「都市構造・建築様式・コミュニティ・緑と水の生活文化が有機的に結びついていたのがかつての京都の町並みであり、 そのような在り方が私たちの求めている“緑としての建築”の究極の姿なのだ」。
「崩れてしまった京都の町並みとコミュニティを再構築する中で“緑としての建築”が立ち現れてくる可能性がある」。
京都では、 伝統的な町衆の共同体が疲弊し崩壊しつつあり、 近代的な市民の共同体も未成熟であり独自の文化をもたない。 このままでは「伝統」と「近代」が対立する前に共倒れしてしまうだろう。
両者の交流の中から新たな生活文化を創出することが、 この都市が生き残り、 風景とコミュニティが再生するための第一歩であると、 私は考えるが、 その成否は両者が「閉ざされた」文化から抜け出し「開かれた」交流の場を育てていくことに懸かっている。
街路はその舞台として重要な役割を果たすであろう。 そして何よりも街路が“生命感あふれる快適さ”を持つことが、 人々が再び通りに集い、 コミュニティ文化が再生するための必要条件である。
新しいコミュニティは「伝統vs近代」という図式を超えて、 新しい風景を生み出すだろう。
そこに向けて、 私たちは“緑としての建築”のイメージを発信したい。
それは都市環境に潤いと生命感をもたらす。 街中に緑の山ができ、 キノコが生え、 京野菜が栽培され、 草花が朝露に濡れ、 鳥が訪れて種を落とす、 そんな風景も実現不可能ではない。
五感で感じることのできる豊かな都市環境が、 京都の風土にはふさわしいのである。
当初は、 建築と緑の関係に議論が集中して「なぜ京都なのか」という問題意識は希薄であったが、 やがて「伝統的な町並みに緑は似合わないのではないか」「京都の緑は坪庭のように“内なる緑”である。 それを反転して表に出すにはそれなりの理由が要る。 屋上緑化なら分かるが、 壁面緑化はやり過ぎではないか」という意見が出だした。
これは、 建築と緑の関係は単に一つの敷地の中で完結するのではなく、 町並みやコミュニティ文化の総体と向き合わなければ解決できないよ、 という示唆である。
それは十分に分かっているつもりであったが、 京都や町家の歴史の重みをを考えれば、 そう簡単に解ける問題ではない。
また、 京都自体、 次々とマンションが建ち伝統的な町並みが壊れていき、 伝統産業が衰退し、 都心部の人口が高齢化していく、 つまり古いコミュニティが崩壊していくという問題を抱えており、 一方で若い世代の街づくりが着実に芽を伸ばしつつあるという状況にある。
現実の事業とはリンクさせないケーススタディとはいっても、 いや、 むしろそうであればこそ「なぜ京都なのか」は避けて通れない奥深い問いかけとなった。
そして、 スタディが進むにつれて「なぜ京都なのか」を超えて、 「京都でなければ到達できない“緑としての建築”」という“奥行き”が見えてきたのである。
それは端的に言うと、 「都市構造・建築様式・コミュニティ・緑と水の生活文化が有機的に結びついていたのがかつての京都の町並みであり、 そのような在り方が私たちの求めている“緑としての建築”の究極の姿なのだ」ということである。
そして、 大胆に言ってしまうと「崩れてしまった京都の町並みとコミュニティを再構築する中で“緑としての建築”が立ち現れてくるのではないか」ということになる。
今、 京都では新旧住民の交流が街づくりの課題として浮上しつつある。
伝統的なコミュニティは疲弊し、 新しい住民のコミュニティはまだまだ未成熟である。
両者は同じ町に住みながら、 お互いがどういう人間なのかも分からないのである。
マンションの景観問題は「住民vs開発業者」という内と外の対立構造であるが、 今後は新旧住民どうしの内なる矛盾に眼を向け、 新しいコミュニティの形を模索しなければならない。
