まちを必要としなくても生きていける。 それくらい一人ひとりの生活が別の形で完結して成立しているわけです。 まちという言葉をコミュニティという言葉に置き換えてもよいのかもしれません。 かつてはコミュニティはあったけれども、 プライバシーがなかったというところから、 どうやってそこから脱却しようかとずっとやってきた結果が、 今やプライバシーはあるけれどコミュニティがないという時代に来ているということを今強く感じています。
たまたま京都で仕事をする機会がありそうなんですが、 そこの個人の屋敷に一本の大きな楠がありました。 それはずっとみんなが町並みの記憶として見続けているんだけれども、 塀から上の所しか見えてなかったという所に、 たまたまマンションを建てる機会がありそうなんです。
僕はそれを聞いた時に、 塀から上だけ見えていた楠をみんなが根元まで見えるようにしようと考えました。 しかも見えるだけでなく根元のところまで行けるようにしようという具合に、 その木を一つの手がかりにして、 まちの歴史の連続、 あるいは個人の生活とまちとの関わりをつくっていこうということを思ったりしているんです。
何かそういうちょっとしたきっかけでもって、 まちを必要としていない発想の生活を「やはりまちはなければならないんだ」とか、 「自分の生活と関わらなければいけないんだ」というところを感じるような、 そういうテーマとして緑が捉えられるようになったらどうかなと考えています。
そのためには維持管理していくシステムをきちんと持つこと。 ではそのシステムとはいったい何かというと、 人がいて、 お金があって、 しかも志がなければならない。 そうした事をセットにしたシステムを持ちながら、 これから緑と建築の関係を作って行かねばならないのかなと今思っています。
コミュニティを再構築する手がかりとしての緑
安原 秀
まちが必要とされない時代
やはり緑は、 ずっと長い間にDNAの中に刷り込まれた要素として、 人間にとって大きな力をもつものであり、 安心させる要因であるということを、 今日もあらためて感じました。 そのことを大事にするが故の議論だと思うのですが、 一般的に考えた時に、 一人ひとりの人間が今、 まちを必要としなくなっていることが、 一番大きな問題ではないかと思います。 それがまちの荒廃に繋がっていると思います。個々の小さな所から
そのことをテーマにしながら、 なくてもいいのか、 いや、 なければならないんだというような方向で問題を組み立てていきたいと思っています。 そういう意味で緑を考えた時に、 誰が緑を欲っしていて、 誰が緑をきちんと手入れしながら維持していくのかというところで、 やはり個々の小さい所で物事を解決しながらやっていかなければいけないのではないかという問題提起には、 僕は非常に共感をおぼえました。都市の中の緑というもの
それからもう一つの問題として、 郊外でやるならばとにかく木を植えておけば最後は自然がなんとかしてくれます。 いつかは森になるだろうというようなものですが、 都市の中の緑を考えた時に、 それなりに抑制をきかせて緑を扱って行かねばならないのではないかと僕は思っています。
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