環境共生型都市デザインの世界
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自然と共にある風景

 私自身は環境共生ということをエコロジーからだけで考えないようにしています。 人間が自然と一体化できるデザインとなることを、 素直に考えてゆけば良いと思っているわけです。 そのためにはミクロなレベルからの人工と自然との調和を考え、 それらの蓄積としてマクロなランドスケープを考えてきました。 その事例を海外のものをも含めて検証しながら、 私自身が最近試みた人工地盤の広場をご紹介します。

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写真1 スモッグに覆われたマンハッタン
 写真1はニューヨークの朝のマンハッタンを撮った写真です。 これを見ると、 われわれが近代都市において、 このようなスモッグと、 高密・高層化のなかで毎日生活をしているということが良くわかります。 空気のみならず環境全体への汚染に対して無自覚なまま私たちは生活しているわけです。

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写真2 とじ込められた自然
 写真2は詩人の佐々木幹郎と写真家の細川和昭さんとがつくった作品です。 現代の自然というものは知らないうちに、 このような透明なガラスビンのようなフレームのなかに閉じ込められてしまっている。 すべてが何らかの形で囲われた生活をしている。 そういうものが近代の自然ではないかという意味深長な写真です。

 われわれの周りのかつての豊かで大きな自然がなくなり、 身近にあった小さな自然までがメディアによってパッケージ商品化されてきています。 本当にそれでよいのかというひとつの問いかけが、 この作品の中にはあります。

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写真3 シドニーの中央の公園
 振り返ってみて、 豊かな自然のある都市の生活環境とはどういうものかを考えてみましょう。 写真3はシドニーの中央公園です。 このようにイギリスの植民地都市は、 必ず都市の中央に大きな公園をつくり、 その周りに都市基幹施設を配置するというパターンを採っています。 こういう自然の豊かな風景を見ると、 日本でもこういう都市をつくりたいということは誰しもが思うことですが、 果たしてそれが日本でできるかどうか。

 歴史的な都市社会の成立過程や地形、 自然条件を読まずに、 夢だけを語ることはできません。 実はこの公園はイギリスの植民地経営のために、 都市を構造化するという強固な意志が生み出したものです。 その歴史性を抜きにして、 この美しい形だけをもってくると日本では育たないでしょう。

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写真4 セントラルパークの植生断面図
 さて、 形態よりも大都市のなかの公園の植物は、 その環境構造が大事です。 公園の植物は小さな鳥とか小さな獣など都市の生物にとっては、 重要なねぐらであると言われています。 写真4はニューヨークのセントラルパークの植生断面図です。 フランク・ロー・オルムステッドが19世紀半ばにセントラルパークを設計したとき、 きめ細やかな植栽計画をつくりました。 公園の上空を飛びかっているタカなどの大きな鳥類が、 地上の小動物をめがけて急降下してきます。 この植生構造こそ、 そういう小動物たちがすぐに逃げ込むことのできる安心な場所となっています。

 そういう植生を上手く使いながら、 ニューヨークのような都市における生物との共生がなされていました。 それは人間が森の動物と植物全体の生態系を分析しながらつくりあげてきた人工の構造なのです。

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写真5 三面張りになってしまった川(ドイツ)

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写真6 三面張りをはがしている

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写真7 生まれ変わった川
 近年のドイツでは、 環境共生という考え方はより積極的な形態として現れてきています。 ある郊外の住宅開発で三面張りのコンクリート側溝流れができたところ、 住民の間では殺風景で面白くないということになりました。 じゃあこうしようということで、 まず側溝をはずし始めるんです。 そして、 もとの原野の流れに戻していったわけです。 このように、 新しく生態系河川をつくり直していくことが盛んに行われています。

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写真8 生き物の産卵場所となるように置かれた枯れ木(ドイツ)
 さらに、 村の街角に写真8のように枯れた木をたくさん集め、 そのなかに生物の卵が産みつけられるような場所をつくっていこうということも行われています。 森をもう1回再生しようという、 森の生活というものに対するノスタルジーが、 このような都市ないしは郊外においても、 積極的に生物と共存する環境をつくる努力を生み出しているわけです。

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写真9 超高層ビル(東京)
 現在の東京では、 超高層のビルの足もとに江戸時代からの神社がぽつんと残っていたりします。 このような佃島の写真を見ると、 環境というものに対して全く無自覚な建設が公害のように乱立しはじめていることが良くわかります。 超高層という歴史の片鱗もない空間のなかに住んでいる人々は、 このような大地の自然とはなれた生活に満足しているのだろうかという問いは、 常に出てきます。

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写真10 江戸情緒を失った川(東京)
 かつて名所であった江戸の港や河川も、 コンクリート護岸や高速道路の高架によって江戸情緒がまったく失われてしまいました。

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写真11 雛流し
 私たちは豊かな水に囲まれた生活の中で、 豊作の祈りを込めた行事として雛流しなどの様々なイベントを行う文化を育んできました。

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写真12 農村風景
 現在、 こういう半世紀前の農村風景が残っているのでしょうか。 当時は、 遊び道具も近所の藪で採ってきた竹を使い、 麦わらなどすべての材料は農地から生み出されました。 こういう自然のなかで育まれてきた遊びや風景は、 今の子供たちにとってはもはや全く判らないでしょう。 このような、 生物と共存してきた日本の生活は、 現代社会では忘れ去られつつあるように思います。

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写真13 クレソンを摘む少女(軽井沢)
 写真13は現在の軽井沢での風景です。 クレソンが川沿いに自生しており、 女の子がハイキングの昼食の前にクレソンを摘んでいます。 このような風景を見ると、 単にマクロな規模で緑が多ければ良いということではなく、 われわれはより現在の生活実態にあったミクロなレベルからの緑ないしは自然との共存が可能ではないかと思うことがあります。

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写真14 季節感
 私たちは季節感を美しい植物の変容から感じることがあります。 庭を造るとか、 デザインする以前の問題として、 自然の変容というものに対する美意識は、 本来私たちの根底にあったようです。

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