人びとが集まって住む、 そればかりか人びとがひとつの建物に住まうことはどんな意味があるのか、 どんな場合にそういうことが起きるのかを検証してみました。
集合住宅の原型は、 すでに四大文明発生の頃から見られます。 最初は、 家族を1単位として数家族がひとつの建物に住む形でした。 中国の四合院のように、 中庭を中央にした建物などがそうです。 血縁を中心にした集住が集合住宅の最初の形と見てよいでしょう。
その後、 家族を超えた住まい方としての集合住宅が出てきます。 中国の客家(ハッカ)の住宅のように敵の攻撃から身を守る防御型の集合住宅もあるのですが、 単に一緒に住みたいから集合住宅になるというケースも出てきます。 防御という生活上の必要性から出てきたのではなく、 自発的に集合住宅という形を選ぶわけです。
それとは全く逆の理由で集合住宅の原型になったのが、 多くの人を効率よく住まわせるために作られた住まいです。 歴史的に有名なものとしてはゲットー、 社会住宅、 職工住宅があります。 これと一緒にすると怒られるかもしれませんが、 日本の社宅もこういう住宅の派生です。
また、 都市で重要な集合住宅が、 都市に住む庶民のための賃貸住宅でした。 2 大阪における集合住宅創生期
集合住宅の原型
大阪の集合住宅の話の前に、 都市にとって集合住宅はどんな意味を持つのかを考えたいと思います。
図07 木造アパートメントの例(出典:西山夘三「都市住宅の建築学的研究」) |
大阪市社会部では、 1931年(昭和6年)にどんなアパートが大阪にあるのかを調べています。 その中で大阪の中心部(阿倍野区、 住吉区、 大正区)の18棟のアパートにどういう人が住んでいるのかを調べています。
また、 建築学会でも「大阪市内の共同住宅の調査」を1936年に行っていて、 アパートメントが最初に建てられたのは昭和3年であることや、 大阪全域では375棟のアパートメントがあることを報告しています。 特に集中していたのは、 西成区の天下茶屋や山王地区、 旭区の新森だったようで、 都心よりは比較的縁辺部の市街地に建てられていたようです。
戦前スプロールと呼ばれる地域にアパートメントはたくさん建てられたわけです。 木造だけでなく、 RCのアパートメントも4棟(南区、 西淀川区、 西成区、 港区にひとつずつ)あったと報告されています。 ただどれもエレベータがない建物で、 4階建てでした。
これらの報告を見ると、 この頃のアパートメントの家賃には2倍以上の開きがあります。 洋室で10畳の部屋が一番高くて40円、 安いものでは4.5畳で8円の部屋まで様々です。
高い部屋に住んでいる人の職業を見ると、 官吏、 弁護士、 医者、 銀行員、 会社員など。 安い部屋に住む人の職業は、 無職、 学生など。
今そうしたアパートメントがどうなっているかを住宅地図を片手に探したのですが、 ほとんどの場合マンションに建て替わっていました。 実際にどんな建物だったのかを見ることは出来なかったのですが、 西山夘三先生が既に調査をされていて、 その頃の図面を見ることができます。 それが図7です。
これを見て、 おやどこかで見たぞと思われるでしょうが、 先ほどお見せした市営の共同宿泊所(図05b)とほぼ同一のプランなのです。 中庭を囲んで部屋が並ぶという形が、 このころのアパートメントハウスのひとつのスタイルだったようです。
もちろんこのような木造のアパートメントだけでなく、 大阪には有名なアパートメントハウスとして「大阪パンション」というものがありました。
「大阪パンション」はアパートとホテルを兼業したスタイルで、 大阪の南の縁辺部に立地した関係からか演芸人や独身起業家、 知識階級の人たちにとても人気があって、 それらの人たちが好んで利用したという話です。 元々はこの建物は欧米型のアパートを目指して建てようとしたRCの建物なのですが、 『建築と社会』によると「アパートに家族式の住宅を建てることが出来なかった」という記述があります。
日本では集合住宅の形式は長屋建てというのが基本になっていましたので、 家族が住める集合住宅の場合間口が公道に8尺(2.7m)接していないと建てられないという法律になっていたのです。 「大阪パンション」は間口がとても狭かったので、 家族向けのアパートの建設は不可能となり、 仕方なく単身者用のアパートとホテルという経営になったようです。
図08 船場ビルディング |
上階にはパーティが催せるような部屋もあったようで、 大阪の集合住宅の中では珍しい部類に入るでしょう。 この建物は、 どうも先ほどの調査にはカウントされていなかったようです。 大阪における民間の集合住宅の一例です。