「公的(パブリック)」とは、 第一義的には「万人によって見られ、 聞かれ、 可能な限り最も広く公示されるということ」を意味する。 私たちのリアリティの感覚は「現われ」に依存し、 したがって「公的領域」の存在に依存している。 「公的(パブリック)」は、 また、 人々を集結し分離する介在者としての事物の世界そのもの、 「共通世界」を意味する。 共通世界のリアリティを保障するのは、 立場の違いやそれに伴う多様な遠近法の相違にもかかわらず、 すべての人が同一の対象に係わっているという事実である。
公的空間は、 死すべき人間の一生を越えなくてはならない。 共通世界とは、 私たちが生まれるときにそこに入り、 死ぬときにそこを去るところのものだからである。 世界は絶えざる運動の中にあるのではない。 むしろ、 それが耐久性をもち、 相対的な永続性をもっているからこそ、 人間はそこに現れ、 そこから消えることができるのである。
〈観照的生活〉に対置される〈活動的生活〉には、 人間が地上の生命を得た際の根本的な条件に対応して、 三つの基本的な「活動力(アクティヴィティ)」がある。 「労働(レイバー)」:人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力、 労働の人間的条件は生命それ自体である。 「仕事(ワーク)」:人間存在の非自然性に対応する活動力、 物の「人工的」世界をつくる。 仕事の人間的条件は世界性である。 「活動(アクション)」:物や事柄の介入なしに直接人と人との間で行われる唯一の活動力、 多数性という人間的条件に対応している。
人間存在は条件づけられた存在であり、 その最も一般的な条件は「生と死」である。 労働は個体と種の生命を保障する。 仕事は、 死すべき生命の空しさと人間的時間のはかない性格に一定の永続性と耐久性を与える。 活動は、 政治体を創設維持し、 記憶の条件、 歴史の条件を作り出す。
労働の生産物は消費され必然的に解体される。 仕事の生産物は使用されるが解体されずに世界にとどまる。 たとえ解体されることがあっても、 それは使用にとって本質的ではなく付随的である。 生産物の世界性の程度は、 世界におけるその物の永続性の程度に依存する。
活動・言論・思考は、 物化によりリアリティと持続性をうる。 物化には仕事人の技を要する。 言葉と行為の偉大さは移ろいやすく、 美がそれに付与されてはじめて世界にその生命を持続することができる。 活動し語る人びとは、 最高の能力を持つ〈工作人〉の助力を必要とするのである。
世界が人々の住家であるためには、 人間の工作物は、 活動と言論にふさわしい場所でなければならない。 物の世界を構成する作品自体は、 それが現れ、 見られるある公的空間を必要とするという特質をもっており、 その点で政治的「作品」である言葉や行為と明らかに同じである。 活動の公的領域が物に展示の空間を与えることを、 文化は一般的に示している。 芸術と政治には、 後に見るような敵対的緊張関係ばかりでなく、 内的相互依存関係も存在していることを文化は示しているのである。 芸術と政治を結ぶ共通の要素は、 それがともに公的世界の現象だということである。
職人芸は、 ただ物のあるべき精神的イメージ、 すなわち「イデア」だけを相手にすることによって成り立つ。 Homo faber〈工作人〉は公衆から隔絶され、 保護され、 身を隠さねばならない。 独居なしにはどんな作品も生み出すことはできない。 仕事人の「光輝ある独居」。 共同作業ほど、 仕事人にとって疎遠で、 しかも破壊的でさえあるものはほかにはほとんどない。
〈工作人〉は物と材料を相手に支配(マスター)する。 〈工作人〉は自然の主人であるとともに、 自分自身と自分の行為の主人である。 〈労働する動物〉が自然の召使いであるのに対し、 〈工作人〉は創造者である前に自然の破壊者であり、 地球全体の支配者として振る舞う。 暴力の経験、 自己確証、 完成の喜びは〈工作人〉に特有のものである。 仕事は作者の才能と作品の質がものをいう領域である。
〈工作人〉も、 親方・助手あるいは親方・弟子などの共同社会を営むが、 この関係は一時的なものに過ぎない。 また仕事には異なる職種や専門分野の協同作業がつきものであるが、 この場合の仕事の専門化は、 あくまでも完成品によって導かれる点に特徴がある。 これとは対照的に、 労働の分業化は、 活動力の同質性を前提に労働過程から直接生まれる。
