1. 都市風景の立ち現れ
同里(中国) |
この写真の中にはいろんな人がいます。 川で洗濯をしているお母さんがいますし、 上半身裸でそれを見ているおじいさん、 船をこいでいる人、 川岸を散歩しているアベックらしい二人連れ。
この中で、 おそらく洗濯をしている人には環境は風景として立ち現れていないと思うんです。 しかし、 船に乗っている人はおそらく観光客でしょうから、 風景を見ていると思われます。 おじいさんもたぶん風景を見ているでしょう。 二人連れが恋人同士だとすれば、 場所の雰囲気は重要なのですが、 どういう状況の二人かによって、 これが風景に見えるかどうかが違ってきます。 そして、 この全体を写真に撮っている私は、 もちろん風景としてこの環境を見ています。 このように、 視覚的な環境が常にすべての人にとって風景として立ち現れるわけではないことを、 ここで確認しておきたいと思います。
北欧の風景(Auland) |
ノルウェーのフィヨルドの風景などは、 時間を超えて美しい、 つまり新しくも古くもならない風景だと思います。 決して歴史的な町並みではないし、 特定のエリアに限られているわけでもないのですが、 そういう美しい風景が存在することを見ていただくために写真を用意しました。
では都市についてはどうでしょうか。
たとえば皆さんはフェルメールが描いた「デルフトの眺望」をご存じでしょう。 あの絵のように、 ヨーロッパでは、 17世紀頃から都市を風景の対象として描くようになっていました。
一方、 東洋では、 日本もそうなのですが、 雪舟が描いた「天橋立図」のように、 初期の風景画は山水など自然を描くことがメインでした。 都市を描くときは「洛中洛外図屏風」や「大阪市街図屏風」のように上から鳥瞰する視点で描かれることが普通でした。
しかし、 江戸時代も後半に入ると、 浮世絵等にもあるように、 地上の風景の対象として都市が捉えられるようになってきました。
風景という言葉自体がこの頃すでに使われています。 明治の始めぐらいまでは、 雨のなかの都市の橋を主題として描いた「東京新大橋雨中図」のような形で、 都市が風景として描かれていました。