京都の歴史が語るように、 新しいコミュニティは新しい風景を生み出す。 そこに“緑としての建築”が立ち上がる契機がある。
社寺や貴族の家が瓦屋根で塀に囲まれた中にあるのに対して、 庶民の家々は板屋根で四方の通りに面して建っている。 これらは“ミセ”であって通りの往来と密接に結びついた生業が営まれていた。 (このような構成を「四面町」と呼ぶ)
この背景には、 「町家が単なる売買施設から、 そこに居住するという機能を併せ持つ複合的な建築として成立」し、 (祭りの行列を見るための桟敷が通りに面して作られ)「屋敷地の中に家を建てると言う在り方から、 道に面して住まいを建てるというような在り方に徐々に都市の景観が変わって」いったという事情がある。 「このように、 町家というのは、 あるいは庶民の家というのは、 道と非常に深い関係がある」(高橋康夫)
そして、 町家に四角く囲まれた中に雑木林のような緑がある。 その緑は街区内部の共同の中庭であった。
「街路がハレの空間だとすれば、 共同の中庭はケの空間であるともいえる」のであるが「次の段階では、 個々の町家が共同の庭に侵入していき最終的には内側を埋めつくしてしまう。 これは四面町の崩壊であると同時に、 一つの街路をはさんでつくられる両側町の誕生のきっかけとなる。 ここで各町家の敷地は私的な占有物となる」
前栽(せんざい)と呼ばれる緑は「町家の中に囲い込まれた微小空間」となり、 「自分の家だけの空地として、 たんねんに育て上げられ」「今日でもなお、 京の原風景的魅力の一つとして生きつづけ、 底光りしているのである」(中村 一)
町割(都市構造、 コミュニティ)・町家(建築)・坪庭(緑)が有機的に結びつきつつ、 変容していく様を引用によってまとめてみた。
坪庭はお茶の文化や「市中の山居」と呼ばれる美意識と深く結びつき独自の発展を遂げるのだが、 俯瞰的に捉えるならば都市やコミュニティの構造と密接の結びつき、 生活文化を表出する緑であったことが解る。
まず、 「町家とは、 小屋と桟敷と店屋の機能をあわせもち、 道に面して立地する特異な複合建築」であり、 「小屋というのは庶民の住居」で「桟敷は道路で行われる様々な行列・出来事を見る機能」を持ち「店屋は商いをする所・生業を営む所」である。
そして内部には「通り庭」と呼ばれる土間の通路のある「道を内包した変わった住居」なのだ。 (高橋康夫)
通りと内部は格子一枚で隔てられている。 今日私達は、 様々に洗練された美しいデザインの格子を見ることができるが、 これはもともと応仁の乱以降、 市中の治安が悪化したことによってつくられた防御施設であり「守りのスタイル」である。
さらに四辻には木戸門がつくられ門番が不寝番をしていたが、 これもひと回り大きな「守りのスタイル」である。
今日、 京都の人々がマンション開発に対して粘り強い抵抗を展開するのも、 「守りのスタイル」が遺伝子として受け継がれているからだとさえ思われる。
さて、 格子一枚で隔てられた内部は通りと親密であると同時に、 様々な軋轢や緊張感に満ちていたのではないかと想像される。
その緊張から解放されるために、 人々は町家の奥へ奥へといろいろと複雑な空間を生み出していき、 ついには自然の中での孤独を楽しむような境地を作り出してしまった。
これが「市中の山居」と呼ばれるライフスタイルで、 出家者や隠遁者の住まいをイメージした茶室が作られたりした。
茶室に限らず町家には坪庭に面した、 あるいは坪庭に囲まれた部屋があり、 そこにいると微かな風が吹いたり、 緑の匂い、 露のみずみずしさを感じたりする。 まさに「山の中のたたずまい」である。
坪庭の緑は日光を遮蔽し、 打ち水をすると冷気の溜まり場ができる。 冷気は庭の間の圧力差によって、 室内を静かに往復し、 さわやかな涼感を生むのだといわれている。
