間で考えていったときに、 地球環境が破壊されちゃうとか、 状況が変わるということは、 人間にとって好ましくないわけでしょ。 つまり、 短期間的な視点の行為が、 長期間的視点で見たときに、 それは余り人間にとって好ましい行為ではない、 と言うことの代替えとして、 自然環境の破壊とか言っているわけでしょ。 自然環境を破壊していると言うことは、 長期的に言えば人間にとって良くないと言うことを言っているわけでね。 自然にとって良いとか自然にとって悪いとかっていうことは、 最終的には、 人間にとってどうかと言うことに行き着くんじゃないの。
横山:
人間も自然物の一つだし。
江川:
人間も自然の一つだし、 自分たちが生きられなかったら良くないと、 最終的にはそういうことになってしまう。 自分たちが滅びても、 動物が生き延びれば良いと言う発想には絶対ならない。 人間にとっての自然環境破壊だとかいうのは、 究極的には、 文明的側面におけるそういうものでしかないよね。 この世の中から人間が無くなっても地球が残った方が良いといっているわけではないからね。
浮かす建築とか、 軽やかな建築とかいう話を最近よく耳にしますが、 これは、 人工的な行為としての建築の、 大地に対しての一つの意志表示となって出てきているのでしょうか。
江川:
ピロティーという構造、 つまり浮かすという、 それはコルビジェが、 ピロティーというものを提案したときに、 大地の縛りから逃れたいという、 つまり近代化というか、 大地の呪縛から逃れて、 大地を建物とは関係なく人間に開放しようと、 つまり、 大地の上に建物は、 必ずくっついているものだと言う発想ではなくて、 建物を浮かすことによって、 建物とその大地との間の空間を人間に開放すればより良いのではないかという発想でできていて、 それは確かに軽やかというか、 軽快な感じがするよね。 たぶん地べたにベチャッとくっついているよりは軽快な感じがするし、 どうすれば、 もっと軽快な感じがするかという、 そういう意味で、 浮かすと言う考え方がある。 最近では軽さが受けているところもあるからね。
それは確かに一つあるけれども、 大地との関連で、 新たな流れというかね。 その場合には、 たとえば豆腐のような建物があって、 それが地表に浮いているとしたら、 浮かせるためには、 どれだけ土の中に基礎が入っているかということがある。 土の中に基礎や底盤が全く無くて浮くと言うことは難しいわけだから。
今、 とくに環境との関係で浮かすというのは、 あるいは大地との関係で浮かすというのは、 少し違う。 建築物を土の上に配するときには基礎を作る。 その基礎をどう作るかということによるんだけれども、 一般的には、 ほとんど建物と同じ面積の物体が土の中に埋まっちゃう。 布基礎でつないだりとか、 地中梁をつないだりとか、 それはどういうことかというと、 建物が建っている地中には、 水も流れないし、 動植物も水も通れないということをしてきたわけで。 ところが、 それは降った雨が上から下に流れていく時に、 建物がじゃまをする、 あるいは、 そこで水の流れが変わっちゃう。 あるいは、 風の流れが止まっちゃうとか、 蝶々や鳥の行動が制限されちゃうという。 それで、 建物を浮かしたら、 風は流れる。 雨は地表を流れる。 浮かし方にもよるけれども、 土に接する部分を非常に少なく、 地中にある部分もできるだけ少ないようにもし浮かしたとしたら、 建物はある一定の大きさであったとしても、 地中にあるものも少ないし、 地表面がもし開放されちゃえば、 雨水は地表を伝わって流れるし、 地中を伝わって流れる水も、 ほとんど影響を受けずに流れていくし、 地表は動植物に解放されるし、 植物というのは雨が落ちる落ちないに寄って多少は違うけれども、 少なくとも動物が通り抜けたり、 植物の種がその空間を飛び抜けて行ったり、 蝶々が抜けていったりということになって、 それは、 大地の上手(かみて)と下手(しもて)の連続性を継続させるという行為になる。 その風が流れたり鳥が通り抜けたりするときに、 それはたとえば建物を浮かすと言うこともそうだし、 建物の中を解放させて、 建物の中を抜いてしまうということも可能だよね。 そういうことをやることによって、 自然のなかに身を置くというか、 気持ち良いときは自然の中に身を置けるし、 自然の条件が厳しいとき、 たとえば猛暑の時なんかには、 深い屋根で、 シェルターのなかに閉じこもって風だけ受ければいいし、 あるいは、 寒いときには扉を閉めて身をまもる。 強烈な寒さから身を守ったら良いけれども、 それは、 浮かさなくても浮かしても一緒なんだけれども、 浮かした場合には、 地表がより一層解放される。