活動し語るという政治的な活動能力は、 仕事の対極にあり、 他人、 公衆の存在、 多数の人々からなる空間なしには全く演ずることができない。 このことが芸術と政治との相互の不信と敵意の原因となっており、 容易に解決不能である。
ギリシャ人が工芸分野全体を実利的として卑下したのはこの理由からである。 功利主義的なメンタリティが、 技術を習得した人々の悪徳とみなされた。 ギリシャ人にとって、 美への愛を賞賛することと、 美しいものを生みだした人々を蔑視することは矛盾していなかった。
功利主義の難問は、 手段と目的の無限の連鎖から抜けられない点にある。 すべてを目的のための手段と考える製作者精神、 これが製作以外の領域に拡張されるとき、 政治的領域に脅威を与える。 (都市工学、 社会工学、 人間工学!)。 芸術家に対する不信と軽蔑は政治的考察から来ていた。
製作の功利的側面は、 政治的活動能力に対立するばかりでなく、 文化的領域自体にも脅威になる。 物が有用性の基準で判断され、 それに固有の独立した価値を失うからである。 完成品の存在に対する最大の脅威は、 ほかならぬそれをつくりだしたメンタリティそのものから生じている。 物の世界をうちたて、 建設し、 飾り付ける場合に必然的に優位を占めるはずの基準や規則は、 それが完成された世界そのものに適用されるとき、 全く危険なものとなる。
目的と手段の連鎖に終止符を打つ究極目的に、 人間を据える人間中心主義は、 必然的に物の世界を貶め、 手段としての自然・世界という観念を蔓延させる。 人間が目的自体であるとするカントの人間中心的功利主義も例外ではない。 プロタゴラスの「人間はすべての使用物の尺度である」という言葉に対するプラトンの反論「神こそ単なる使用対象物の尺度である」は、 話す・行う・考える人間を念頭に置いたものである。
無限の連鎖から抜け出られないのは、 有用性(ユーティリティ)と有意味性(ミーニングフルネス)の区別をつけないからである。 つまりin order to「ある目的のために」とfor the sake of"「それ自体意味のある理由のために」の相違が考えられていないのである。 目的は実現されると目的であることをやめるが、 意味は永続的性格を持つ。
人間が〈工作人〉である限りは意味を理解しない。 〈工作人〉によって樹立される物の人工的世界は、 死すべき人間の住家となるが、 しかしそれはこの人工的世界が、 消費のために生産される物の純粋な機能主義と、 使用のために生産される対象物の純粋な有用性とを、 ともに超越する限りにおいてである。
キケロの言うcultura animi「洗練された心」はこの鑑賞力を指す。 かれによれば、 芸術家と活動の人との闘争を調停するのはcultura animi、 すなわち「美を判断の基準とする外形の世界の世話と保護を任せることができるほど十分に訓練され精神」である。 キケロはこの文化の源泉を哲学における訓練に求めた。 知の愛好者、 哲学者だけが、 ただ見るためにのみ見る人、 単なる鑑賞者として物にアプローチした、 私心のない人であったからである。
鑑賞力の現象に関する研究で深遠な発見をしたのはカントである。 カントの政治哲学『実践理性批判』の定言的命題「あなたの活動原理が一般的な法になるような仕方でいつも活動せよ」は、 自分自身との一致を説いたものである。 『判断力批判』ではこれに「自分以外のすべての人の立場で考えること」をつけ加え、 これを「拡張されたメンタリティ」と呼んだ。 一人で判断する場合でも、 判断における思考過程は、 同意を必要とするであろう他人との予想されるコミュニケーションのうちにある。 この潜在的同意による「主観的な私的条件」からの解放が、 判断に独特の強みを与える。
判断力は、 それが妥当性をもつためには、 他人の存在に依存している。
したがって判断力の妥当性は、 普遍的な妥当性ではなく、 特殊な妥当性であり、 他人を越えて拡張できない。 判断の対象が姿を現している〈公的領域の成員〉でないような人びとには妥当性をもたない。 政治的存在としての人間の基本能力の一つであるこの判断力は、 コモン・センス「常識(共通感覚)」と呼ばれるものに根ざしているのであり、 他人との世界の共有にとって重要な活動能力である。
