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町家の俯瞰/高倉通り・亀甲屋町(Y. Ueno)
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京都の建築のあり方、 緑のあり方を考えるスタートとして、 まずこのような町並みを見てみることにします。 こういう伝統的な町並みのあり方と緑のあり方を考えることがスタートラインだと思います。
京都の町並みは、 細かいエレメントの集合体として形成されています。 エレメントとエレメントの間にすき間があり、 そのすき間が外気と触れる形になっていて、 それによって空気の流通も確保されています。 一方、 そのすき間に緑が入ってくることによって、 町全体で多孔質な空間が形成され、 多孔質なすき間があるが故に町の中に緑が存在しているという形です。
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町家の中庭(出典『京の町家考』京都新聞社)
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これは町家の断面図です。 そこの中庭への日照の働きを説明している図です。 町家の中庭は、 建物や塀に囲まれたクールスポットです。 クールスポットと建物間の空気の流れによって、 微妙な空気が流れるようなシステムになっています。 このクールスポットを作るために路地があったり植栽を植えたりしてあるのですが、 それはいずれも空間を冷やすための工夫になっています。
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中東の建築(出典『図説都市の世界史2 中世』相模書房)
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こちらの図は中東の建築ですが、 ここにも京都の町家と同じように中庭が作られており、 中庭がクールスポットの役割を果たし、 家に風を呼び込むシステムになっています。
しかし、 今京都でたくさん建てられているマンションなどは、 こうした夏に対する配慮が全然なく、 室内の気候調節は全てエアコンなどの機械任せになっています。 ですから、 町の中に負荷が全部出ていく作りになっていて、 悪循環に陥っています。 そんな状況から脱出するためにも、 機械ではなく自然換気や緑を取り入れてクールスポットを作っていた伝統的な技術を再評価し、 新しい建物に取り入れていく必要があると考えます。
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町家の中庭・山本家(水野克比古/出典『京の坪庭』光村推古書院)
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これは『京の坪庭』という本に掲載されていた写真で、 町家の中庭の一例です。 町家の中庭には緑があり、 打ち水をすることでクールスポットを作ってきたのですが、 その中庭と部屋との間が一体化することで空気の流れが発生する構造になっていました。
では、 こういう家の内側にある緑が集積して町全体にどんな影響を与えていたかについては、 私も不勉強であり、 まだはっきりしたことは言えません。 もっぱら内向きのシステムとして、 中庭は評価されてきたように思います。 都市構造として、 また景観的にどんな働きをしてきたか、 私も知りたいところです。
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五条橋(都名所図絵・竹原春潮斎/出典『都名所図会を読む』東京堂出版)
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これは江戸時代後期(1780年)に描かれた『都名所図会』の中の五条橋です。 この『都名所図会』が出版される80年ほど前に、 京都は宝永の大火(1708)に見舞われ市街地の大半を焼失してしまったのですが、 この時代にはかなり復興してきた頃だろうと推測されます。
五条橋から寺町通りにいたる町を見ると、 中庭の木が高く育って建物の棟の上に出ている様子が分かります。 現代の総二階で建てられている町家ではなく、 この頃の町家は中二階で現代の町並みより低いため、 中庭に喬木を植えると、 棟より高く育つことになります。
この頃の町全体を見ると家並みの上に緑が雲のようにたなびいている光景が見えたんじゃないでしょうか。 それがこの頃の京都の基本的な景色だったと私は推測しています。 そうした町並みの中に、 社寺や公家屋敷、 武家屋敷がモザイク状に点在していて、 そこにはかなりの量の緑があったと思います。
このような個々の土地利用から出てくる緑が全体の景観を作っていたことを考えると、 京都の街はかなりソフトな景観だったと推測するのですが、 その推測がこれからのあり方のヒントになりそうです。 このような町のあり方をもう一度再評価し、 目標とするべきだと私は考えています。
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本覚寺(都名所図会・竹原春潮斎/出典『今昔都名所図会』京都書院)
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同じく『都名所図会』に収められている本覚寺の様子です。 分かりにくい絵ですが、 町家の緑が続き、 社寺にまとまった緑が見られる点は同じです。
この絵を選んだのは、 竹藪がふんだんに描かれているからです。 先ほど御土居に竹藪があったことに触れましたが、 この頃は市街地にも竹林が存在していたと思われます。