横山:
江川さんのつくられた建築の中にもそんなのがありましたね。
これはフォーラムの時に見てもらおうと思っている住宅で「今田町の家」。 空中緑間住宅と呼んでいるんだ。 全くフラットなところのない急斜面の林間に、 2本の杭を立てて、 その上にスラブをつくって木造の建物がある。 2本の柱以外の斜面は解放されているし、 住宅の内部も斜面に沿って南北に解放することができる。
横山:
別の建物でも家の中を鳥や空気が抜けていくのがありましたね。
江川:
「大山溝口の山荘」だね。 これは、 施主が持っていた一般的な敷地を、 谷に面した売れ残りのヘタ地と交換してもらい、 谷に面して細長い建物にして、 谷越しの借景と、 谷から吹き上がってくる風が本当に気持ち良い建物になったんだ。 本当に鳥や蝶々が家の中を抜けて行く。 谷からの風も気持ちいいし、 それは隣の家にも流れて行くんだよ。 冬の寒いときにはガラス戸を閉めればサンルームにもなるんだ。 どうしてこんな条件の良いところが売れ残っていたのかというと、 極端に細長い、 崖上の小さな敷地だったからで、 単に上物を配置するという考えでは確かに良い敷地とは思えなかったんだろうね。 我々にして見れば、 だからこんな気持ちの良い建築がつくれるわけで、 これも大地との応答ゆえの結果。 自然の持っている要素と共に存在しようとすると、 それは、 大地との接し方とか、 大地とのつき合い方だとか、 建物をどこに作るかということになるよね。 だから、 どこに建てるかということは極めて重要な建築行為で、 建築という行為が起きて初めて目に見える行為となることだね。 建築にとって大地との応答というのは、 非常に重要だということを表している一つの例かなと思うんだけれど。
大地の達人に聞く2
建築デザインと起伏
ゲストスピーカー 江川直樹〈現代計画研究所〉
コメンテーター 横山あおい〈エイライン〉1. 建築と大地
2. 建築を浮かす
図1 「今田町の家」模型写真
図2 「今田町の家」緑の森に埋もれた全景
図3 「今田町の家」住宅からの風景
図4 「アルカディア21」住民共有の芝生築山公園 |
アルカディアで何故起伏を作ったかというと、 起伏があると朝から晩まで、 春夏秋冬で、 影の出来方が全然違うんだ。 影が動くよね、 起伏があると。 1日の中で、 あるいは季節の中で。 フラットでももちろん影は動くことは動くんだけれど、 こうも立体的には見えないよね。 アルカディアは、 元々斜面地なんだけれど、 斜面地をベタッと斜面にして作るのと、 それをさらに盛ったりしながら複雑にしていくのとじゃ、 襞の複雑さとかが全然違う。 陰影がより深くなる。 濃くなる。 多様になる。 複雑になる。 日本の建築というのは、 それこそ谷崎が言っている陰影礼賛じゃないけれども、 ディティールを見てもなんにしても、 非常に陰影の機微みたいなもの、 影の機微みたいなものが自然観を表していたり、 その自然観と人間が共存している、 というようなことからくるある種の自然との一体感、 あるいは、 自然へのおそれ、 あるいは、 文明としての心地よさ、 それは、 悲しみや喜びが輻輳する全体像としての心地よさとか、 楽しさ、 そういうものに繋がるんじゃないかとぼくは思う。 その影も、 動くとか形が変わるとか、 変化するということが非常に重要なんだ。
起伏という言葉には、 辞書を引くと、 土地が高くなったり低くなったりすることで、 山の起伏、 凹凸と言うふうに出ているけれども、 その他にも、 盛んになったり衰えたりすること、 起伏の多い人生、 つまり、 盛衰、 と言う意味もあるし、 激しかったり静まったりすること、 つまり、 感情の起伏みたいなものもあって、 これっていうのは、 自然そのものであるような気がするし、 人生も、 たぶんこういうものの総体で成り立っていて、 それは、 結構、 良い人生だったとかね。
横山:
桂離宮でも、 二条城でも行ったら、 建築の折り合いといった非常に建築と庭とが融合された空間をつくり出していると思いますが、 アルカディア21に行ったときに、 たぶん家から見えるそこの風景っていうのは、 その昔、 建物に中に入って庭を見たという感じにすごい近いものがあるんじゃないかなあと思ったんです。 あそこの家周りっていうのが、 結構入り組んでいたりするから、 見え隠れしながら中の公園というか、 起伏のある広場が見えるというのは、 似ているなあと言う気がしていて、 日本の建築と庭園の関係の現代版というのは変ですけれども、 違う解釈で、 でも、 基本的には、 すごく同じ流れでできているなあと………。
江川:
あそこの場合は、 みんなの庭というか、 街の庭。 どう見えるかと言うことの中には、 見え方だけじゃあなくって、 空間に身を置くというか、 そのときに風がどう流れるか、 日射しがどう差し込むかとか、 本当に自分の皮膚に感じられる。 歩く度に、 季節が変わる度に、 変化しているそういうものでね。 あれは、 住宅街区で、 あの場合は、 個々の建物の設計はしていないんだけれども、 建物を柔らかくコーディネートするだけで、 全体の意図的なものと、 意図からはずれたもののおもしろさを狙っている。 住宅だからどうせ変わっていくよね。 人が生活していく中での軋轢というか、 矛盾というか、 そういうものが西洋式の庭園とは違って、 人間の生活によって、 むしろ意図しない、 意図からはずれている、 いやむしろ、 意図として意図じゃないものをもくろんでいる。 そういうものとの矛盾というか、 せめぎ合いというか、 そういうものと、 つまり人間の生活と自然との共存であり、 軋轢のようなものを包容する環境。 昔だったらそれこそ大地みたいなものを都市の生活の舞台の中につくれないかと………。
人間の社会というのも一緒だと思うんだけれども、 横浜国大の植物の先生の言葉で、 生態学的最適条件というのがあるんだ。 生理学的に最適な条件というのは、 つまりどれだけ自分が気持ちいいかという、 そういう意味での最適条件ね。 それを追求していくと、 快適余りに、 結局自分が滅びることに繋がるということがあってね。 生態学的に最適な条件というのは、 自分が、 ずっと生きていける、 自分が、 ずっと滅びない、 そういう最適条件なんだ。 つまり、 最適は、 快楽だけではないんだよ。 そこに生理学的最適条件と、 生態的最適条件とを言い分けているんだけれど、 人間が生きながらえていくためには、 生態学的最適条件が必要なわけで、 それは、 何かというと「競争、 共存、 我慢」と言っているんだ。 「競争、 共存、 我慢」。 たとえば、 山の中の植物って言うのは、 じゃましあいながら、 それでも、 助け合いながら、 いろんな種類が雑種類が共存している。 あれってある種の、 たとえば動物の世界でも天敵だとか、 まあいろんな言葉で代表されるようにある意味では敵であり、 敵と一緒に過ごしながら共存していくというそういう世界だね。 植物の世界でも、 たとえば、 杉にとってうっとうしいようなものが、 あるいは、 下草にとってうっとうしいものが全部なくなっちゃったら、 うっとおしいものがすべてなくなっちゃったら自分も生きれなくなってくる。 世の中っていうのは、 常に何か競い合ってる。 競争的な要素と共にいろんな人がいっしょに生きている。 一つの種別じゃない。 いろんな人間でも良いし、 そんなものが共存していると言うことに意味がある。 その中には、 当然、 我慢っていうかね、 自分にとって都合のいいことだけでは、 結局、 自分にとってだめだと言うね、 それはつまり「競争、 共存、 我慢」と言う要素が、 植物の生態学的最適条件としてあると。 人間でも一緒だと思うんだけれども、 言ってみれば、 人間と大地との関係においても、 そういうことは、 ある。
自然の為だけに都合が良い様に物をつくっていけば良いというのは、 人間にとっての文明という視点としては違うわけだ。 文明というのは、 あくまでも人間的文明なんだけど、 その中には、 自然と人間が共存して行かなくてはいけないし、 そのために、 人間は我慢していかなければいけないところがある。 そういう視点で大地とどうつきあうか、 あるいは、 建築をどう配置していくか。 所詮建築と言う行為は、 あなたが言ったように、 人工的なものを自然の中に埋め込むわけだから、 異物というかそういうものを自然の中に埋め込むものではあるよね。 だけど人間の体だってそういう物を埋め込むことによって神様が与えてくれた肉体と、 よりもっと長い間共存できるということがあるわけでしょ。 ペースメーカーやなんか。 それがその範囲だとかつき合い方だとというものに関わってくるんじゃないかと。