このことは審美的判断力でも例外ではない。 カントは美も公的性格をもつと考えた。 「われわれは同じ喜びを他の人びととも分かち合うことを希望している」がゆえに鑑賞の判断力は公然と議論されるし、 鑑賞力は「他のすべての人びとの同意を期待している」がゆえに論争の対象になりうる。 したがって、 鑑賞力は、 その他の判断力と同じようにコモン・センスに訴えるかぎり、 「私的感情」のほかならぬ対極に立つものである。 政治的判断と同じように美的判断においても、 決定がなされる。 そして、 この決定は、 いつも一定の主観性によって、 つまり、 各人は世界を眺め判断するための自分自身の場所を占めているという単純な事実によって、 なされるけれども、 同時に、 世界そのものが客観的な与件であり、 すべての住民に共通する何かであるということにも由来している。
鑑賞の判断力が恣意的と見られるのは、 証明による同意を強要しないからである。 説得に基づいているという点で政治的意見と共通している。 それは「他の人びとの同意を乞いもとめる」ことができるだけであるが、 説得は、 哲学における「真理の強制力」とことなる別の強制の非暴力的形式に他ならない。
文化と政治が同一のものに属しているというのは、 ともに問題にしているのが知識や真理ではなく、 むしろ判断と決定であり、 公的生活の領域や共通世界にかんする意見の賢明な交換だからである。 そして、 その決定は、 どのような活動様式がその世界においてとられるべきか、 以後世界はどのように見えるか、 いかなる種類のものがその世界に現れるべきかにかんするものである。
鑑賞の判断力は、 判断の仕方によって人は自分自身をも、 つまり彼がいかなる種類の人間であるかということをも、 ある程度まで暴露する。 暴露は人格的特質であって、 その人のもっている特質、 個人的才能とは別である。 それは「彼は何者か」が明白になる場所である点で、 活動し語る領域とおなじであり、 またこの点でも、 芸術家と製作者が住む、 作者の才能と作品の質がものをいう領域と衝突する。
たしかに、 質は、 議論を越えるものであり、 真理と同じように同意を強要する証拠である。 本当に洗練された精神の活動力としての鑑賞力が働くのは、 質意識が広く流布し、 真に美的なものが容易に認められる場合だけである。
鑑賞力は、 製作と質の領域に人格的な要素を持ち込み、 ヒューマニスティックな意味を与える。 鑑賞力は美的なものをそれなりの「人格的な」仕方で保護し、 こうして「文化」を生むのである。 キケロにおけるhumanitasヒューマニストは、 自分が専門家でないゆえに、 それぞれの専門がわれわれに押しつけてくる強制を乗り越える判断と鑑賞の能力を用いるのである。 かれは言う、 「私は、 真理によってさえ、 また美によってさえ、 強制されること拒絶する」。 そのようなものとして、 ヒューマニズムは、 多くの点で互いに対立しあっている純粋に政治的な活動能力と純粋に製作的な活動能力とを仲裁し、 媒介する任務をもっている。
「現在においてであれ、 過去においてであれ、 人びと、 物、 思想の中から自分の仲間を選ぶ仕方を知っている人、 それが文化人(cultivated person)である」というのがローマ人の解答である。
これを一つの原則として承認したとしても、 都市環境デザインの分野に単純にこの原則を当てはめようとするといろいろな問題が生じてくる。
まず、 建物や道路や公園など、 都市環境を構成する要素の多くは一度作られてしまったら簡単には取り替えられない。 したがって、 もし市民の選択が必要であるとすれば、 それは専門家が作る前に行われなければならない。 イデアの段階、 あるいは計画や設計の段階で選択する必要がある。
言うまでも無く、 計画や設計の段階で適確な判断を下すには、 完成した作品に対する鑑賞力とはまた別の想像力を必要とする。 この想像力は、 通常、 専門家の豊かな経験によって育まれるものであり、 一般の市民にこれを期待するのは難しい。
市民に不足するであろう想像力を補完する方法はもちろん考えられる。 模型や映像シミュレーションなどよって、 技術的に補完するというのもひとつである。 選択の場に、 作品の製作に直接係わっていない専門家を、 判断の補助者・参考人として参与させるのも、 ひとつの方策である。 作る段階を細分化し、 各段階にキメ細かく選択の場を設定するのも、 参加型デザインとしてよく採用される方法である。
