もともと「まち」はそこに集まって住む人々の暮らしの〈かたち〉である。 ところが今「まち」のかたちにいろいろ問題がでてきた。 密集市街地の改善、 中心市街地の再生、 産業構造の転換にともなう大規模な土地利用の転換、 自然環境との共生、 モザイク状に進む個別再開発や建て替えによる混乱……。
ところが、 都市では、 これまでのように場所に蓄積された記憶や場所に根ざした共通の生活の空間などを手がかりに、 新しい共同性を探ることが難しくなっている。 そのなかで、 場所と人と都市の営みとの関係性をつなぎ直し、 それぞれの選択を重ね、 その場所に関わる人々が、 「まち」をかたちづくる主体となるところに、 〈参加〉を考えてみる。
多くの人が、 住む場所、 働く場所、 遊ぶ場所、 学ぶ場所など、 目的に応じて多くの場所を渡り歩いて生活しながら、 それぞれの場所において常に他者でありうる状況が生まれている。 また、 情報ネットワーク上では、 場所とは無関係のコミュニケーションによる社会が出現している。 携帯電話によって、 都市の公共性のなかに流動性の高い私的領域が混在している。 ある場所の環境を共有している状況において、 他者の意味が多様化してきている。
都市の環境デザインには、 どのように建物や公共的空間をつくるかというだけでなく、 看板や窓辺の花、 車の停め方や公園の管理など、 その場所をどのように使っているかが表出される。 環境には、 場所の空間的構成と人の営みの相互性がある。 そこに公共性があるといってもいい。
しかし、 多くの人にとっては、 都市空間に対して、 利用者以上の関わりの意識はない。 そこは、 場所における他者の立場から客体化された空間でしかない。 家は個人の資産と意識され、 それが集合してあらわれてくる環境に対する関わりは意識されない。 このような状況において、 環境デザインへの参加の主体とは?
このテーマコミュニティは、 土地や環境への個人的利害が希薄なため、 テーマの合理性、 共感性をよりどころに、 環境保全に働きかけ、 新たな場所との関係をつくりだしてきている。 確かにこのような環境への参加が、 大きな力を持ってきているが、 このような人々は、 日常生活の場所において、 どのような暮らし方で、 どのような環境との関わりをもっているのだろう。
参加は、 場所と主体を結びなおすしくみかもしれないが、 それは伝統的社会の地縁とは異なる関係性をつくりだそうとするものであろう。 テーマコミュニティは、 そのひとつのかたちであるが、 彼らが関わろうとする場所に生きる人々との関係をどのようにとっていくかが、 これから検証されていく必要がある。 そして、 常に他者性を内包している日常の生活の場において、 参加の主体性のよりどころは何なのだろうか。
合意では、 反対する者の立場は、 計画やデザインの決定のプロセスにおいて、 顕在化することはあっても解消されない。 納得では、 賛成意見も反対意見も、 いろいろな意見があることが前提であり、 議論をすることによって、 ある状況(計画やデザインの内容)を理解することができることに至る。 立場の違いを排除するのではなく、 ある状況を主体的に選択する立場をつくりだすことができるだろう。
まちづくりにおいて、 地域に多様な他者性を内包する現在、 参加とは、 納得のプロセスをつくれるかというところに課題があるようだ。
実際のまちづくりのなかでは、 情報の共有化による議論をとおした納得よりも、 やってみること、 事実を知ること、 具体的な状況づくりなどが、 納得のプロセスの方法論として試みられ、 その経験を積み重ねていくなかで、 地域のリアリティをつくっていっているのではないだろうか。
例えば、 小さなことでもやってみて目に見える成果がでれば納得できるし、 次につないでいける(深江の花と緑の市民協定)、 それぞれの生活の実態を知り、 生活を支えている空間のあり方を確認していくことで、 納得できるところ〈お互い様〉を探る(御坊の島団地の建て替え)、 地域の共通の場をつくる、 場所の共同性を探る、 それを創り出すことをとおして参加を試みる(神戸市灘区:なかよしランド)など、 参加の事例にも見ることができる。