また、 鴨川に面した山紫水明処(頼山陽という学者の離れ)では「降り井」という井戸がある。 2メートルほどの大きな井戸に降りると、 ひんやりとした空気が漂い、 その水でお茶を立てるそうだ。
耐えがたい夏の気候や密集した都市居住の煩わしさを「快適の美学」へと転化したのが「市中の山居」であり、 建築と緑の複合的な文化がそのイメージに乗って広まり、 遺伝子治療のように都市環境を変質させていったのである。
ところで「市中の山居」とは何とも魅力的に響く言葉ではないか。
最近、 「都市の中に自然を復元するビオトープは、 自然を重視するあまり都市生活の快適性を無視した迷惑施設になりかねない」という意見をよく耳にするが、 “緑としての建築”も程度の差こそあれ、 「お化け屋敷みたい」と敬遠される、 あるいは落葉や昆虫に対する苦情が出ること予想される。
いずれにせよ本気でホレこんで管理をする人間がいないことには成り立たない仕組みである。
“緑としての建築”がこれらの課題を乗り越え、 現代の生活者に受け入れられ、 都市環境を改善するまでに普及するには、 「市中の山居」のように苦を楽に転化する智恵がなければならない。
クーラーが普及し、 もはや坪庭からの微かな風では物足りなくなったためであろうか。 あるいは、 通り(外部)との親密さや緊張関係が薄くなるにつれて、 「市中の山居」という内なる楽園を維持するエネルギーが失われてきたからであろうか。
結果として私達の見えないところで緑が失われて、 昔は街中でも聞かれたウグイスのさえずりも失われてしまったという。
町家というスタイルが通りとの密接な関係によって形成されてきたことは先に述べたが、 通りがアスファルトで覆われ、 車がどんどん進入してくることで関係が断ち切られ、 コミュニティの拠り所が消えていった。
格子戸がアルミサッシに変わり、 壁際にへばりつくように樹木を植えることで、 町家と通りとの関係は閉ざされ、 確かに町並みは崩れていくが、 これは「守りのスタイル」が崩壊した後に、 車の通行などの外部圧力に対して個人がギリギリの抵抗をしているようにも見える。
「道というのは、 水を汲んだり、 物を洗ったり、 洗濯をしたり、 物を干したりというような、 生活の場そのものであったわけで」「現代のように、 通行機能というふうな、 単純な機能に特定しているのではなくて、 非常に豊な生活の場になってい」たのである。
「町家というものは、 個別の敷地の中だけで住生活が完結」せず、 「共同で井戸を作る、 あるいは“物洗いの石”を置くなどの、 共同的な助け合いの下で初めて暮らしが成り立つようなあり方をしていた」のである(高橋康夫)。
車の問題だけではなく生活の様々なシーンが個別化し、 通りに出なくても事が足りるようになったこと。 それは共同的な助け合いから個人の自立への(近代化の)プロセスかもしれないが、 生活の近代化全般が両側町を成り立たせてきた街路文化を衰退させたという側面もあろう。
新たな市民的連帯が生まれることなく、 個人がバラバラに「閉じている」のが現在の状況なのではないか。 だからと言って「水道や洗濯機の私有を禁止し、 共同に戻せ」というのはあまりにも馬鹿げた逆行である。
しかし「生活街区への車の進入を制限し、 街路を広場のような交流の場にしよう」と言えば、 非常に今日的で多くの共感を呼ぶテーマである。
例えば、 木戸門ならぬ電子通信的な制御システムでかなり高度な交通規制が可能となり、 地域に不要な通過交通を締め出すことができるだろう。
そして何よりも“生命感あふれる快適さ”を持つことで、 人々が再び通りに集い、 街路文化が再生する可能性が生まれる。
「閉ざす」(守りのスタイル)と「開く」の新たな図式が求められているともいえる。