時代はもっと後になりますが、 大正時代に芥川龍之介が『京都』という短編を著しており、 そのなかに「竹」という作品があります。 芥川龍之介が人力車に乗って宿へ帰る途中、 道に迷い、 人気のない竹藪に出てしまうんです。 随分と辺鄙な場所に来てしまったと思った龍之介は、 車夫に「四条あたりのにぎやかな場所にやってくれ」と言うのですが、 「ここは四条のすぐ近くだ」と言われ、 あらためて見回すとそこは建仁寺のすぐ近くだったという話です。 「闇を払う竹藪と陽気な祇園という色町」とが顔をつきあわせているような街のあり方に驚いたと龍之介は書いています。
またそれに続いて「京都界隈はどこへ行っても竹藪がある」と書いており、 「一つ家並みを外れたと思ふと、 すぐ竹薮が出現する。 と思ふと忽ち町になる」と表現しています。 岩波書店から出ている芥川龍之介全集第3巻に収められている短編ですので、 興味のある方は読んで下さい。
つまり、 大正になっても町中にはモザイク状になった江戸時代からの緑の有り様がまだ続いていたのだと推測できます。
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丸太町通り熊野神社道西入(明治44年9月/出典『写真で見る京都今昔』新潮社)
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これは明治44年9月の丸太町通りです。 向こう側が東山です。 どういう土地利用でこの樹木があるのかは分からないのですが、 ずっと続いている町並みを分節する形で、 家の前に何本か木が立っています。
写真の土地は鴨川の東になり、 幕末の「蛤御門の大火」の被害に遭っていない地域なので昔からの大木が残ったと思われます。 もちろん京都の町並み全体が昔はこのようだったと言うつもりはありませんが、 こんな大木が町中に点在していて、 普通にこんな緑が見えるのが京都の景観の原型だったと思います。 つまり、 この写真はバランスが良かった時代の姿の一例と言えるのではないでしょうか。
例えこの写真が特殊解であったとしても、 これから我々が考えるべき京都の町のターゲットにしたいと私は思っています。
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町家俯瞰(符川寛/出典『京の民家』淡光新社)
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この写真はもっと時代が下がって、 戦後の光景です。 それぞれの町家の中庭の緑が連担して入る様子を、 中村一先生は
「松林が続いているように見えた」と書いておられます。 どこの家でも中庭がほぼ同じような位置だったことによって、 松林のように見えたのでしょう。
江戸時代の図会から推測すると、 ある時代にはもっと大きな木が連なって見える街ではなかったかと私は思っています。 緑の存在が、 京都の町家のシステムをうまく動かしてきたエレメントの一つだったのでしょう。
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中京俯瞰・瓦之町鍵屋町・瓦町杉屋町(石原正/出典『京都絵図2』バーズアイ)
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1980年代初期の京都の景色です。 この頃になると市街地にかなりビルが建ってきていますが、 多孔質ですき間の多い空間にエレメントとして緑がまだまだ集積しています。 ただ内側にある緑だけでなく、 外にも中にもバランス良く緑があるのが本来の町の姿ではないかと私は考えています。 道が生活空間である限り、 無味乾燥なコンクリート空間としての道路にしておいて良いとは思えません。 やはり、 道路は道路なりに人が生活する上で必要な快適さは不可欠だろうと思いますし、 そんな空間を作るのが私の目標の一つです。
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河合納涼(都林泉名勝絵図/出典『都名所図会を読む』東京堂出版)
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京都における伝統的な緑と建築のあり方を考えていくと、 都名所図会のように緑の天蓋が家並みの上にある、 言い方を変えると緑の海に沈んでいる町が、 日本の風土の中ではあるべき町の姿ではないかと思えてきます。
この絵は『都林泉名勝絵図』に描かれた下鴨神社です。 鳥居と社殿との関係を見ると、 この絵は賀茂川ではなく高野川の景色のようです。 このように、 緑の天蓋がありその下に人々の賑わいがある空間が、 人びとが理想とする町の一つのプロトタイプとして考えられるんじゃないでしょうか。
これからの京都の町並みを考えていくときは、 通り側に賑わい空間を担保していくのと同時に、 それに相当する緑を考えていく必要があると思います。 都市空間を高密度に使っていかなければならないのならば、 建築自体がこうしたものを取り込めるように考えていくのも一つの方法ではないかと思っています。
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洛中洛外図(舟木本/出典『洛中洛外図 平凡社ギャラリー15』平凡社)
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江戸初期に描かれた洛中洛外の屏風絵です。 ここに見られるように、 囲み型の町家の中には家よりも高く育った樹木があります。 この絵の町家は平屋ですから、 建物の中にこんもりと茂った樹木が見えます。
このような景観を建築として作っていくことができないかと、 私は考えています。 これがこれからの京都の町並みを考えていく上での目標にならないでしょうか。 通り側は今までの空間秩序を保ち、 内側は高密度な利用でありつつも緑を担保する土地利用を考えたい。 そのためには、 緑を取り込むことを建築の目標にする考え方が必然的に出てくるように思います。
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