大阪における集合住宅形成史
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1 現在の集合住宅概略

 

立地時期別「マンション」立地

 みなさんもお気づきだと思いますが、 大阪の市街地に事業所や工場跡地などの空き地があると、 次から次へと集合住宅が建ち上がっています。

 では大阪の集合住宅はどのような所に立地しているのでしょうか。

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図01 調査地域の市街地タイプ図
 集合住宅の立地を見ていくために、 大阪を横断する地域を抜き取って調査対象地域を10の地区に分けました。 真ん中の7が船場にあたります。 ここは、 明治20年以前から市街化していた地域です。 西区の5、 6の部分も古くから市街化していたのですが、 土地区画整理が戦後に行われました。

 船場は中世からの市街地でその町割りを残していて綺麗に見えるのですが、 近代的な都市計画をしていないため「未整備地区」とされています。 同じ未整備地区とよばれる地区にはスプロール地域もはいります。 戦前の土地区画整理地区や耕地整理地区、 土地会社経営地区などが船場を中心とした同心円上に並んでいます。 それらの地区で集合住宅の立地状況を調べました。

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図02 立地時期別「マンション」立地
 地区1、 2、 3が港区、 4、 5、 6が西区、 7、 8が昔の東区、 現在の中央区、 9、10が東成区になります。 マンション立地が一番少ない7が船場です。

 調査対象地域全域では2700棟の集合住宅がありました。 ここで言う集合住宅とは、 3階以上・耐火構造の複数の住宅のはいっている建物のことです。

 1970年代以前はどの地域でも集合住宅はたいした数ではなく、 港区、 東成区、 谷町筋あたりに見られる程度でした。 1970年代に入っても、 この3地区で少しずつ見られる程度です。

 急激に増えるのは1980年代に入ってからです。 西区と東区の東側が一番多いのですが、 このあたりで分譲の集合住宅が立地し始めるのです。

 なぜこんな動きになるかというと、 1970年に建築基準法が改正され、 それまでの高さ制限が撤廃されて容積率という制限に変わったことが関係しています。 また、 住宅金融公庫の個人向け融資もその頃に確立されています。 それを受けて、 東京では1970年代に分譲の集合住宅が急増するのですが、 大阪では1980年代にその波がやってきたというわけです。

 みなさんがイメージする集合住宅は、 おそらくバルコニーが建物の回りを回っているタイプだと思うのですが、 それも1980年代に作られた集合住宅の形です。 この頃作られた集合住宅が、 大阪の集合住宅の半数を占めています。

 1990年代に入ると、 東成区(地区9、 10)で多くの集合住宅が建てられました。 地区10は戦前の土地区画整理が行われた場所で、 比較的大きな街区に区切られていました。 それに比べ、 地区9は大今里が含まれていた場所で、 戦前のスプロールや土地会社経営が行われていて、 小さな敷地の街区が集まっていたところです。

 その両方の地区で1990年代に集合住宅が集積しています。 地区10は工場とオ−ナー住宅、 従業員アパートがあった大きな敷地が、 工場経営がうまくいかなくなって大規模マンションに建て替えられるという形で集合住宅が立地しています。 地区9では、 長屋や100坪に満たない小さな敷地が小ぶりのマンションに建て替わっていきました。


従前の用途

 次にマンションになる前は何だったのかを見てみました。

 船場(地区7)を見ると、 事業所と住宅が一体化していたものがマンションに建て替えられた例が多いことが分かります。

 東成(地区9、 10)では工場や独立住宅がマンションになっています。

 港区(地区2)では木造の共同住宅がマンションになっている例が目立ちます。

 ところで、 1970年を境にマンションの建て方がガラッと変わっていることをご存知でしょうか。 10年ごとにマンションのスタイルは変わるのですが、 大量に供給された1980年代のマンションが皆さんのイメージにあるバルコニーの並んだマンションで、 1990年代には都心居住のための政策が次々と出され、 公開空地や前面後退の手法が取り入れられたため、 集合住宅の形がさらに変わっていきました。 このことについては、 また別の機会にお話しできればと思います。

 今日は、 マンションが大衆化する前、 1970年代まではどうだったのかを流れを追って話してみようと思います。

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