(昨年度の「歩いて暮らせる街づくり」事業では、 通りから車を締め出し町家を開放して伝統産業の現場を体験するなど様々なイベント=社会検証が行われた)。
また日本人のライフスタイルが変わったことによる伝統産業(和装産業など)の弱体化も町に活気が無くなった一つの原因である。
伝統産業の生き残りの手段として、 新たな付加価値を生むデザインを開発するとともに、 町全体を名所化し、 そこで生まれる商品をより高度なブランドにしよう、 卸専門の問屋が店を開放し消費者と直接対面しよう、 という動きがある。
そのためには、 町並みの修景保存・通過交通の締め出しなどにより、 世界中の人々が憧れて訪れるような通りの整備とそのネットワークが必要である。
これらに並行して、 伝統産業の人々が代々受け継いできた図案やデザインセンスを公共的な機関に登録し、 インターネットで発信しようという試みがある。
この試みには「デザインが盗まれる」「代々受け継いできた家宝であるデザインを手放すわけにいかない」という反対意見が多いと聞く。
ここでも「閉ざす(守る)」と「開く」の新たな図式が模索されている。
「京都の都心のマンションでは、 住戸は都市に対してほとんど接点を持っていません。 住戸と都市の間には、 閉鎖的な共用部分があり、 共用玄関はしばしばオートロックで閉じられています。 一方、 集合住宅の廊下や階段が都市の道のような多様な役割を果たしている訳でもありません。 要するに、 これまでのような設計の集合住宅の増加は、 家と道、 家と町との関係の希薄化を促していると考えられるのです。 マンションの問題をとかく景観の問題と捉えがちでありますが、 私はむしろ空間構造の問題を重視したいと思います」(高田光雄)。
ここでも「閉ざす」と「開く」の新たな図式が求められているのである。
生活様式の近代化によって、 両側町の伝統的なコミュニティ文化はその役割を終え、 町家や町内会組織の“形”が辛うじて残っていると言える。
一方、 近代的なコミュニティは未成熟で独自の文化(アイデンティティ)を持たない。 このままでは「伝統」と「近代」は対立する前に、 共に衰退してしまうだろう。
両者の交流の中から新たな生活文化を創出することが、 この都市が生き残り、 風景とコミュニティが再生するための第一歩であると、 私は考えるが、 その成否は両者が「閉ざされた」文化から抜け出し自立し「開かれた」個人として交流する場を持てるかに懸かっている。
街路はその舞台として重要な役割を果たすであろう。 そして何よりも街路が“生命感あふれる快適さ”を持つことが、 人々が再び通りに集い、 コミュニティ文化が再生するための必要条件である。
このような流れの中で、 坪庭の「内なる緑」は“緑としての建築”へと生まれ変わり、 街に開かれていくのではないか。
残念ながらそこまで解像度の高い写真はなかったが、 航空写真見て気付いたのは、 町家の瓦屋根の連続が「多孔質」な質感に見えることである。
多孔質な表面構造は、 雨をまとわせ大地に浸透させ、 町の潤いとなる。 表面積が大きく大気との熱交換が盛んである。 さらには陰影があることで温度差ができ、 空気の対流を生むのかもしれない。 鳥が運んだ植物の種をこっそりと宿す隙間もありそうだ。
反面、 ビルの屋上はのっぺりした画一的な表面でいかにも乾燥しており、 同じことは社寺や公園の樹林と学校のグランドや駐車場との対比でも言える。
このような地表の構造の違いが京都の風土を変えていく、 といえば大げさかもしれないが、 水循環の構造変化が見えないところで始まり、 「水と緑の生活文化」にも影響が現れるであろう。
私はそれを「屏風絵のような土塀」と呼んでいる。 目には見えないが水の存在を肌で感じることができ、 植物や動物も自然にやってくるのである。