自然がつくった風景とか、 自然ゆえに出来ちゃった、 人間が意図的に作ると言うより、 自然の中を人間が意図的に使いこなした結果出来てきた人間のための文明、 たとえば道みたいな物があるじゃない。 山の稜線に沿って、 歩きやすいようにつくっていった。 直角に上がらないで、 ぐねぐねと蛇行しながら登るという行為が、 自然と人間のある種の共存関係だよね。 その結果美しい風景を作り出したり、 ぐねぐねと曲がるということからくるシークエンスの変化が楽しい。 元々、 シークエンスの変化を求めるためにぐねぐねと道を曲げたわけではないはずなんだよ。 やっぱり、 登りやすいように、 緩やかに登りやすいように、 ぐねぐねと道を蛇行させた結果、 いろんなシークエンスが得られるという、 そういうふうにして、 教わることがいっぱいあるじゃないですか。 そういうことを建築という上物の中に取り入れるということも当然あるわけでね。 建築の中にそういう大地から教えられた、 大地が我々にもたらしてくれた物を再現するというのも重要な大地とのつき合い方だね。 大地に対する尊厳とか、 尊敬とかそういうものの現れであると思うんだ。
それは、 建物の中に大地が自然に作ったかのようなシークエンスのある道を作っていくとかね。 廊下をそういう風に作っていくとか、 階段を、 たとえば建築物の階段というのは、 ぐるぐると繰り返しでまわるのが建築物の階段みたいになっているけれども、 自然の道で、 低いところから高いところにぐるぐる回るって行くということはなくって、 繰り返しはなくて、 右行ったり、 左行ったり、 さらに左行ったり、 さらに左行って、 右に戻ったりするじゃないですか。 建築物の階段だって、 一直線に登って、 次は左の方に、 次は右の方に、 みたいな形で、 大地はないんだけれども、 大地がつくってきた構造を、 建築物の床として再現するのも一種の大地とのつき合い方じゃないかな。 つまり、 大地を宇宙に浮かすと言うかね。
横山:
ちょうどその、 江川さんのやられている御坊の公営住宅なんかは、 そういう感じですね。
そうだね。 あれは、 スラム化したRC箱形の公営住宅の建て替えを住民参加でやっているプロジェクトだけれども、 そういうことを通して、 柔らかい環境をつくりたいんだ。 公営住宅は、 従来であれば、 お上から与えられた箱に住まわせてもらうという、 そういう発想で元々はつくられてきたけれど、 その結果、 公営住宅の環境はどんどん悪くなり、 自主的に自分たちの物として、 愛着を持って、 丁寧に使いこなしていこうというような発想からずれていっちゃったんだよね。 それで、 それによって、 生活そのものまでがすさんで来ちゃったというのがあって、 そうじゃなくって、 自分たちのなじみのある財産であって街の財産。 自分たちの財産だから自分たちが大切にするしかないんだ。 自分たちが大切にすることのなかから、 文明の幸せも生まれるし、 当然、 その大切にするという行為の中には、 競争だとか共存だとか、 我慢みたいなものが当然あるよね。 そういうものの総体として今回の公営住宅ができたら、 もっと、 みんなが生き生きと暮らせるんじゃないかと言うところから、 建築の中に大地性を取り入れるというかね。 箱のきつさというかね、 あなたの言う建築イコール人工物のきつさの要素をね、 少しでも和らげるというかね。 なんかそういうことによって、 道を歩いていたときの自然の変化だとか、 風が吹き抜ける感じがわかる。 そのために廊下をどういうふうにつけるかとかね。 そういうことによって、 大地の中に、 大地とつきあいながら住んでいるような感じで生活できるんじゃないかと思うんだ。 従来の建築のように、 直線と単純な繰り返しの階段、 幅員の同じ廊下幅とかね、 そういうものだけからできていた空間の、 なんか退屈さだとか、 強制さとかいうそういうものから脱せられて、 その辺は、 大地の持っている包容力だとか大きさだとかね、 そういうものに近づくと言ったら変だけれどね。 そういう事に繋がるんじゃないかと。 つまり、 一方で大地だとか起伏だとか、 自然の有様を想起しながらつくっている建築なんだよね。