このような環境形成における参加のプロセスには、 共通する意識として、 〈共〉がある。 共感、 共有、 共同、 共存、 共用・・・〈共〉のあり方は多様である。
○デザインのプロセスでは:
アレキサンダーのパターンランゲージ、 サノフのデザイン・ワークショップ、 ルシアン・クロールのデザインへの参加など、 いろいろ参加型デザインの手法や考え方がある。 しかし専門家が〈かたち〉を決めるとき、 専門家と参加者が共有するイメージの確認は可能なのか、 そして、 それを〈かたち〉にしていくときに、 専門家は、 その場所と暮らしと歴史と文化に対して、 表現する〈かたち〉が環境へと熟成する時間(〈共〉に生きられる時間)の意識が必要である。
○つくるプロセスでは:
地域の素材・技術と世間と作法に代わって、 規則や法律によって〈まち〉がつくられるようになるとき、 地域性や場所性が消えていく。 そのなかで個々の住まいのかたちをつなぐよりどころを求める方向(まちづくり協定等)と、 かつての共同作業を現代的に試みるもの(ワークショップ型の公園づくり等)など、 場所における主体が〈共〉を求めるプロセスがある。
○育てるプロセスでは:
ある場所にとって、 〈かたち〉をつくる行為は、 始まりであって、 終わりではない。 生活環境は、 生きられた空間である。 いかに使いこなしていくか。 庭木の管理、 窓辺の花、 道の掃除、 洗濯物の生活感。 空き地の自由。 公園や集会所などのコミュニティ施設の自主管理、 企画運営など。 環境を育む〈共〉がある。
祭りの世話や家普請、 入会地の管理などは、 閉鎖系の参加によって、 参加の主体の社会的・経済的公平性が維持され、 その共同性に支えられ、 地域景観が維持されてきた。 しかし、 多くのまちづくりや参加のデザインにおいては、 地域住民とともに、 テーマコミュニティやボランティアの活動、 多くの専門家やNPOのような地域型組織、 そして行政や企業も参加する。 現在の参加は開放系である。
それでは、 開放系の参加のデザインにおける主体とは何か。 これまでも都市では、 家並みやアトリウムのような私的空間であれ、 道や公園・広場などの公的空間であれ、 都市の公共性は、 社会的・経済的に開放系の参加を前提としてきたはずである。
そうであれば、 開放系の参加における主体は、 地域の公共性(社会的リアリティ)にどう関わるかという問題であろう。 もう一度、 〈地域〉という場所性の回復と〈地域〉と人の関わりを結び直すことが参加のデザインであり、 そこで専門家の創造性と公共性が問われる。
SessionC3 参加型デザインの課題(ディスカッション)
〈参加〉のデザインをめぐって
(大阪大学) 小浦久子
1。 場所のリアリティと他者性
「国際社会の次元では政治上の事件がイメージとして消費され、 他方、 私的な生活の次元では他者との関係に(携帯電話やEメール)で微細なまでに心を砕く。 こうした社会的リアリティの二極分解のなかで、 私たちの生活から〈地域〉と呼ばれるようなサイズでの社会的リアリティがすっぽり抜け落ちてきた。 」(鷲田清一:朝日新聞5月27日)
一方、 客体化された空間・環境であるからこそ、 場所と個人の関係を離れて、 川や山の保全、 歴史的環境の保全、 エネルギー問題など、 本来的には場所と人の関係であるはずの環境問題への関心がでてくる。 そこに、 今、 地縁と異なる共同性としてのテーマコミュニティが生まれている。
2。 納得のプロセスと〈共〉
「まちづくりの協議は、 合意できるかではなく、 納得できるかだ」というのを聞いたとき、 「納得」とは何なのだろうと思った。
3。 開放系の参加と主体
本来、 地域や集落の共同性によって支えられてきた環境や里山・棚田などの就労空間、 慣習的行事、 祝祭などは、 共同体の規範によって地域独特の環境のかたちをつくっていた。 この環境が、 外部からの他者の参加によってしか支えきれなくなってきたとき、 これまでの共同性にかわる経済的負担と役割分担のしくみが必要になる。
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