こうした〈事前の選択〉を可能にする工夫をすればするほど、 製作過程に必要な〈工作人の独居〉を妨げ、 その作品に破壊的な影響を与える危険性をも孕んでいることに留意する必要がある。
〈事前の選択〉に伴う困難よりももっと深刻なのが、 選択に関与すべき〈市民〉をどう特定するかであろう。 カントの言う「拡張されたメンタリティ」による判断が妥当性を持ちうるのは、 判断の対象が姿を現している〈公的領域の成員〉の間だけである。 判断の対象となる建物や道路や橋や公園は確かに公的領域に姿を現している。 だがその公的領域の成員とは一体どの範囲の人々を指すのか。
グローバル化した現代においては、 公的領域として、 ギリシャのポリスのような地縁的政治体を単純に想定してもむろんリアリティがない。 むしろ、 「世界遺産」の指定などという最近の現象の延長線上に見えてくることは、 現代人にとって現実味のある公的領域とは結局のところこの〈地球〉であり、 その成員とはつまるところ〈人類〉ということになるのではないか。 そうした中で〈市民の選択〉とはなにを意味するのか。
デザインと政治に関する、 ハンナ・アレントの明晰な定式化にもかかわらず、 議論しなければならないことは尽きないようである。
問題提起
ハンナ・アレントにおけるデザインと政治
(関西大学) 丸茂弘幸
0。 はじめに
以下はハンナ・アレントの『人間の条件』および『文化の危機』からの引用文をベースに、 論題の趣旨に沿うよう筆者が再構成したものである。 文章の構成および小見出しは筆者のものであり、 引用文自体にも文章構成上必要な変更がほどこされている。 また、 紙面の関係で近・現代に特徴的な論考部分については省略せざるをえなかった。 この小論がアレントの思想を歪めるものでないことを念じている。
1。 デザインとは〈物の世界〉をつくる仕事である
人間は「使用(ユーズ)されるうちに慣れ親しむ(ユースト)ようになる」物の環境の中で暮らしている。 使用される物は、 世界の親しみやすさのもととなり、 人間と人間の間だけでなく人間と物の間の交わりの習慣を作り出す。 人間世界のリアリティと信頼性は、 私たちが物によって囲まれているという事実に依存しているのである。
2。 デザインは孤独な仕事である
仕事においては、 製作過程に先行してモデルやイメージが存在し、 これが仕事を導く。 このモデルやイメージは製品完成後も消滅しない。 このことが製作の無限の継続可能性と潜在的増殖性を生む。 モデルやイメージの永続性の特質は、 永遠のイデアというプラトンの説に強い影響を与えた。 多くの消滅する物に君臨する唯一永遠のイデアというプラトンの教義の例証には、 製作(ポイエーシス)の経験が用いられている。
3。 デザイナーの精神は〈物の世界〉を脅かす
人間は〈工作人〉である限り手段化を行う。 〈工作人〉が目的達成のために手段を用いること自体が問題なのではなく、 製作経験を一般化してしまうことが問題なのである。 〈工作人〉にとってこのような一般化が避けられないのは、 製作が依拠している手段と目的の関係が、 すべての目的がある別の文脈ではふたたび手段となるような連鎖に大変似ているからである。
4。 洗練された常識人が〈物の世界〉を保護する
ペリクレスは、 「われわれは政治的判断の限界の中で美を愛する」と言っている。 ギリシャにおいて、 美に対する愛に限界を設けていたのはポリスであり、 政治の領域であった。 自分たちを野蛮人から区別しているのは芸術的成果ではなくポリス、 政治であり、 これが「文化的」区別でもあった。 野蛮とは文化の欠如や特質などではなく、 選択の仕方を心得ていない過剰な洗練、 無差別な感受性だったのである。 文化とは「人間と世界の物との交通様式」である。 美との適切な交わり方、 すなわち鑑賞力は、 政治的能力の一つである。
5。 専門家が作り市民が選ぶという原則−問題提起にかえて
以上がハンナ・アレントの思想の要約である。 これを煎じ詰めれば、 〈世界の物〉は専門家が作るべきであるが、 〈いかなる物が世界に現われるべきか〉については、 市民がこれを選ばなければならない、 と言っているように思われる。
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