イタリアの看板デザインには非常に細かい規制があるとのお話ですが、 そういった規制の内容は誰がどのように決めているのですか。
宗田:
60〜70年代は建築家がそういうことに関わっていました。 建築家が条例の骨子を作って、 市役所の担当者と協議して決めていました。
現在ではローマ市役所の中で分権化が行われていて、 歴史的市街地はローマ市役所の第1区になるのですが、 そこのアレード・ウルバーノ(都市デザイン委員会)で審査するという形になっています。
審議会メンバーには4つの分野の専門家がいて、 建築家協会、 建築士会に当たる職能団体、 イタリア・ノストラという保護団体、 学識経験者から構成されています。 ですから、 商業者の意見はそれほど聞いてないと言ってもいいでしょう。
ただ、 行政の審議会は形ばっかりで、 実際には第1区の都市デザイン担当官が図面を受け付けて審査しています。
二つお聞きしたいと思います。
一つ目は、 都市の裏側に関する話で、 マフィアが商業政策に関わりをもっているのならそんな話も聞きたいと思います。
宗田:
妥協がうまくいかないと、 解決をブラックな部分にまかせてしまうということもあります。 今まで、 そういう矛盾はマフィアが担ってきました。 マフィアも元々の発生は、 シチリアに多くいた不在地主と被支配者の間を取り持つ存在でした。 ですから矛盾を上手に調整していく技術は彼らの方が表側の世界の連中よりもうまいんです。 近代になって大資本と労働者、 大資本と小資本との間で対立が起きたとき、 弱者に無理がいかないような解決を提案していたらしいんです。 今でもローマの警備会社はたいていマフィアだと言われています。 「ウチの警備会社と契約しないか」と言われて店側が断ったら、 翌日何か盗まれている。 だから、 やっぱり契約しないといけないんだなという仕組みで動くのがイタリア社会です。
ただ、 注意しないといけないのは、 民主主義の進展や都市計画の試行錯誤で、 市民も妥協の仕方が実にうまくなってきたことです。 政治の世界も進歩して、 賄賂政治が浄化されてきました。 革新系の人がナポリ市長に就いたら、 とたんにナポリの街が良くなってきたのです。 マフィアに代わってオープンな席で商業調整をし、 都市計画のプロジェクトを進めるようになってから街もどんどん変わりました。 我々観光客が安心して歩けるようになるとは信じられないことです。
結局、 市民みんなが市街地を楽しく歩くことを望んでいたのであり、 それを止めていたものを、 政治家が調整する能力をようやく持ったということでしょう。 ですから、 マフィアに代わる合理的なシステムがイタリアの民主主義から生まれてきたことは、 非常に明るい傾向だと思います。
僕が最近イタリアに行ったとき、 イタリアでも携帯電話を持っている若い子をたくさん見ました。 イタリアもIT革命の波にのまれてしまうのだろうかと思ったのですが、 その辺はどう思われますか。
宗田:
イタリアは携帯電話がヨーロッパで2番目に普及している国です。 なぜそんなに普及しているかについて、 ニューズウイークはこんな分析をしています。 核家族化、 都市化が進んでいる現在、 従来の家族の絆はますます薄くなっているのですが、 イタリアではその切られた絆を携帯電話が埋めているというのです。 現に私も、 列車や飛行機の待ち時間にいい年をした紳士が「お母ちゃん、 元気?」と携帯電話で話しているのを何度も見ています。
そんなの家で電話すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、 家や職場では目の前の妻、 子供、 あるいは職場では仕事を優先しなくちゃいけません。 でも町中で出来る「すき間」の時間だったら、 今まで出来なかったコミュニケーションを気軽に取り返すことができる。 実に人間的なイタリア人らしい使い方だと思います。
社会が不健全になっていく中で、 イタリア人は自分のやり方で健全さを取り戻そうとしています。 その力は大きいものがあります。 インターネットカフェもあちこちに出来ていますが、 それらの新しい技術は決して新しい社会像を展開するだけでなく、 我々の一番失いたくないもの、 家族との絆や生き甲斐といったものをどん欲に取り戻す方向にも使われるだろうと思います。
