大阪における集合住宅形成史
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2 大阪における集合住宅創生期

 

集合住宅の原型

 大阪の集合住宅の話の前に、 都市にとって集合住宅はどんな意味を持つのかを考えたいと思います。

 人びとが集まって住む、 そればかりか人びとがひとつの建物に住まうことはどんな意味があるのか、 どんな場合にそういうことが起きるのかを検証してみました。

 集合住宅の原型は、 すでに四大文明発生の頃から見られます。 最初は、 家族を1単位として数家族がひとつの建物に住む形でした。 中国の四合院のように、 中庭を中央にした建物などがそうです。 血縁を中心にした集住が集合住宅の最初の形と見てよいでしょう。

 その後、 家族を超えた住まい方としての集合住宅が出てきます。 中国の客家(ハッカ)の住宅のように敵の攻撃から身を守る防御型の集合住宅もあるのですが、 単に一緒に住みたいから集合住宅になるというケースも出てきます。 防御という生活上の必要性から出てきたのではなく、 自発的に集合住宅という形を選ぶわけです。

 それとは全く逆の理由で集合住宅の原型になったのが、 多くの人を効率よく住まわせるために作られた住まいです。 歴史的に有名なものとしてはゲットー、 社会住宅、 職工住宅があります。 これと一緒にすると怒られるかもしれませんが、 日本の社宅もこういう住宅の派生です。

 また、 都市で重要な集合住宅が、 都市に住む庶民のための賃貸住宅でした。


インスラとドムス/町家と裏長屋

 インスラとドムスはローマ時代に完成した住まいの形です。 道路に面した所がインスラと呼ばれる店舗や賃貸空間となっていました。 中庭にあるのがドムスと呼ばれる建物の持ち主の住まいです。 ルイス・マンフィールドによると、 中庭の気持ちのいい空間は建物のオーナーが独占し、 道に面した空間は人に貸して商売を競わせたといいます。

 それと全く逆の発想をしたのが、 日本の商家です。 ご存知の通り建物の持ち主が道に向かって店と住まいを構えた町家、 その後ろの裏路地に長屋が並んでいます。 長屋には表の商家で働く人たちが住んでいたと言われています。 商家の中にも「小僧室」という部屋があり、 建物の中にはたくさんの働く人たちが住んでいました。 この長屋と商家の構成こそ、 大阪の集合住宅の原型ではないかと思います。

 では、 これから長屋がどんな形で発展していったかを見ていきます。


大阪の長屋の発展

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図04 浜田氏貸し長屋
 明治・大正に入ってから、 長屋は多く建てられるのですが、 その中でもちょっと珍しいタイプの長屋があります。 江戸堀に建てられた浜田氏貸し長屋ですが、 木造で洋風の洒落た感じの建物です。

 この時期になると大阪にはたくさんの人が住むようになります。 大阪市でも市営住宅を建てなければならないという意見も出てきたり、 最初から人に貸すための家を建てるという商売も出てきました。

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図05a 大正期市営住宅(築港長屋並共同宿泊施設配置図))
 今はもうないのですが、 築港に建てられた長屋と共同宿泊所が一体となった市営住宅のプランです。 今の市営住宅と違う点は、 長屋が全て店舗付きで、 外側向きになっていたことです。

 大阪市は大正14年に1516戸の市営住宅を作っており、 その内訳は9割が専用住宅、 1割が店舗付き住宅でした。 しかしその9割の専用住宅は1階と2階の重ね建てになっていましたので、 実際のまちの様子は、 店舗付住宅の割合が高くなっていました。

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図05b 大正期市営住宅(今宮共同宿舎)
 今宮共同宿舎の図です。 その配置を見て下さい。 社会福祉事業として建てられた建物で、 この頃の建物は中庭を取り囲むように小さな部屋が並んでいるのが特徴でした。

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図06 築港住宅
 長屋形式の建物は市営住宅だけではなく、 民間の建物にも多く取り入れられました。 長屋がズラッと並ぶ住宅地の中央部分に中心的な建物が作られるのですが、 それが、 写真にあるような貸店舗になりました。 これは店舗付き住宅ですが、 このようななかなかハイカラな建物が地区の顔として、 四つ角を占めていました。


