環境共生型都市デザインの世界
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ありうる共生とは

人間は整備しつくさないと気が済まないのか

 では自然破壊は避けられないのでしょうか。 私は、 こういうことは言えるんじゃないかと思います。

 例えば人間は家をつくる。 家のまわりにはちょっと場所が欲しい。 建て込んでいるのは嫌だから、 庭が欲しい。 そこまでは仕方がないのですが、 人間は庭までも自分の趣味に合わせようとするのです。 きれいな芝生にし、 草が生えたら全部抜きます。 そして芝生の向こうに草が生えていたら、 除草剤を撒いて全部退治します。 そんなふうにしていくと、 庭の中は人間のつくったものだけしか残りません。

 外には道をつけます。 動物でもけもの道ができるぐらいですから、 人間が道をつくるのは当然の話です。 次に車が通りやすいように舗装します。 舗装した方が安全だからです。 その時に車の通る所だけ舗装すればいいはずですが、 どういうわけか道の縁まできちんと舗装してしまいます。 そして道の縁に水が落ちるようにするために、 側溝をつくりますが、 水が流れやすいようにと側溝をコンクリートで固めてしまいます。 こうして草原だった所が隅々までコンクリートで固められてしまうのです。

 そのうえ、 道のその外側が切り通しになっていたとすると、 落ちると危ないからといって何かで固め、 それじゃあんまりだと思うと、 固めた上にまた木を植えて緑にしています。 昔はペンキで緑色に塗ったりしたものです。 今はまだしも格好だけはつけようとしていますが、 人工的であることには違いがないのです。 そこに自然は全くありません。

自然と人間のせめぎ合いをつくる

 そこまでする必要が本当にあるのだろうかということです。 道の縁は車が通るわけじゃありませんから、 草を生やしておけばいいじゃないか。 あんまり生えたら多少お金はかかるかもしれませんが、 時々刈ったらいいじゃないか。 草が生えないようにコンクリートで固めるのは止めて、 草を生やしておけば、 草に虫がついてそれぞれが色んな営みを始めます。 虫が来れば蛙が来る、 蛙がいると蛇が来るというように、 いろんな生物がそこで生きてゆけるのです。 これは勝手にやらせておけば、 自然が動いてくれるのです。

 庭でもそうです。 芝生をつくりたい人はちょっとはつくってもいいでしょう。 でも、 あとは適当にして、 草を生やしておく。 あんまり生えたら刈ってもよいし、 木も増えすぎたら切り倒す場合もあるでしょう。 木は切られても、 自分の子孫を残すために芽を出して花をつけ種を作ろうとします。 それは放っておいて、 でもあんまり大きくなったらまた切る。 また向こうも頑張って生えてくると。 そうであれば、 そこに自然と人間のせめぎ合いが始まります。 また木と他の木や草との間のせめぎあいも続きます。 そうして自然はそこに残っていくわけです。

手のかからない緑は緑ではない

 皆さんの中にも関係者がおられるでしょうが、 造園には相当強引なところがあるようです。 木を植え、 緑にしましょうというまでは良いのですが、 なるべく手のかからない緑にしようと考えているようです。 だから植える木が決まってきます。 そのうえ、 「毛虫がつくのは嫌だから毛虫のつかない木にして下さい」などとうるさいことをいう一般の人もいて、 しょうがないから葉がプラスティックのような材質の外国の木をもってくることも増えています。 これだと、 毛虫がつかないし、 落葉もないので手がかかりません。 しかし、 そんなものにしてしまうと、 人工のプラスティックの木とあまり変わりない風景になってしまいます。 つまらない風景です。

 それに対して、 日本の山を見ていますと、 冬の間は枯れ木ですが、 春になると芽が出てきて、 何か柔らかい感じになります。 これは視覚に訴えるテクスチャーだと思います。 ほわーっとして、 触ったら柔らかいだろうという気がする。 あるいは春の林を見るとぼうっとしていて、 触ったらふわっと柔らかさがあるような気がするのですが、 これは実際に触った反応ではありません。 目で見るとぼうっと柔らかいように見える。 これが英語で言う「ビジュアル・テクスチャー」です。

 それがどんどん季節ごとに変わるわけです。 春から夏になると変わります。 秋になるとまた変わります。 それ自身は自然が勝手にやっていることですが、 人間にとっては有難いことです。 これを杉の林にしてしまうと、 殆ど一年中ビジュアルテクスチャーが変わりません。 何か面白くないものになります。 緑はあればいいというものではないのです。

きれいにしすぎるのを、 やめよう

 このように向こうに何か勝手にやっている自然があって、 人間は人間としての営みを続け、 あるところから先は放っておくというあり方が必要ではないかと思います。 時々は人間が入っていって切ったりすることはやるけれども、 向こうが押し返して来た時は、 しばらくは押し返させておく。 ただ、 あんまりひどくなったらまた切るということを繰り返していくこと。 これが共生だろうという気がするのです。

 街の中に大きなビルをつくった時も、 そのまわりにプラスティックで出来たような植物を植えていてはだめなのです。 どうってことのない木を植えておき、 草が生えたら生やしておけばいい。 あんまりひどくなったら手を入れればいいぐらいに考えておけば、 そこにある種の共生ができてくるのです。 今まであんまりきれいにしすぎていたのです。 その延長上には共生は見えてきません。

 この会場の北側の道は、 歩道もつき、 きれいに整備されています。 しかし、 困ったことに、 琵琶湖の沿岸はきれいになりすぎているのです。 県として、 そこにいい加減な波打ち際があってはいけない、 親水公園にしてきれいにしなくてはいけないと思っているようです。 そんな考えのために破壊されてしまった自然が、 いたる所にあるのです。

 今、 我々はきれいになりすぎた波打ち際を何とか元に戻そうと思っています。 つくる時に土建屋に儲けさせて、 それを壊す時にまた土建屋に儲けさせるのかという人がいますが、 土建屋に入ったお金もまたまわってくるのですから、 いいじゃないかと思います。 そこに何でもない草が生えた何でもない湖岸ができると、 そこでは植物や何かが勝手なことをし始めます。 そうすれば自然が残っていくという気がするのです。

 共生というのは、 多分そういうふうな考え方でしか出来ないのではないかと僕は思っています。

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