一方、 私の住むマンションの外構はコンクリート塀に土色のモルタルを塗った「土塀もどき」で、 いかにも乾いた質感である。 塀際に植えられたナツツバキが枯れてしまったが、 夏場にコンクリートが熱を貯めるので植物にはありがたくない環境である。
建築デザイナーは「町並みに調和させよう」「いかにも京都らしいマンションを作ろう」と意図したのであろうが、 土塀を視覚的にマネただけでは本当に豊な環境を作ることはできない。
土塀と「土塀もどき」のコンクリート塀。
前者には五感で感じる“潤い”があるが、 後者にはそれが無い。
前者には“生命感”があるが、 後者にはそれが無い。
このようなカラクリに人々が気付いたときに、 風土や環境の構造から発想するような本物の素材、 本物の建築を欲するようになるだろう。
五感で感じることのできる豊かな都市環境が、 京都の風土にはふさわしいのである。
“緑としての建築”は植物という「生きた」素材を構成要素とした「無機的、 機械的な系と有機的、 生物的な系の複合体」であり、 人と他の生き物が一緒に暮らすことの出来る「器」である。
「都市の中に緑の山ができ、 キノコが生え、 京野菜が栽培され、 草花が朝露に濡れ、 鳥が訪れて種を落とす」。
人々が望むのならば、 そんな風景すら実現不可能ではないことを、 私たちは提示していかなければならない。 それが都市環境の「遺伝子治療」の始まりである。
新しいコミュニティには、 それにふさわしい風景が半ば自然発生的に表出されてくるであろうし、 新たな風景の創造が住民交流のテーマとなるかもしれない。
“緑としての建築”はそのような風景の一つとして、 大きな可能性を持っている。
今回のセミナーを通じて、 そのことを検証してみたい。
論旨 − 京都の再生に向けて
1。 なぜ京都なのか
8月のセミナーに向けて、 “緑としての建築”というコンセプトに肉付けをしなければならないと、 私たちが考えていた時期に“偶然”京都で進行中のある建築プロジェクトをベースにケーススタディを行う機会が提供される事となった。
2。 都市と緑の変容
祇園祭礼図(大阪市立博物館所蔵) 四面町の様子(出典:「洛中洛外図の世界」京都府総合資料館刊)
一枚の屏風絵がある。 「祇園祭礼図」と題されたその絵を見ると、 当時(桃山時代?)の町並みと緑の関係が俯瞰的に描かれている。 神社や仏閣にも緑はあるが、 今私たちの興味を引くのは掘建て小屋のような庶民の家に囲まれた緑である。
3。 水と緑の生活文化
ここで町家の内部に視点を移し、 その暮らしぶりに焦点を当ててみたい。
4。 街路文化の衰弱と再生(「閉ざす」と「開く」)
ひるがえって今日の京都に眼を向ければ、 プラスチックの波板をかけたり、 物干し台や部屋を増設したりして、 坪庭が「閉ざされている」光景に出会う。
伝統的図案を生かした行灯 21世紀を迎えるイベント
一方、 新たな住まい手の方はどうかというと。
5。 潤いと生命感あふれる快適都市へ
航空写真 町家とビル(出典:「京都 わが山河」京都新聞社刊)
町家の坪庭がどれだけ残っているかを知りたくて、 航空写真を手にした。
シダの生える土塀
街中でちょっと崩れて風情のある土塀に出会うことがある。 土と瓦が交互に積まれていたり、 隙間にシダが生えていたりする。 土が適度に雨を含み、 その潤いが植物を着生させるのだ。 土塀の内外にも様々な植物が植えられ、 季節ごとに花を咲かせる。
参考文献
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「京の町家考」 高田光雄、 高橋康夫、 谷 直樹、 廣川美子ほか(京都新聞社1995年)
「京の原風景」 中村 一ほか(学芸出版社 年)
「風景をつくる」中村 一、 尼崎博正(昭和堂2001年)
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