アパートメントの登場

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図07 木造アパートメントの例(出典:西山夘三「都市住宅の建築学的研究」)
 昭和に入り、 長屋に代わって新しく登場したのが「アパートメントハウス」です。 これは庶民向けと言うより中流階層向けとして建てられたもので、 長屋と違うのは「文化的生活」をするために建てられたという点です。 何が文化的だったかと言うと、 それは電話が付いていることだったらしく、 共同電話が付いている集合住宅がアパートメントハウスと呼ばれていました。

 大阪市社会部では、 1931年(昭和6年)にどんなアパートが大阪にあるのかを調べています。 その中で大阪の中心部(阿倍野区、 住吉区、 大正区)の18棟のアパートにどういう人が住んでいるのかを調べています。

 また、 建築学会でも「大阪市内の共同住宅の調査」を1936年に行っていて、 アパートメントが最初に建てられたのは昭和3年であることや、 大阪全域では375棟のアパートメントがあることを報告しています。 特に集中していたのは、 西成区の天下茶屋や山王地区、 旭区の新森だったようで、 都心よりは比較的縁辺部の市街地に建てられていたようです。

 戦前スプロールと呼ばれる地域にアパートメントはたくさん建てられたわけです。 木造だけでなく、 RCのアパートメントも4棟(南区、 西淀川区、 西成区、 港区にひとつずつ)あったと報告されています。 ただどれもエレベータがない建物で、 4階建てでした。

 これらの報告を見ると、 この頃のアパートメントの家賃には2倍以上の開きがあります。 洋室で10畳の部屋が一番高くて40円、 安いものでは4.5畳で8円の部屋まで様々です。

 高い部屋に住んでいる人の職業を見ると、 官吏、 弁護士、 医者、 銀行員、 会社員など。 安い部屋に住む人の職業は、 無職、 学生など。

 今そうしたアパートメントがどうなっているかを住宅地図を片手に探したのですが、 ほとんどの場合マンションに建て替わっていました。 実際にどんな建物だったのかを見ることは出来なかったのですが、 西山夘三先生が既に調査をされていて、 その頃の図面を見ることができます。 それが図7です。

 これを見て、 おやどこかで見たぞと思われるでしょうが、 先ほどお見せした市営の共同宿泊所(図05b)とほぼ同一のプランなのです。 中庭を囲んで部屋が並ぶという形が、 このころのアパートメントハウスのひとつのスタイルだったようです。

 もちろんこのような木造のアパートメントだけでなく、 大阪には有名なアパートメントハウスとして「大阪パンション」というものがありました。

 「大阪パンション」はアパートとホテルを兼業したスタイルで、 大阪の南の縁辺部に立地した関係からか演芸人や独身起業家、 知識階級の人たちにとても人気があって、 それらの人たちが好んで利用したという話です。 元々はこの建物は欧米型のアパートを目指して建てようとしたRCの建物なのですが、 『建築と社会』によると「アパートに家族式の住宅を建てることが出来なかった」という記述があります。

 日本では集合住宅の形式は長屋建てというのが基本になっていましたので、 家族が住める集合住宅の場合間口が公道に8尺(2.7m)接していないと建てられないという法律になっていたのです。 「大阪パンション」は間口がとても狭かったので、 家族向けのアパートの建設は不可能となり、 仕方なく単身者用のアパートとホテルという経営になったようです。

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図08 船場ビルディング
 今は若者に人気のオフィスビル船場ビルは1938年の建設です。 元々は1階と地下がメゾネット形式になっている併用住宅でした。 建物の地下1階には、 障子や床の間があったらしい痕跡が今も残っていました。

 上階にはパーティが催せるような部屋もあったようで、 大阪の集合住宅の中では珍しい部類に入るでしょう。 この建物は、 どうも先ほどの調査にはカウントされていなかったようです。 大阪における民間の集合住宅の一例です。

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