人びとが都心に行きたいという理由も同じだと思うのですよ。 行きたいという理由は友達が欲しいからとかいろいろありますが、 その根底にあるのは核家族化です。 ヨーロッパでは独身が多いので、 土曜日でも家族と食事をすることがないと言われています。 そういう人たちがどこで人との接点を求めるか。 やはり町中なんです。 失った人との絆を町中で求めているのです。 ですから、 私はこれからの流行は現代人の寂しさを癒す方向で発展していくだろうと思っています。
もう一つ、 サインや規制があれほどまでに厳しいと、 一般の建築家は普段何をしているのだろうと気になりました。 どんな提案をしてものを作っているのでしょうか。
宗田:
これについては、 実際にイタリアで仕事をしている井口さんの方が詳しいと思いますが、 確かにあまりに規制が強すぎて欲求不満だとも言われています。 そのはけ口として、 墓のデザインに凝ったり建物の内側に奇抜なデザインをしてみたりしているようです。 そんなイタリアの建築事情から見ると、 日本はとても自由に見えます。 だから、 アルド・ロッシ(Aldo Rossi)はわざわざ日本に来てラブホテルの設計をして「とてもイタリアじゃ考えられないデザインだ」と大笑いすることにもなるのです。
つまり、 イタリアの都市では建築を作るという行為は百%建築家に任せることじゃないんです。 稲垣先生のお書きになったものを引用すると「ヨーロッパの都市の街並みは、 都市という容器の中で集団で生きていくことを強いられた人びとが、 主張をぶつけ合いながら妥協しつつ、 個性的に生きていく歴史の繰り返しの中で作られたのであった」ということで、 建築家は妥協を提案できる役割であって、 ただ自己主張してもダメなんです。
妥協という言葉も日本では誤解されやすいのですが、 イタリアでは肯定的な言葉なんです。 イタリア人の現実感覚から生まれており、 その時に選べる一番合理的な解決という意味でもあり、 イタリア人の妥協を受け入れる上手なやり方だろうと思います。
司会:
ではイタリアの建築家の実際の仕事ぶりについて、 井口さんからもお答え願います。
井口:
イタリアでの建築家の仕事はあまりないのではないかとのご指摘は、 ある一面でその通りです。 具体的には4つの仕事があります。
(1)計画だけの仕事がけっこうあります。 実際には建たないのだけれど、 計画だけは何度もするのです。 市の仕事ですと、 同じ地区の計画を何十年もしていることがあります。 プライベートな仕事でも、 簡単には建たないから何度でも計画しています。 おそらく我々だったら一回設計すれば建つ仕事を、 彼らは3回以上設計しているだろうと思います。 その都度設計料は払われますので、 それはそれなりに仕事になるのです。
(2)二つ目は設計への取り組み方と言えるでしょうか。 建築家の取り組み方にあると思いますが、 一見仕事をしていないように見えて実は奥の深いことをしているのです。 我々がちょっと見ただけでは分からないところで、 建築家は仕事をしているのです。
先ほどの宗田先生のお話にあったアッレード・ウルバーノあるいはテッスート・ウルバーノ、 つまり街のしつらえやテクスチャーに関係してくることです。 街のテクスチャーをどう読むかが建築家の大きな仕事であって、 そこから自分のデザインがスタートするのです。 ですから、 街をしっかり読んでしっかり計画することになるのですが、 そうすると出来上がったものはちょっと目には分からない。 街の中にとけ込んで何もデザインしてないようにすら見えます。 日本の建築家と違って、 やっても目立たないということはあるようです。
(3)三つ目は日本と同じような仕事です。 既存の市街地の周辺部に建てる新しい建築の仕事も、 機会は少ないですがあります。
(4)それで国内では欲求不満になっていく点もあり、 宗田先生のお話にあったように、 海外で好きなことをやるのが第4の仕事です。
建築資材と土木資材の会社をやっています。 先ほど道路の素材に石畳を使うという例が出ましたが、 イタリアの都市計画で建築や公園、 歩道に使う素材はどういう根拠で決められているのでしょうか。 石や煉瓦の方が流行しているからといった理由がありますか。
宗田:
吉野さんのご指摘のようにビア・コンドッティ通りのようなすでに人が大勢歩いているところと違って、 これから人を呼ぼうと熱心にまちづくりを考えているところは公共投資を考えているようです。 しかしその場合も厳密にコストを考えますので、 まず安い材料を選びます。 イタリアでは石が一番安いので、 道が石畳になることが多いんです。 ローマの地面を掘ると、 石畳の材料となるトラーバーチンの塊です。 ローマ石とも言われています。 フィレンツェでは大理石が豊富ですが、 石畳には近所から多く採れるグレーの石を使っています。 南部の方では石よりはテラコッタの方が安くなる所もあります。
問題は、 石畳がアスファルトに比べて消耗が早いことです。 5〜7年ごとに丁寧なメンテナンスが必要なので、 道路は消耗品という捉え方をしています。 こういうこともコストを下げる理由になっています。 リサイクルを考えると、 歩道はテラコッタの方がいいと言われているらしいのですが。
日本では道に関してはすごくお金をかけています。 わざわざイタリアから石を買ってきて道に貼り付けたりしているのを、 イタリア人は大笑いしています。 イタリアでは絶対出てこない発想なんですよ。 地元で採れる一番安い石を使うのが当たり前で、 材料にはこだわらずにデザインで勝負するというのがイタリアの姿勢です。
私も94年から1年間イタリアに住んでいたことがあります。 宗田先生のお話でイタリアを懐かしく思い出したのですが、 素朴な質問をひとつうかがいたいと思います。
イタリア人は自分の人生や生活を追いかけることはどん欲なのに、 ストイックで厳しい規制を街にかけることとどうリンクするんだろうと不思議に思います。 あの人達は、 いろんな規制や原則があってもほとんど守らないでしょう? いろんな裏口があることは僕も実感したことがあります。 それなのに、 街の規制に関しては守っているという力は何なんでしょう。 ペナルティが怖いからではないと思うのですが。
また、 街には貼紙も多いのですが、 これは規制とは関係ないのでしょうか。
宗田:
貼紙に関して言うと、 イタリアはじめヨーロッパの国々にはポスター文化があります。 イタリアでも公式の掲示板は町のあちこちにあって、 これは厳しく管理されています。 すしかし、 ゲリラ的なポスターは規制できません。 路上営業にもゲリラが多くいます。 普通のポスター・看板、 あるいは路上営業には、 当然厳しい規制があります。
前半のご質問のイタリア人気質についてですが、 イタリア人の都市計画の先生だったら多分「イタリアはローマ法を作った国だ。 世界で初めて成文法を作り、 市民法として定着させた。 生活の豊かさを求める一方で、 法律も発展させた」と言うでしょう。
民法と公法を作って、 個人と公に分けたのがローマ法の重要なポイントですが、 二千年間、 それで生きてきたという自負があるんです。 たかだか百年かそこらで法律を整備させてきた国とは違うというわけです。 世界的に見てもイタリアは都市計画法が一番発達しています。
守らない奴が多いからだという説もありますから複雑ですが、 罰則はご指摘のように主眼ではありません。 罰則は野蛮人の好きな法律で、 罰則を付けなくても守られるのがよい法律だ。 そういう良い法律を作るよう努力を続ければいい。 為政者が法を定めれば、 法はよく守らない者が悪いとなります。 しかし、 市民が主体的に法をつくるとなれば、 みなが守れる合理的な取り決めとしての法律を作り続けていくためには、 たいへんな努力が必要になる。 こんなことをイタリア人は言うと思います。
そのぐらい法律に関しては彼らは体系を持っていますし、 今世紀に入ってからはファシズムの法律、 資本主義の法律、 社会主義的な法律が矛盾しながらも存在した国です。 法律の故郷であり、 民主主義の故郷でもある。 今も民主主義の発展とともに、 市民のための法律を発展させ続けているという見方をすれば、 イタリア人の気質も納得できるのではないでしょうか。
質疑
規制は誰が決めているのか
難波(兵庫県):
商業調整とマフィア
近藤(PPI計画設計研究所):
IT革命でイタリアは変わるか
近藤:
イタリアの建築家について
近藤:
建築や土木資材はどんな基準で決めているか
橋長(興禄建設工業):
イタリア人気質と
岸田(竹中工務店):
厳しい規制の折り合いの付け方は?
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