横山:
大地を写している感じですね。 建物の中に。
たとえば、 六甲アイランドでは、 海の手六甲ということで、 山のように、 建物を盛り上げていますが、 あれとはまた違いますね。
江川:
あれはね、 平坦な所に平坦な風景を作ると、 より平坦な風景しかないじゃないですか。 風景としても起伏のある風景の方がなじみが良いというか、 人間というのは、 起伏のある、 喜怒哀楽だとか、 盛んになったり静まったり、 激しかったり、 そういう感情の、 動物だから。 それは、 決して悪いことじゃない。 その人達の住む場所が、 あまりにも平坦で、 画一的だったら、 やっぱりその人間の感情と合わないんじゃないかと。
たとえば屋根並、 瓦の屋根並とか瓦の風景なんていうのも、 甍というように、 光り輝く波間のように、 屋根の瓦の甍がきらきら光り輝いていて、 あれは、 平坦静寂というよりは、 起伏というか、 細かな起伏だけれど、 そんなことを感じさせるんじゃないかな。
横山:
一様じゃなくって。
江川:
一様じゃなく、 逆行になったら全体が光るし、 順光になったら、 影と光の部分が際だってきたり、 本当に、 光の当たり方によっていろんな見え方をする、 高さは一緒なんだけれども結構起伏があるように見える。 屋根なんかは、 特にそういう要素があって、 四角い箱で群で見た時の見え方と違って、 三角形をその中に入れて勾配の屋根が乗っていると、 見る場所の角度によって、 全然違った形に見えるじゃないですか。 つまり、 より複雑な景観に見える。 たとえば、 御坊のように建物の軸線をグニャグニャ振っていたら、 もうどこに行っても全く見え方が違う。 非常に複雑な見え方をする。 それっていうのは、 どっちかというと自然の地形の見え方に非常に近い。
横山:
一様じゃないといえば、 私が最近知っている江川さんの中高層住宅の建物って、 とてもきれいな色で、 いろんな色で、 いろんな屋根の形で、 昔、 街を描きましょうって小学校や幼稚園の時に言われたときに、 同じ形の建物なんか描かなかったと思うんですよ。 いろんな屋根があって。 それがね、 江川さんの建物には、 すごく現れていて。 昔の箱形の集合住宅っていうのは、 ほんとうに違うんですよね。 きゅっとかける。 建物が、 ぴゅぴゅぴゅぴゅってそうじゃなくなってくるって事は、 自分たちは、 自由な気分がしますね。
江川:
自由でね。 いろんな人といっしょに住んでてね。 そこには、 いろんな人生があって、 自分の生き方だけが正しいんじゃないということを表現しているというか、 表明しているというか。
やっぱり、 「競争、 共存、 我慢」という生態学的最適条件。 これは自然そのものであり、 ぼくは、 大地を扱う場合でも、 建築を扱う場合でも、 やっぱりそういう表明が良いんじゃないのかな。 建築レベルでも、 もう少し大きいアーバンデザインのレベルでも、 それぞれで表明してたほうが良いように思うけれど。
建築と大地のつき合い方なんていうのは、 あるいは、 建築と建築のつき合い方なんていうのも、 まさにそういう視点が、 重要なんじゃないだろうか。
横山:
人間の現れって感じですね。 昔は、 みんな同じ方向向いて、 一生懸命高度経済成長しなきゃーってことで、 そういう形だったけれど、 やっぱり最近、 もっと人間に戻ろうって事なのでしょうか。
江川:
大地だって、 大地は、 みんな違う。 だから、 建物の配置や、 つき合い方は、 みんな違うはずなんだよね。 それを同じように雛壇造成にしちゃうっていうところあたりが問題なんだ。 それは、 豆腐型の中層住宅を並べてた考え方に似ていて、 あれは、 あれで、 考え方の表明だったんだけれども、 もっとなんか世の中は、 包容力があるし、 人間も包容力があるし、 これからの世の中ってそうなるべきだし、 みんな違うんだから。
もちろん、 群造形としての意味も含めてのことなんだけどね。
4. 大地から学ぶ
図5 「御坊島団地」軸線がずれてつながる南廊下型立体路地
図6 「御坊島団地」立体路地での立ち話風景
図7 「御坊島団地」南廊下型立体路地の風景
5. 平坦でない風景
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